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【元警察官連続強盗殺人事件#1】行方不明になった宝石商|伝説の刑事「マル秘事件簿」

 警視庁捜査一課のエースとして、様々な重大事件を解決に導き、数々の警視総監賞を受賞した“伝説の刑事”と呼ばれる男がいる。
 大峯泰廣、72歳――。
 容疑者を自白に導く取り調べ術に長けた大峯は、数々の事件で特異な犯罪者たちと対峙してきた。「ロス事件(三浦和義事件)」「トリカブト保険金殺人事件」「宮崎勤事件」「地下鉄サリン事件」……。
 老境に入りつつある伝説の刑事は今、自らが対峙した数々の事件、そして犯人たちに思いを馳せている。そして、これまで語ってこなかった事件の記憶をゆっくりと語り始めた。/構成・赤石晋一郎(ジャーナリスト)

宝石商の捜索願

 その一報が入ったのが昭和59年10月のことだった。

「これ事件性あると思いますよ」

 と言って、家出人捜索願を受けた防犯係の職員が刑事課長のところに訪ねてきたのだ。聞くと、捜索願を出したのは太田三起夫氏という宝石商の内縁の妻だという。

「澤地和夫という男に会うと言って出かけたきり帰ってこない。失踪する理由が思い当たらない」

 彼女はこう訝しがっていた。

 前代未聞の元警察官による連続強盗殺人事件は、この一言から始まった。

 その頃、私の勤務地は警視庁捜査一課から王子署へと変わっていた。

 警察官には人事異動がつきものだ。

 警視庁捜査一課強盗犯捜査係で「KO強盗事件」を担当した後、私は殺人犯捜査係9係に転じていた。“殺し”の刑事として「『無尽蔵(※古物商店)』店主殺人遺棄事件」など4件の殺人事件を担当した。昇任試験に合格して階級は警部補になっていた。丸3年の期間を捜査一課で過ごし、仕事も充実していたが、やがて一課を離れなければならない時期が来ることも理解していた。

 辞令が出たのは昭和58年7月だった。行き先は王子署(東京都北区)。警ら係長として赴任(今でいう地域課)をすることになった。

 飛鳥山公園という桜の名所の先に王子署はあった。刑事時代はスーツが基本だったので、久しぶりの制服勤務だ。勿論、刑事の仕事をやりたかったが、こればっかりは空席が出るのを待つしかない。当時、王子署刑事課には人員の空きがなかった。

 刑事として復帰したのは半年後。王子署の刑事課・強行犯捜査係長として部内移動の辞令が出たのだ。刑事課には鑑識係、強行犯捜査係、知能犯捜査係、窃盗犯捜査係、暴力犯捜査係がある。当時の強行犯捜査係は、大峯係長以下、3名の布陣だった。

「大峯です。よろしく」

 小さなチームのトップとして任命された私は手短に挨拶をした。

 部下は2人。まだ20代と若く明るいタイプの田中巡査長、30後半で堅実な性格をしている楠本巡査部長だ。田中巡査長は刑事経験がなく、指導が必要だった。楠本巡査部長は中堅であり仕事を一任出来るしっかり者だった。

 とはいえ、捜査一課にいる猛者に比べれば、いささか心許ない布陣であることは確かだ。

 防犯係の相談を受け、私は刑事課長より強行犯捜査係で検討するよう指示を受けた。

 事件性を強く感じたので、すぐさま捜査に着手することにした。係長になれば独断で捜査を開始できるのだ。

愛人の赤い車を池袋で発見

 早速、この3人のチームで地取りを開始した。

 行方不明になる前の太田氏が向かったのが、池袋のサンシャイン・プリンスホテルだった。だが、ホテルの駐車場には太田氏が乗って行った赤い乗用車はなかった。

 そこで、田中と2人で周辺の駐車場をしらみ潰しに調べあげた。

「係長! ありました!!」

 田中巡査長が声を弾ませて走ってきた。

 西武デパート近くの駐車場に赤い車があったのだ。

 この車は愛人が所有していたもの。ナンバーを照会し、太田氏の乗っていたものと断定した。

 駐車場記録を調べると、澤地と会った日から車はずっと止められたままだった。

「これはおかしいな。澤地という男と何かあった可能性が高い。ヤツを洗おう」

 私は田中に指示を出した。

 捜査関係事項照会書を用意させ、戸籍等を洗い出し、徹底的に周辺者に聞き込みを行った。

 出てきたプロフィールは意外なものだった。

 澤地和夫は、旧姓・橋本和夫といって元警察官だった。当時の捜査メモにはこうある。

〈昭和33年9月、高校卒業後に警視庁巡査として採用。警察学校卒業後、大森署巡査部長に配属され。その後、機動隊に転勤。60年安保でデモ警備を担当する。“橋長(ハシチョウ)”(橋本巡査部長)と呼ばれ部下・同僚から信頼されていた。昭和55年1月、東村山警察署警備係長警部補退職、任警部(退職時に階級が上がった)となる〉

 元同僚に聴取すると、現役時代の澤地は周囲から尊敬される“理想の警察官”だったことがわかった。40代で退官しビジネスに着手したことで、華麗なる転身を図ったと周囲には思われていた。

 しかし、澤地はその後転落人生を歩むことになる。

 元同僚によると、現在、多くの人間から借金を重ねているという。

居酒屋経営で作った多額の借金

 なぜ借金をしたのか。

 澤地は退官後、新宿の一等地に「橋長」という居酒屋をオープンしていたのだ。

 店名の橋長は警察官時代のあだ名。いかにアイツが警官時代の自尊心を捨てることが出来なかったかが、この居酒屋の店名にも表われていたと、今になっては思える。

 開店資金の4000万円は借金で賄った。保証協会から700万、国民金融公庫から2300万、サラ金から500万、信用金庫500万から借り入れていることもわかった。

 保証人はいずれも警官時代の元同僚か部下だ。

 素人商売の難しさで経営は火の車だったという。

 ある警察官は、次のように証言した。

「橋長では『金の鯛を食わせる』と噂になっていました」

 店の客はほぼ警官。そこで澤地はタダで酒を飲ませ、後で借金を申し込むことを繰り返していた。タダより高い物はない。そういう意味で「金の鯛を食わせる」と揶揄されていたのだ。

 結局、橋長は昭和58年に負債1億5000万を抱えて倒産していた。姓を橋本から澤地へと変えたのは、その後だ。姓まで変えたのは、多額の借金が原因である可能性が高かった。

 まず澤地を署に呼ぶことにした。ところがアイツは署の受付まで来たものの、踵を返して聴取を受けないまま帰ってしまった。

「ますます変だ。やつは借金返済に追われていたはずだ。動機はあるな」

 私は独りごちた。

 同じ頃、築地署のマル暴担当刑事からこんな情報が寄せられた。

「澤地という男が暴力団員に宝石を売っている」

 行方不明になっているのは宝石商。これは大事件だ、間違いない――そう確信した。

 しかし、所轄の刑事は捜査以外にも警備等の雑務もこなさないといけない。先に述べたとおり、王子署の強行犯捜査係の人員は、私を含め3人しかいない。思案した末、警視庁捜査一課に協力要請をかけることを決断した。

 まだ事件化はしていないが事件の可能性がある事件を捜査することを「掘り起こし事件」という。捜査一課に掘り起こし事件の捜査を要請するときは、警視庁捜査一課庶務担当管理官が受付窓口となっていた。

 当時の管理官は、古賀美文氏だった。ところが警視庁に問い合わせると、古賀管理官は警察大学校での研修に行っており長期不在だという。

 堅実な捜査で情報を吸い上げてきた田中巡査長と楠本巡査部長の働きは素晴らしく、私は王子署強行犯捜査係の長として何としてもこの事件を解決したいと燃えていた。

 これは直談判しかないな、と行動に移すことにした。

「管理官、事件は急を要します。ぜひ一課の力を貸してください!」

 私は深く頭を下げた。

「警察大学校まで押しかけてくるとはな……」

 古賀管理官は苦笑いだった。

「ぜひご検討をお願いします」

 事件性があると思う理由をまとめたレポート、人間関係を書いたチャート図を渡した。強行犯捜査係の3人で調べ上げたレポートを読めば捜査一課は必ず動いてくれると信じていた。

動き出した警視庁捜査一課

 研修を終えた古賀管理官から「捜査やるぞ」との連絡が来た。

 11月20日、すぐさま警視庁捜査一課から「若林班」が王子署へと投入された。若林班の捜査員は一課の刑事10名で構成されている。班を率いる若林忠純警部は亀有署時代の先輩で、テキパキと物事を進められる頭の回転の早い人物だ。

 王子署強行犯捜査係は若林班の配下に入った。私は事件の概要を改めて若林警部に説明した。

 再捜査に入り、捜査員が一度、電話で澤地に話を聞いた。しかし、「私は一切知りません。池袋で会いましたが、別れました」と否認されて終わっていた。

 強盗殺人の疑いは濃厚だが、証拠は一切ない。自白させるしか手段はなかった。

「よし、澤地を引っ張るか」

 若林警部が指示を出した。

 11月23日早朝、千葉県津田沼にある澤地が経営していた探偵事務所に10名の捜査員が急行した。私も一員として参加した。

 寝ぼけ眼の澤地を叩き起こし、任意同行で王子署まで連行した。

 澤地は生真面目風な人相とガッチリした体格を持つ男だった。 

 当時の心境について、澤地は自著『殺意の時 元警察官・死刑囚の告白』(彩流社)でこう書いている。

〈そう考えていくと、ひょっとして逮捕されたのは自分だけかもしれない。そうであるなら、私が自供しない限り仏さんは出ないであろう。どんなきつい取調べであっても、目的意識がはっきりしていれば、自供しない自信はある。〉(以下、引用は同書より)

 彼はおそらく「黙秘」を続けるつもりだったのだ。

 取調べに臨んだのは、捜査一課の斉藤辰八郎警部補と私だった。斉藤警部補は一課時代の“面グレ”つまり顔見知りだったので気心は知れている。

「てめぇには一切しゃべらないからな!」

 澤地は当時45歳。私より10歳ほど年長者だ。しかし、経歴を見て“落とせる”と読んでいた。

 澤地は警察官時代、そのほとんどを警備係の機動隊員として過ごしていた。刑事の取調べノウハウや手口は知らないはずだ。

 私は攻撃的に彼を問い詰めた。

――お前が太田を殺ったんだろ。

「いや知りません」

――間違いないんだよ。

「池袋で太田とは別れました」

――じゃあ、なんで太田の車が池袋にあるんだ。家に帰ってねぇじゃないか。

「知りませんよ」

――正直に話せよ。

「いや知りませんよ。会ったけど別れたので」

 澤地は淡々と否認を続けた。若造警官の追及くらいはかわせるとタカをくくっていたようにも見えた。

 時間が刻々と過ぎて行った。更に澤地を揺さぶる作戦に出ることにした。

 澤地は犯行前、ある宗教に入信していた。信者を前に講演まで行っていたのだ。

 自著でもこう書いている。

〈私は信心の素晴らしさを入信依頼数ヶ月で知った。(中略)創価学会のことを中傷する人もいる。私も入会する迄、少なからずそんな気もあった。しかし、入会して、実際に自分の目で確かめ、肌で触れてみて、その組織の人間的な温か味をまず感じた〉

 しかし、太田氏が行方不明になったのは入信してほんの数ヶ月後のことだ。宗教に入信しておいて人を殺めるなんて、そんな馬鹿な話はない。

 私は強い口調で問いかけた。

「おい澤地、お前は宗教に入信しているらしいな。笑わせるんじゃないよ。仏様が泣いてるぞ。お前の信心はカムフラージュだ。そうだろ!」

 澤地の顔色はみるみるうちに変わっていった。

 やおら立ち上がると、私を指さしてこう咆吼した。 

「てめぇには一切しゃべらないからな!」

 パイプ椅子が大きな音を立てて転がったーー。

#2へ続く

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