
【5-WITHコロナの時代】新型コロナワクチン 驚愕の開発競争と争奪戦|須田桃子
文・須田桃子(NewsPicks副編集長)
ワクチン業界は『筋トレ』ができている
新型コロナウイルスのワクチンをめぐる開発競争が激しさを増している。
WHO(世界保健機関)の2020年10月19日時点のまとめでは、実際に人に投与して安全性や有効性を調べる臨床試験に入ったワクチン候補は44種類。そのうち10種類では、最終段階となる数万人規模の第3相試験を実施中だ。先頭グループの企業は、大量生産に向けた製造拠点の整備も同時並行で進めている。
通常、ワクチンの開発には動物を使った前臨床試験だけで数年、承認まで10年はかかるとされるなか、極めて異例のスピードだ。
石井健・東京大学教授(ワクチン科学)は、この状況を「まさに、破壊的イノベーションが起きている真っ最中だ」と解説する。「20年ほど前から、ワクチン業界ではイノベーションの地殻変動がずっと起きており、言葉は悪いが『筋トレ』ができている業界だった。医学的にも科学的にも爆発前夜だったところへ、今回のパンデミックが起きた」
実際、第3相試験に入った10種類のうち6種類は、まだ広く使われたことのない、新しいタイプのワクチンだ。
中でも最も早く臨床試験にたどり着いたのが、NIH(米国立衛生研究所)と共同開発を進める米国のバイオベンチャー、モデルナだった。
1月11日に中国の研究チームが新型コロナウイルスの遺伝子配列を公表すると、その2日後にはワクチンの設計を終え、3月16日には第1相試験の被験者への投与を発表した。
なぜこれほど速かったのか。それを説明する前に、まず「ワクチンとは何か」を簡単におさらいしておきたい。
私たちの体には、過去に侵入してきたウイルスや細菌などの病原体を記憶した「抗体」を作り、再び同じ病原体がやってきたときに撃退する「獲得免疫」という仕組みが備わっている。
病原性を弱めたり(弱毒化)、体内で増えないようにしたり(不活化)した病原体、あるいは病原体の一部を、「抗原」として投与すると、免疫反応が起きて抗体が作られる。すると、本物の病原体が侵入してきたときに、発症や重症化を防ぐことができる。これがワクチンの基本的なコンセプトだ。
一方、モデルナのワクチンの場合は、抗原そのものではなく、その「設計図」となる遺伝物質を投与する。体内で設計図通りに抗原が作られると、あとは従来ワクチンと同様に抗体が作られる。言わば人の体を、従来型ワクチンの「生産工場」として使うアイデアなのだ。
設計図として使うのは、メッセンジャーRNA(リボ核酸)。生物の細胞の一つ一つに収まったDNA(デオキシリボ核酸)からさまざまなタンパク質が作られる際、DNA上の必要な指令をコピーして、細胞内でタンパク質を生産している小器官に伝える分子だ。
RNAもDNAも、4種類の塩基という物質が連なってできていて、その配列さえ決まれば実験室で合成できる。鶏卵を使って病原体のウイルスを大量に増やして作る従来のワクチンに比べ、はるかに容易で時間もかからない。
だが、モデルナの速さの理由はそれだけではない。新型コロナの流行前に、すでに同じコンセプトで、ジカ熱やRSウイルスなど7つの感染症のワクチンで臨床試験を開始していた。いずれも市販化に至ってはいないものの、RNAを脂質でくるんで製剤化する基本的な技術はすでにあった。石井教授の言葉を借りれば「筋トレ」が十分にできていたわけだ。
ルーツは山中教授の研究
「実は、これは『日本』から始まった。山中伸弥教授による素晴らしい発見が、アイデアの発端になっている」
モデルナの共同創業者で生物学者のデリック・ロッシ氏は、NewsPicksの取材で創業の意外な経緯を語った。
京都大学の山中教授らは2006年、マウスの体細胞にわずか4種類の遺伝子(DNA)を導入し、受精卵に近い状態に「初期化」してiPS細胞(人工多能性幹細胞)を作製したと発表した。
ロッシ氏は論文に感銘を受け、翌年ハーバード大学医科大学院に自分の研究室を持った際、DNAではなくRNAを使ってiPS細胞を作ろうと試みた。細胞に導入したDNAからRNAができる過程を「ショートカット」し、RNAから直接、初期化に必要なタンパク質を作らせようと考えたのだ。
ところが、当初の実験は失敗する。細胞の外から入れたRNAが異物と認識され、強い免疫反応が起きてしまうのが原因だった。
打開策を探したロッシ氏は、ハンガリー出身の女性研究者、カタリン・カリコ氏らが2005年に書いた論文に着目する。RNAにある修正を施せば、細胞や生体に入れても「異物」扱いされないことを示す、画期的な内容だった。
ロッシ氏らはこの方法で修正したRNAを細胞に入れ、iPS細胞を作製することに成功。さらに、入れるRNAの設計を変えれば、細胞内で多種多様なタンパク質――医薬品として働くタンパク質すらも――を作り出せると気づいた。これが、2010年に起業するきっかけになったという。
一方、RNAの修正技術を発明したカリコ氏も、研究当初から医療応用を目指していた。現在はドイツのバイオベンチャー、ビオンテックで役員を務める。同社も米ファイザーと共同で新型コロナのRNAワクチンの開発を進め、第3相試験に入っている。
NewsPicksの取材にカリコ氏は、「RNAを治療に使うというアイデアは、モデルナが最初だったわけではない。私は80年代半ばからアイデアを温めていた」と自負を見せつつも、RNA医薬品を開発する企業同士で情報交換することもあると明かし、「モデルナはライバル企業だが、新しいテクノロジーを世に出そうとしているという意味では仲間でもある」と語った。
さて、人の体内に設計図を送り込み、抗原を体内で作らせるという発想のワクチンには、他に2つのタイプがある。
いずれも、抗原の設計図として、RNAではなく、DNAを細胞に送り込むのだが、その手法が異なる。
その一つは、DNAの運び役(ベクター)として、風邪を引き起こすウイルスの一種、アデノウイルスを使う。接種するとアデノウイルスがヒト細胞に感染し、組み込まれたDNAが細胞内に入って抗原を作る仕組みだ。
もう一つのタイプでは、「プラスミド」という環状のDNA分子を運び役に使っている。日本のバイオベンチャー、アンジェスと大阪大学、米国のバイオ企業、イノビオ・ファーマシューティカルズがそれぞれ開発に取り組み、第1/2相試験を実施中だ。
アンジェスには、プラスミドを使った遺伝子治療薬を上市した経験があり、高血圧治療を目的としたワクチンの臨床試験も海外で並行して進めている。創業者の森下竜一・大阪大学教授(臨床遺伝子治療学)は「世界でも、臨床用のプラスミド製品を医薬品として発売しているのは我々だけ。製造・販売を含めたノウハウがあり、川上ではなく、川下から発想できるのが最大の強み」と強調する。