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『論語』(前編)|福田和也「最強の教養書10」#6

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、東洋において広く読まれて、歴史上の人物に多大なる影響を与えてきたこの1冊。(前編)

 今から二十年前、世紀が変わろうとする二〇〇〇年に、『文學界』で西部邁先生と論語をテーマに対談をしたことがあった。

 発案者は私だった。

 聖徳太子の時代から明治まで、日本の知識人たちは『論語』を読み、対話をすることで自分たちの思惟や解釈能力を鍛えてきた。そこから日本人の精神的営為の大きな部分が出てきたことは否定できない。ところが、その伝統が戦後半世紀にわたって途絶えてしまった。そこで紀元二〇〇〇年を機に、あらためて『論語』を読み直したいと思ったのだが、一人で論じるのではなく、『論語』にならい、誰かとの対話という形にしたかった。

 私がものを書き始めたのは平成に入ってからだが、書き始めの頃は血気盛んで、あらゆる知識人に噛みついていた。西部先生もその一人だった。ところがある晩、新宿の風花というバーで一人で飲んでいたら先生が入っていらして、初めて直接話をさせていただいたところ、何だかとてもしっとりしていて、柔らかな感じがした。自分が批判している西部邁と実際の西部邁は違うのだということに、このとき気づいた。

 その後、先生が主宰する『発言者』に招かれたりして親交が深まり、先生の著書、『知性の構造』や『思想の英雄たち』を読むうちに、なるほど先生はこういうことを考えていたのかと分かってきた。

 私なりに摑んだ西部的な保守というのは、文学者が提示するような保守、つまり伝統をある程度実体的にとらえてそれを護持していくという形で保守を捉えるのではなく、精神の運動の必然として保守を捉えていく。その運動のあるべき姿を考えていくときに先生は「中庸」という言葉を使っていた。確かに先生が展開されてきた保守論の中のエッセンスには平衡感覚があり、それは孔子の哲学にきわめて類似しているように思えた。

 『論語』について語る相手は西部先生以外にないと、私からお願いすると、先生は快諾してくださり、漢学者の木村武雄さんの協力のもと、五回におよぶ対談が実現した。

 対談の内容は、『論語』が説くところの「友」とは、「怒り」とは、「狂」とは、「学ぶ」とは、「徳」とはどういうことか、孔子とはどのような人物だったのか、「論語」が日本に与えた影響はいかなるものだったかなど多岐にわたった。

 実はこの対談にはもう一つ、私なりの目的があった。それは西部先生の座談の味を活字で残しておきたいということだった。先生は座談会などの原稿はゲラできっちり直されてしまうため、座談の場でのいきいきとした風貌が消えてしまうのを私はいつも残念に思っていた。だから、この対談はあまり手を入れずに、できる限り先生の面白さを伝えたいと思ったのである。
二十年ぶりに読み返してみて、その試みが成功していたことを改めて実感した。一つ一つの発言に先生の息遣いが感じられ、おととし亡くなられた先生が偲(しの)ばれ涙が出そうになった。

 私は、孔子の言葉を対話という形を取り入れて後世に残そうとした弟子たちに強い共感を覚えたのだった。

西洋において最も広く読まれ、影響を与えてきた本が『聖書』である一方、東洋において同様の地位を占めるのが『論語』である。

 日本人であれば、『論語』は学校の教科書で一度は触れたことがあるだろう。内容をよく覚えていなくても、「子曰く~」という各章句の出だしの言葉は記憶に残っているのではないだろうか。

「子曰く」が「孔子がおっしゃるには」という意味である通り、『論語』は孔子の弟子が、先生の教えを後世に残そうと、その言葉をまとめた本である。

 考えてみたら不思議な話だ。小国で多少重い位についたことがあったにしろ、無位無官に等しく人生を終えて、何人かの弟子から尊敬を集めて、その内のほんの一握りと肝胆相照らした人間が、一文明圏と言われるようなものまで構成する思想家となり、彼の言葉をまとめた『論語』が時を越え、国を越えて受け入れられていったのであるのだから。

 一体孔子とはどのような人物であったのか。まずはその人生を追ってみたい。

 孔子は紀元前五五一年頃、魯の国で生まれた。

 この時代の中国は「春秋時代」と呼ばれ、大きな変動期を迎えていた。前七七〇年、周の王室は異民族の侵入を避けるため、都を関中地方から東の洛邑に移した。すると地方の諸侯たちは王室の統制を離れ、各々の思惑によって同盟や戦争を繰り返すようになった。弱小の都市国家を統合した有力諸侯が出現し、魯もその一つだった。

 孔子の父、叔梁紇は下級武士だったが、城門を持ち上げるほどの怪力の持ち主で、魯の国では無頼の勇士として知られていた。父の遺伝なのだろう、孔子は身長一九〇センチの巨体だったという。紀元前のその頃だから、巨人といってもいい。 

 孔子の父親は二度結婚している。最初の妻との間に、足の不自由な男子一人と女子九人の子供をもうけたが、その最初の妻が亡くなったのか、再婚し、二番目の妻との間に生まれたのが孔子だった。

 ところが、父は二番目の妻と同居しなかった。そもそも正式な結婚をしていなかったのではないか、という説もある。「二人は『野合』して孔子が生まれた」という記述が『史記』の中にあるからだ。

 孔子の母親の顔徴在は冠婚葬祭を取り仕切る宗教者の家系だったようで、そのために正式な結婚が許されなかったのかもしれない。あるいはこの頃の中国は男性が六十四歳を越えて結婚して生まれた子供については、みな「野合」としていたとも言われ、孔子の父が老齢で再婚したため「野合」と記されたとも考えられる。

 孔子が三歳のときに父親が亡くなってしまったため、足の不自由な義兄にかわって、孔子が倉庫番や牧場の飼育係などをして父の家のために働き、生活を支えるようになった。

 吾れ少くして賤し。故に鄙事に多能なるなり。

 これは『論語』の「子罕篇」の言葉である。「私は少年のころ貧しかった。だから、いろいろな雑役(鄙事)をこなすことができるのだ」と、孔子は自ら弟子たちに語っていた。

 一方でこんな記述もある。

孔子 児為りしとき、嬉戯するに、常に俎豆を陳ね、礼容を設く。

 『史記』の記述であるが、「孔子は子供の頃、遊ぶときはいつも祭器の俎豆(そとう)を並べ、礼儀を用いた」はとても貧しい家の子供とは思えず、『論語』と矛盾する。

 恐らく孔子は幼い頃、母の家で育ち、少年になって父の家に移ったのではないだろうか。

 宗教者の母は、雨乞いなどの儀式の際には、祭器を用いてお供えをし、音楽を演奏し、祈りの言葉を捧げた。そうしたものに幼い頃から接していた孔子は遊ぶときに、祭器の俎豆を並べたのだろう。文字も母の家で習ったに違いない。当時、文字を読み、書ける人間は限られていた。文字を用いることのできる母親を持ったが故に、孔子は文字を習得することができた。
それが彼の勉強への道を開いたのである。

 勉強といったところで先生について学ぶ時間も金もない。幼い孔子にとって勉強とは父の家で雑役をこなすことだった。倉庫番や飼育係などで現実問題に対処し、自分で解決策を模索する、それこそが勉強だったのだ。

 これはある意味、デカルトに通じる。デカルトはラシーヌやパスカルと同じ法服貴族の出である。ラシーヌはきちんと勉強して法律家になり、パスカルも数学や神学の道に入っていったが、デカルトは博打ばかりしていて家を追い出され、世界中をうろつきまわった果てに、「われ惟(おも)う、ゆえにわれあり」という概念に至った。

 つまり、鄙事(ひじ)中の鄙事をさんざん歩いた人間が結局、抽象的な概念にたどり着いた。孔子もまた鄙事という勉強を重ね、最終的に物事を抽象的にとらえる域まで達した。その彼がとらえた概念が『論語』に集約されているのである。

 また『論語』は孔子の人生をたどる上でも重要な文献である。

 孔子の伝記は司馬遷が著わした『史記』の中の「孔子世家」が最初であるが、これは孔子の死後、三百五十年も経ってから書かれている。『史記』は中国の正史であるから、古い国々の公文書を参考にして書かれたと思われるかもしれないが、実はいちばん参考にしているのが『論語』なのだ。具体的に言うと、『論語』から取った個所は六十八、『孟子』が十四、『左伝』が九、『礼記』が六、それ以外の、出典から分からない記述が十数個所ある。
その後に出た伝記、『孔子家語』や『孔叢子』が「孔子世家」を元にしていることを考えると、結局、孔子の人生がいちばん詳しく書かれているのは『論語』ということになる。

 子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命知り、六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。(為政篇)

『論語』の有名な言葉にあるように、孔子は十五歳のときに学問の志を立てた。

 一生農民で終わるつもりはなく、また母のように宗教者になる気もなかった。戦乱の時代に生まれた孔子は知識を身につけ、いずれ魯の国のために働きたいと考えたのだろう。

 鄙事に携わるような実学ではなく、詩、書、礼、楽といったその頃の教養を身につける勉強を始めたのだ。ただ何処で勉強したかについてはさだかではない。『史記』には孔子が洛陽まで行って、老子に学んだと書かれているが、これは古くから疑問視する人が多かった。貧しい孔子が洛陽までいくのは困難であるし、この時代に「老子」の思想は確かにあったけれど、誰が老子なのかは特定できないからである。

 子曰く、三人行えば、必ず我が師あり。其の善き者を択んでこれに従い、其の善からざる者にしてはこれを改む。(述而篇)

 特定の師を持たなくても、世の中には学ぶべき師はたくさんいると孔子は言っている。また「子張篇」には子貢の「先生は誰を師匠とさだめたわけではない」という言葉もあり、孔子は特定の師について勉強したわけではないようだ。働きながら自分のできる範囲でいろいろな師について勉強を続けたのだろう。勉強にだけ集中できるような環境ではなく、手探りで進んでいくしかなかったため、勉強には時間を要した。

 それでも三十歳ともなると、博学の士であることが世間に認められるようになり、孔子は塾を開いた。「三十にして立つ」ことができたのである。

 塾を開きたくさんの弟子を持つようになったものの、人材の育成だけが孔子の望みではなかった。彼は勉強を積むうちに、自分の理想とする人物を見つけた。それは周王朝を建てた武王、武王の父の文王、武王の弟の周公であった。周建国の高い志が失われ、秩序が乱れたこの時代に、周の政治と文化を復興させることが孔子の願いとなった。そのためには自分が政治家として世に立なければならないと考えていたのである。

 しかし、貧しい農民の出である孔子には人脈も伝手もなく、望む道は一向に開かれなかった。そこを耐え忍びながら孔子は弟子たちを教え続けた。

 この頃、魯国では君主の昭公を差し置いて、重臣の季孫、叔孫、孟孫の三桓(桓公の子孫)が実権を握っていた。それに憤った昭公は三桓を討とうとしたが失敗し、斉に逃れた。孔子はこの状況にいたたまれなくなり、斉の国に亡命する。大国の斉で登用されれば、自分の力が発揮できると考えた孔子は高官たちに働きかけたが、仕官はかなわず、仕方なく魯の国に戻った。

 この時の心境は『論語』の最初の言葉に端的に表れている。

 子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍らず。亦君子たらずや。(学而篇)

「人が自分を知らなくても不満を抱かない、それが君子というものではないか」。こうして不遇の時耐えた孔子は、「四十にして惑わず」の境地に達した。

 孔子が四十二歳のときに昭公は亡くなり、弟の定公が魯国の君主となった。孔子の存在は国内でいよいよ知られるようになっていて、定公は孔子を自分の臣下にしたいと考えた。

 定公が君主になって七年後、三桓の家臣たちが連合して反乱を起こし、魯国の政権を奪おうとした。結局家臣たちは敗北して他国へ亡命したが、三桓の権威も大きく失墜した。これを機にと、定公は権威の巻き返しをはかった。その一環として、孔子を中都という都市の行政長官に任命したのである。

 五十歳にして孔子は念願の役につくことができた。「五十にして天命を知る」こととなったのだった。
 中都で徹底した徳治を行った孔子はその成果を認められ、一年で中央政府の政権を担うことになった。はじめは司空(建設次官)だったが、五十五歳で大司寇(法務大臣)にまでなった。途中、定公に付き添って、名外交家ぶりも発揮している。

 子曰く、千乗の国を道むるには、事を敬みて信あり。用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。(学而篇)

「諸侯の国を治めるには、できるだけ事業をひかえめにして公約を守り、経費を節約して租税を安くし、人民を力役に使うには農時を避けるのが大切だ」

 これが孔子の行った徳治であった。

 徳治に導かれ、魯国の人々の道徳意識は高まり、国は強くなっていった。それに危機感を覚えた隣国の斉は、魯国の道徳を破壊しようと企てた。

 斉人、女楽を帰る。季恒子これを受け、三日朝せず。孔子行る。(微子篇)

 斉は歌と踊りのできる美女たちを魯国の重臣、季恒子に贈った。すると季恒子はまんまと術にはまってしまい、定公を誘って遊興に耽り、三日も役所に現れなかった。それを見た孔子は絶望し、辞職をして魯を去った。五十六歳だった。

 以後、孔子は、曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚などの国々を流浪し、自分の理想とする政治を実行してくれる君主を探し求めた。

 ただ孔子は一人ではなかった。大勢の弟子をともない、日々勉強を行う、移動式の塾が展開されたのだ。財政の実務に長けた子貢や、自分と性格が相通じる顔淵など優れた弟子たちに支えられた旅だったのである。

 孔子と弟子たちの放浪の旅は十四年におよんだ。けれど孔子を採用してくれる国はなかった。そこに、「陳蔡の厄」が起きた。陳と蔡の国境付近で、孔子一行が襲撃され、糧道も断たれ、絶体絶命の危機に陥ったのだ。孔子は母国の魯に戻った。六十九歳になっていた。

 子、陳に在りて曰く、帰らんかな、帰らんかな。吾が党の小子、凶簡にして、斐然として章を成すも、これを裁する所以を知らず。(公治長篇)

「魯国に残した若者たちのために帰ることにしよう」。こうした述懐が帰郷の言葉として残されている。

 帰国した孔子を魯国は国老として遇じてはくれたけれど、政治に関わることはなく、述懐通り、弟子たちの教育に専念することにした。

 孔子の名声を耳にし、全国からぞくぞくと学生が集まってきて、弟子の数は三〇〇〇人にものぼった。

 七十歳まで生きた孔子は平均寿命が三十歳のその時代においては超がつく長生きだった。しかしそれ故の哀しみもあった。
 まずは自身の衰えである。

 子曰く、甚しいかな、吾が衰うるや。久しいかな、吾れ復た夢に周公を見ず。(述而篇)

 自分は甚だしく気力も体力も衰えてしまい、若い頃は敬慕する周公旦の夢をよくみていたのに、最近はみなくなってしまった、と嘆いている。

 さらに親しい者たちの死。

 孔子は十九歳のときに幵官氏という女性と結婚しており、鯉という子供をもうけた。妻の詳細はほとんど分かっていないが、鯉は孔子が魯国に戻った年に、五十歳で亡くなった。自分よりも子供が先に死んでしまったことを孔子は嘆き悲しんだ。さらに七十一歳のとき、最も信頼していた弟子の顔淵を亡くした。顔淵が死んだときの孔子の哀しみ様は尋常ではなかった。

 顔淵死す。子曰く、譩、天、予を喪すか。予を喪すか。(先進篇)

「顔淵が死んでしまった! 天は私を殺したも同然だ!」と慟哭したのである。

 その翌年には宰我、その翌年には子路と毎年一人ずつ死んでいった。

 長く不遇の時代を過ごし、ようやく得た国の役職を放棄して弟子とともに流浪の旅に出、魯国に戻り、自分の子供や弟子の死を見据えた孔子は七十四歳でこの世を去った。

★後編に続く。

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