見出し画像

保阪正康 日本の地下水脈16「純潔の革命家・西郷隆盛」

その精神性の高さゆえに庶民に愛され、軍事指導者に悪用されてきた人物の実像。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

画像1

保阪氏

「昭和の文化大革命」

前回、「皇紀2600年」に当たる昭和15(1940)年が、日本社会の重大な転回点であることを指摘した。この年は日本におけるファシズム体制が確立した時期であるが、明治維新後の日本社会に脈々と流れていた「攘夷の地下水脈」が、まさに奔流となって社会の表舞台に噴出した時期であると解釈できる。

だが、攘夷の地下水脈が昭和15年に突如として噴出したわけではない。五・一五事件」や国際連盟脱退などがあった昭和7~8年頃から、攘夷のエネルギーが社会のあらゆる部分に浸透し、言論や思想が歪められ、徐々に異変を示すようになる。

私はかつてこの時期の異変を「昭和の文化大革命」と形容したことがある。1960年代後半の中国では、毛沢東思想を絶対視する紅衛兵たちが席巻した。彼らは毛沢東思想を極限まで純化し、「造反有理」を叫びつつ、知的階層を「反革命分子」として攻撃し、凄惨な暴力を加えたり農村に下放したりした。中国社会全体が熱狂に支配され、知性が否定された。日本は昭和初期に軍部主導で「神国日本」「臣民」といった精神が涵養され、皇紀2600年に熱狂したが、それと相似形である。

その「昭和の文化大革命」の予兆が、昭和8年の夏に開かれた五・一五事件の裁判にみられる。

五・一五事件は、井上日召の指導する血盟団の影響を受けた急進派の海軍青年将校が陸軍士官学校生徒らと結託し、クーデターを計画したものである。首相官邸を襲い、犬養毅首相が暗殺されたほか、日本銀行、警視庁なども襲撃された。

だが裁判が始まると、意外な現象が起きた。被告たちは、「自分たちは名も命も求めない、日本改造の捨て石になるために行動を起こしたのだ」と一斉に涙ながらに陳述した。陸軍士官候補生の一人は優秀で、2カ月後の卒業時には恩賜の時計組となるはずだったが、西郷隆盛の遺訓「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人間ほど始末に困るものはない」に感銘を受けて参加したと言い、「非常時の日本にはこういう始末に困る人間が必要」だと叫んだ。

すると裁判長は涙し、法廷が嗚咽に包まれた。新聞記者も「涙なしでは原稿は書けない」と書き、雑誌には彼らを英雄視する記事が掲載された。次第に「行為は悪いが動機は正しい」との世論が拡大してゆく。100万通もの減刑嘆願書が集まり、指を詰めてホルマリン漬けにして法廷に送る者もいた。

さらに世論は一歩進み、「動機が正しければ何をやっても許される」という動機至純論に日本社会が支配されるようになった。これは「造反有理」の論理と変わらない。こうして日本社会は、文化大革命と同じような知性の否定と狂乱の渦に巻き込まれて行ったのである。

画像3

犬養毅

西郷の「革命への純潔性」

今回、目を向けてみたいのは、陸軍士官候補生が裁判で引用した西郷隆盛のことである。

西郷には、明治維新という革命をとことんまで追求した、純化した精神性が内在している。それゆえ、多くの人を惹きつけてきた。一方で、西郷は後世に都合よく利用されてきた部分がある。

右翼・民族派は、西郷の精神性を過剰に尊崇し、理想の人間像としてきた。ことに昭和の軍事指導者たちは、西郷が浪花節や講談の主人公として庶民から人気があったことを悪用し、自分たちの野望を巧妙に西郷に投影し、利用してきた。

たとえば東條英機は戦時中に長崎の造船所を視察した際、西郷の五言律詩を書き置きした。「楽なことを避け、厳しい道を選ぶ」といった意味の詩であった。戦後の東京裁判の期間中、東條は西郷の漢詩「書懐」の一節「青山到処骨可埋 誰為一朝卜枯栄」を引用した色紙をしたためている。これは「死に場所はどこにでもある。誰が一時の栄枯盛衰を予期できようか」との意味で、東條は戦争責任の自己弁護の意を込めたと思われる。

一方、いわゆる左翼勢力は、「反動勢力を糾合して軍事独裁政権を樹立しようとした」「征韓論を唱えた帝国主義者の先駆け」と西郷を位置づけ、打倒すべき帝国主義者のイメージ形成に西郷を利用してきた。

しかし、そうした短絡的な解釈は、西郷に内在する多面性を全く見ていない。私たちが注目したいのは、以下の3点である。

第1に、西郷は封建制度の打破という点で最大の功労者であることだ。西郷は誰よりも早く議会制の導入を提唱していた。そこに西郷の先駆性がみられる。

第2に、西郷は革命の純潔性を追求していたという点である。西郷は征韓論において大久保利通らと対立したため、薩摩に帰郷した。だが、それは一側面にしか過ぎない。西郷には明治政府の腐敗への憤りがあったのではないか。維新後、革命勢力がアイデンティティを喪失し、道徳的退廃が始まる。決起の理由として、不平士族の反乱というだけではなく、革命の純潔性へのこだわりがあったと考えるべきだ。

革命の純潔性は、革命成立以前には強力に働くものの、革命が成立して「平時」になってしまうと、途端に目標を見失ってしまう。そこに西郷の矛盾があり、だからこそ興味深いとも言えるのである。

第3に、自由民権運動の地下水脈が西郷の周囲に存在していたことである。西南戦争に合流した熊本協同隊は、自由民権派の宮崎八郎が率いていた。八郎は宮崎滔天の兄である。滔天はのちに大陸に渡り、辛亥革命で孫文を支援した。

以上の点に注目しつつ、西郷の時代を振り返ってみたい。

画像2

西郷隆盛

優れた政略家、卓越した軍師

文政10(1827)年、薩摩藩の下級藩士の家に生まれた西郷は、藩主・島津斉彬に見出されて側近に取り立てられ、新政府樹立の立役者となってゆく。

西郷は類まれな政略家であった。薩摩藩の軍隊指揮官に任命された西郷は、大久保利通とともに倒幕勢力の急先鋒となったが、2人は公家の岩倉具視を巻き込んで、朝廷に討幕の密勅を出させようと画策した。これに対し、幕府側は将軍・徳川慶喜が大政奉還の挙に出ることで、倒幕の勢いを削ぐことを目論んだ。そこで、西郷と大久保は岩倉と結託し、朝廷に「王政復古」の大号令を出させ、クーデターに成功する。

西郷はまた、優れた軍師でもあった。旧幕府軍との死闘を制し、江戸城を無血開城に導き、維新後も戊辰戦争を指揮した。

その軍事の才能が端的に表れているのは、慶応4(1868)年の彰義隊との戦いだ。東京・上野の山に立てこもっていた旧幕府軍を、薩長を中心とする連合軍が5月15日、たった1日で破った。一般的には連合軍の圧勝として認識されていたが、近年の研究によれば、薩長軍の連携は必ずしも良くなく、彰義隊も善戦した。薩摩側で最前線に立って、態勢を立て直したのが西郷だ。砲兵と歩兵の連携を取り戻し、彰義隊壊滅のきっかけを作った。もし彰義隊の掃討にもっと時間がかかっていたら、旧幕府軍の士気は上がり、内乱は長引いていた可能性が高い。となれば、諸外国の維新政府に対する見方も厳しくなっていただろう。

また、西郷には先見の明があった。欧州の議会制に関心を持ち、幕末の段階で議会制の構想を持っていたことが分かっている。西郷がこだわったのは「合従連衡」である。開明的な藩主たちを集めた大名会議(上院)とその家臣たちを集めた家臣会議(下院)の設立を考え、その構想はのちに貴族院と衆議院へと引き継がれていった。西郷は英国の外交官アーネスト・サトウに「国民議会」の必要を熱心に説いていた。

日本の近代化の基礎となった廃藩置県も、西郷の奔走なしにはあり得なかった。欧米列強に伍するには幕藩体制を解体し、中央集権的な統一国家を樹立しなければならない。西郷はそれを知悉していた。

政略家、軍師として卓越した能力を持っていた西郷だが、こうした類の人物にありがちな冷たさはなく、大きな人望があり、ひとたびその人柄に触れると大体は同志となった。部下の面倒見が良かった西郷に、同じ「維新の三傑」である木戸孝允、大久保らの人気ははるかに及ばない。

鬱積する士族の不満

だが、西郷が主導した維新という革命が成立した後、士族たちには困難が待ち受けていた。

ここから先は

5,885字 / 2画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください