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激突!「矢野論文」バラマキか否か 小林慶一郎vs.中野剛志

財政は危機にあるのか。徹底討論120分。/小林慶一郎(慶応義塾大学教授)×中野剛志(評論家)

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小林氏(左)と中野氏(右)

「財政再建派」と反対派で議論

――本誌11月号に掲載された矢野康治財務次官の論文をめぐり、識者の間でも賛否が分かれています。矢野論文のポイントを簡単にまとめると、以下のようになるかと思います。

(1)現在、国の債務は地方と合わせて1166兆円に上り、これはGDPの2.2倍にあたり、先進国でもずば抜けて高い水準にある。

(2)にもかかわらず政治の世界では、数十兆円規模の経済対策や消費税率の引き下げなど「バラマキ合戦」のような政策論が横行している。

(3)このままバラマキを続けて、国の借金がさらに膨らみ続ければ、国家財政はいずれ破綻する。

本日は、矢野氏に近い「財政再建派」の小林さんと、反対の立場をとる中野さんとで議論していただくわけですが、まず論文に対する率直な感想をお聞かせください。

小林 わりと「正統派の財務省の言い分がそのまま書いてある」という印象ですね。ちょっと財政破綻の危機感を煽りすぎている嫌いはありますが、大筋では同意できます。矢野さんがイメージする「財政破綻」とは、国の借金が膨らみ続けることで日本国債の格付けが下がり、金利が暴騰してハイパーインフレを招くシナリオだと思いますが、その懸念は私も共有するところではあります。

中野 財務省がなぜそこまで財政再建にこだわるのか、実はあまりよく分かっていなかったんですが、この論文を読んで「この程度の認識だったのか」と驚きました。もちろん内容には何一つ賛同できません。日本の財務次官がいかに間違っているかを示したという意味で、歴史的文献としての価値は高いと思いますが(笑)、この論文には少なくとも3つの大きな問題点があると思います。

小林 では、ひとつずつうかがいましょう。

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市場が反応しない理由は

中野 第1に日本財政の破綻を懸念するこの論文自体が、日本財政の信認を毀損している点です。矢野さんがご自身で書かれている通り、財務次官は〈財政をあずかり国庫の管理を任された立場〉にあります。学者や評論家ではない。そういう責任ある立場の人が日本の財政について〈タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなもの〉と書いたわけで、そのこと自体が日本国債の格付けを下げて、日本経済全体に悪影響を及ぼすことになりかねない。日本財政の信認を守るべき財務次官として、あるまじき行為です。

小林 しかし例えば90年代の不良債権のときは、誰もがその問題を認識しながらも、そこに触れると「マーケットや国民がパニックになる」という理由で多くの官僚は口を噤んでいたわけです。それが官僚として正しい態度だったのか。

私は、大きな問題が存在し、現状で解決の方法が見出されていない場合は、その問題を国民に明らかにしたうえで、「一緒に解決法を考えましょう」と呼びかけるべきだと思う。その意味で矢野さんの行動は評価されていいのではないでしょうか。

中野 そこで私が考える矢野論文の第2の問題点が出てきます。それは財政を掌る財務次官が官僚としてのタブーを破ってまで「このままでは財政破綻する」というメッセージを発したのに、マーケットがほとんど無反応だった点です。矢野さんのメッセージ通り、日本が本当に財政破綻に向かっているのなら、この論文が出た直後に長期金利が上がってもおかしくないのに、実際には0.1%に満たないままです。要するに、日本は財政破綻に向かっていないということです。矢野さんはご自身の主張の間違いを自ら証明した恰好になったんですよ。

小林 私はマーケットが反応しない状況だからこそ、このタイミングで論文を出したんだと思います。つまり今はコロナの影響もあり、日本はデフレ下にあり、日銀が国債を買い支える状況が続いている。だから論文が出ても、金利や物価が急に上がる心配はなかったわけです。問題は日銀が買い支えられなくなったときで、このままならいずれその日が来る。だから今、警鐘を鳴らすんだというのが矢野さんの主張ですよね。

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国債は将来へのツケなのか

中野 なぜ政府債務がこんなに膨らみ続けているのに金利が低いままなのか。小林先生は「デフレ下だから」「日銀が買い支えているから」と説明されました。まさにそういう理由で、日本は財政危機ではないのです。そもそも、日銀が買い支え続けることの何が問題なのか。中央銀行が金利を抑えられるのだから、金利が暴騰することはあり得ないだけの話です。それに、中央銀行は通貨を創造できる存在なので、国債を買い支えられなくなるなんてことは起き得ません。

小林 いや、「今はない」だけです。将来にわたって「絶対に起きない」とは言い切れません。

私は矢野論文の背景にあるのは、「将来世代にツケを残してはいけない」ということだと思うんです。国債は将来世代からの前借りで、いずれその金は返さなきゃいけない。これまでのように日銀が買い支えられるうちはいいけど、もし将来において例えば制御できないようなインフレが起きたら、将来世代への大きな負担を残すことになる。それは避けたいという矢野さんの思いは否定すべきではないでしょう。

中野 違います。国債は将来の増税で償還しなきゃいけないと思い込んでいるから「将来世代へのツケ」だと誤解するのです。国債の償還は、増税ではなく借換債の発行によって行うべきです。それから、私は制御できないインフレは基本的に「起きない」と考えています。

小林 国債の償還を借換債で出来るなら、国家運営に税は不要という話になり、まったく同意できません。これは後ほど議論しましょう。

中野 矢野論文の3つ目の問題点は、今、私と小林先生の間で議論したようなインフレの問題について、矢野論文はまったく触れていないことです。

小林 そこは端折ってますね。

中野 でも人を説得しようとしているのだから、端折ってはダメでしょう。「財政再建か、積極財政か」の議論は国内外含めて山ほどあったのですよ。この論争に関する積極財政派の主張はだいたい次の3つです。

(1)日本政府は自国通貨を発行し、国債は自国通貨建てなので、財政破綻しようがない。(2)財政赤字の拡大は金利の高騰を招くことはない。(3)財政赤字が制御不能なインフレを引き起こす可能性は低い。

小林 非常にわかりやすく整理されていると思います。

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矢野氏が言及すべき議論

中野 与野党の政治家たちは、こうした論点を踏まえた上で積極財政を唱えているわけです。ですから矢野さんが〈やむにやまれぬ大和魂〉で彼らを批判するなら、先ほどの3つの点に論理的に反論すべきなんです。とくに2019年にMMT(現代貨幣理論)が話題となり、「自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行になることはない」と主張して、大論争になったわけです。ところが矢野論文は、自国通貨建て国債の性格についても、金利についても、インフレについても、反論どころか言及さえしていない。それで、政治家を〈バラマキ合戦〉呼ばわりですから、これは相当レベルの低い議論ですよ。

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