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出口治明の歴史解説!戦国時代の日本に鉄砲が沢山あった理由は?

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年8月のテーマは、「日本と世界」です。

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※本連載は第40回です。最初から読む方はこちら

【質問1】日本は2回とも元(大元ウルス)を撃退しましたね。超大国の元に勝てたのは、鎌倉時代の武士がグローバルに通用する強さだったからでしょうか?

モンゴル戦争(江戸時代に元寇と呼ばれるようになりました)を退けた鎌倉時代の武士はたしかに強かったと思います。でも、最大の理由は別のところにありました。もともと元に日本を征服する気があまりなかったようなのです。

大元ウルスの初代皇帝クビライ(1215〜1294)は、初め日本と交易しようと考えていました。九州の阿蘇山あたりから大量に出る硫黄が、喉から手が出るほど欲しかったのです。硫黄は火薬の原料となるからです。当時、元では、「てつはう」と呼ばれる火薬兵器が登場していました。のちに生まれる鉄砲のように弾丸を発射するのではなく、手榴弾のようなものだとされています。

クビライは日本に高麗人の使節を派遣して、国書である「大蒙古国皇帝奉書」を日本に届けさせます。「モンゴル帝国が中国の北側を治めているのに、小国の日本から挨拶がないのはおかしいやないか。これからは仲よく商売しようじゃないか。軍隊を送って攻めるような真似はあんまりやりたくないからな」といった内容です。

しかし、待てど暮らせど返信がありません。国書は太宰府から鎌倉幕府へ運ばれ、幕府から朝廷へ送られ、「えらい上から目線やないか」「ビジネスのふりして、侵略するつもりやろ」などと議論を重ねるうちに半年以上が経ち、高麗の使節は業を煮やして帰ってしまいます。

報告を聞いたクビライは「わしの手紙を無視するとは何様のつもりや」と怒ったことでしょう。その後も、クビライの部下が日本にたびたび使節を派遣し、国書を送りましたが、何一つ反応はありませんでした。

そこでクビライが「あいつら生意気だから一発どついてこい」と軍隊を派遣したのが文永の役(1274)です。これはほんの小手調べ、ボクシングのジャブのようなものでした。当時は第3次モンゴル・南宋戦争(1268〜1279)の真っ最中ですから、本気で日本のような田舎者をかまっている暇はありませんでした。当時は、世界最大の文明国の一つである南宋(1127〜1279)を早く倒して中国全土を統一することのほうがはるかに重要事だったのです。

南宋の兵士は驚くほど簡単に投降してきました。クビライが部下に「投降した敵兵をいじめたらあかん」と命じていたので扱いがよかったからです。ついには、都の臨安(現在の杭州市)も無血開城され、南宋は滅びました。

激しい戦いが回避された代わりに、ここで別の問題が発生します。南宋の官僚や兵士という大量の失業者を抱えてしまったことです。これにはクビライも見込み違いだったことでしょう。仕事がないと、人間はよからぬことを考えるものです。会社で窓際族を3人ぐらい1ヶ所に集めておくと、変な噂や怪文書を流すのと同じです。

クビライは、彼らのために仕事を作らねばなりませんでした。南宋の官僚たちには、出版事業を進めて雇用を創造します。全相本という挿絵入りの本や百科事典『事林広記』がその代表です。

軍人たちには「船に鍬(くわ)やスコップを積み込んで出かけたらええ。アジア各地を攻めて、勝ったら住み着いてもええで」と命じてアジア各地に送り出しました。モンゴル軍の兵士は十分間に合っているから、南宋軍のアウトプレースメントを進めたわけです。彼らはジャワ島やビルマにまで攻めていきました。

そして「日本も攻めたらええで」と命じたのが弘安の役(1281)です。2度目の襲来も日本は撃退しました。ここで日本が負けていたら、旧南宋の軍人たちが九州に上陸して住み着いた可能性があります。

ちなみにクビライが手に入れたかった硫黄は中国内でも見つかっており、もはや日本に魅力的な世界商品はありませんでした。クビライからすれば、派遣した軍が勝っても負けてもおそらく大した問題ではなかったのです。


【質問2】戦国時代の日本は、鉄砲の保有数では世界トップクラスだったと聞いたことがあります。どうしてそれほど多くの鉄砲があったのでしょうか?

それは銀という世界通貨が山ほどあったからです。当時の日本は、バブル期にも負けないくらい、海外から見たらお金持ちの国でした。

現在のアメリカは、お金持ちの国ですよね。GDPが世界一で、アメリカドルが基軸通貨になっているからです。基軸通貨を握った国は、豊かになります。

16世紀の世界通貨は銀でした。

銀を特筆するほど産出していたのが、戦国時代の日本です。その中心地は1530年代から本格的な採掘がはじまった石見銀山(現在の島根県大田市)です。石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて産出量のピークを迎えました。当時、世界で産出される銀のおよそ3分の1は日本産だったといわれていますから、日本はとんでもないお金持ちの国でした。お金があれば先ず行うのが、軍備の増強です。

鉄砲が日本に伝わったのは、ポルトガル人が種子島に火縄銃を持ってきたのが最初だと教えられてきましたね。いわゆる「1543年の鉄砲伝来」です。これは後期倭寇の頭目だった王直が仕組んだものです。

王直はポルトガルの鉄砲を見て、「日本では武士がやたらとケンカをしているから、これを売ったら儲かるで」と考えたのでしょう。さらに、倭寇の自分がセールスしてまわるより、ポルトガル人が鉄砲をドカーンと撃ってショーアップしたほうが印象付けられると考えた。日本人の度肝を抜いて値段を釣り上げられるかもしれない、と考えたのでしょう。まるでモーターショーの女性コンパニオンのような役割をポルトガル人にあてがったのです。王直はなかなかのプロモーション上手でした。

王直の狙いどおり、各地の武将たちはこぞって鉄砲を買いまくりました。そして、あっという間に日本国内に鉄砲の製造工場がつくられ量産体制を整えました。それもこれも銀の力です。

豊臣秀吉が明を征服しようと朝鮮半島に出兵したのも、銀のマネーパワーがあったからです。第27回の講義でも解説したように、あれは決して秀吉の誇大妄想ではなく、勝算があると判断したうえでの出兵だったと思います。なにしろ当時の日本は、50万人以上の軍人を有する軍事大国でしたから、不可能とはいえません。明を倒した満洲族の兵力より日本の方が兵力は上でした。

そう考えれば、徳川幕府の鎖国政策は「スペインなど外国に占領されることを恐れたから」という説明が誤りだとすぐにわかりますね。スペインより日本のほうが、GDPも軍事力も上だったのですから、恐れる必要はどこにもありませんでした。それに100年以上戦争を続けてきて軍事に特化した武士が大量にいましたから、簡単に負けるはずがありません。

鎖国はあくまで国内問題。各地の大名が交易によって儲けて、石高を超える軍事力を持つことを防ぐ政策でした。

(連載第40回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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