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灰かぶり姫が人類の指導者になった/野口悠紀雄

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※本連載は第26回です。最初から読む方はこちら。

 ポルトガルの海洋進出は続き、ついに喜望峰を経てインドに到達しました。こうして、イスラム教徒に邪魔されることなくインドと交易できるルートが拓かれたのです。エンリケの夢が実現され、東方貿易を独占することとなったポルトガルでは、社会全体が大躍進しました。

◆ポルトガルが喜望峰を発見する

 歴史は、ポルトガル成功の栄誉を、エンリケに対してではなく、ジョアン2世( 1455-95。在位:81-95)に対して与えています。彼の即位以後、ポルトガルの大躍進が実際に始まったからです。

 ポルトガルの艦隊は、1471年に赤道に達しました。1482年には、象牙海岸・黄金海岸を経てガーナに到達し、そこに城塞を築いて、金や奴隷の交易を行いました。

 1482年にはコンゴ河口に上陸。

 1485年、ディオゴ・カンが、ナミビアのクロス岬に到達しました。

 1488年、バルトロメウ・ディアスは、船団を率いて困難な航海の末にアフリカ南端にたどり着きました。

 大嵐に13日間も流されたのちに接岸し、海岸線が北東に伸びているのを見て、アフリカ大陸の南端を越えたことを知ったのです!

 これは、素晴らしい大発見です。

 そのまま進めば、たぶんインドに到達できるからです。

 しかし、それまでの困難な航海で疲れ果てた乗組員が暴動を起こしたので、ディアスは、涙を飲んで帰途につきました。

 帰路に発見した岬を、ディアスは「嵐の岬」と名づけました。

 ジョアン2世はこの成果から、インド航路は開拓できるという確証を得、「嵐の岬」を「喜望峰」と改名させました。

 インドとの直接交易の可能性が、ついに目の前まで迫ってきたのです。

◆ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由してインドに到達

 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)は、マヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立ち、インドを目指しました。

 ガマは、4ヶ月の航海で一気に喜望峰に到達。

 そこを回ってモザンビーク海峡に至り、イスラム商人と出会います。彼らから、インドへの航路に関する情報を収集しました。

 1498年5月20日、ガマは、インドの西岸にあるマラバール海岸のカリカット(コーリコード)に到着しました。

 そして、翌年、大量の香辛料をポルトガルに持ち帰りました。

 ヨーロッパがイスラム教徒に邪魔されずに東方世界と通商できるルートが、ついに開かれたのです。

 エンリケ王子の夢は、ついに達成されました。

◆初めに香辛料ありき

 東方との新しい通商ルートの発見がどれほど重要かを、シュテファン・ツヴァイクは、『マゼラン』の中で説明しています。

 当時のヨーロッパで、香辛料は、肉の保存のためになくてはならないものでした。

 しかし、香辛料を産出できるのは、世界中でアジアだけだったのです。とりわけ、香料諸島(現在のインドネシアのスラウェシ島東部にある群島)で作られる香辛料が求められました。

 そこで、アジアとの交易は古くから行われていたのですが、陸路では、中近東を経由せざるをえません。

 そして、ここには、古くからヨーロッパのキリスト教徒に反感を持つイスラム教徒が住んでいます。

 彼らは、ヨーロッパとアジアを行き来する通商隊に、高い通行税を課したのです。

 このため、アジアから持ち込まれる交易品は、ヨーロッパではきわめて高価なものとなってしまいました。

 とりわけ香辛料はそうで、コショウは、11世紀の初めには、一粒ずつ数えられ、同じ重さの銀とほとんど同じ価値でした。

 ヨーロッパの大航海とは、アジアで産出する香辛料を、イスラム教徒に邪魔されることなくヨーロッパまで運ぶためのルートの探索であったと考えることができます。

 ツヴァイクは、『マゼラン』の冒頭で、このことを、つぎのような的確な言葉で表現しています。

「初めに香辛料ありき」

◆ポルトガルは海洋帝国を建設し、東方貿易を独占

 1502年の第2回遠征では、ガマはカリカットを砲撃し、コーチンに砦を築きました。そして、1524年にはゴアでインド総督となりました。

 この後、ポルトガルは疾風の勢いで東に進み、海洋帝国を建設し、東方貿易を独占することになります。

 ツヴァイクは言います。「このヨーロッパの灰かぶり姫ポルトガルは、その生活圏を千倍にも万倍にも拡大した」「この忘れがたい世界の一時期のあいだ、ポルトガルはヨーッロッパの一等国、人類の指導者であった」

「灰かぶり姫が人類の指導者になる」

 ポルトガルのリープフロッグを、この言葉ほど適切に表現するものはありません。

◆ポルトガル社会全体が大躍進


 注目すべきは、この時期に、ポルトガル社会全体が大躍進したことです。

 航海だけでなく、文学や建築や商業にも傑出した人物が誕生したのです。
 
 国民の力が大爆発したのです。

 この当時のポルトガルの人口はわずか150万程度だったことを思い出してください。

 日本では、「人口が減少するから大変だ」という人が多いのですが、そうした人たちは、この時代のポルトガルを思うべきです。

 日本で人口が減ったとしても、1億人もいます。日本が最も栄えた1960年代において、人口は9000万人台でした。

 国の活性化とは、人口を増やすことではありません。達成すべき何らかの目標を持つことなのです。

◆ポルトガルはコロンブスを退け、スペインに取られた

 ところで、この間に、もう一つの重要な事件が起きています。

 それは、いうまでもなく、クリストファー・コロンブス(1451年- 1506年5月20日)の航海です。

 彼は、マルコ・ポーロなどの書物から、インド、中国、ジパングなどに興味を持ち、トスカネリの地球球体説を知って西回りでアジアに到達することを考えました。

 そして、1483年に、ポルトガルのジョアン2世に西回り航海を提言したのです。しかし、ポルトガルは東回り航海に力を注いでいたので、コロンブスの提案は拒否されました。

 コロンブスは、やむなく1486年にスペインのイサベル女王に西回り航海を提案しました。

 イサベルはコロンブスの提案に興味を示したのですが、財政的に余裕がなかったので取り上げられませんでした。

 1492年、グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させたイサベルは、コロンブスと再び会います。いったんは断ったのですが、帰る途中のコロンブスを呼び戻し、彼の計画を実施することを決めました。

   こうして、コロンブスは、スペインの旗を掲げて出港したのです。

 コロンブスが西回りで10週でインドに達したとの知らせは、ポルトガルで衝撃をもって受け止められました。 

 ツヴァイクによれば、「窓ガラスをガチャンと破って飛び込んできた投石のようにリスボンの宮殿を驚かせた」。

 リープフロッグしたポルトガルが、今度はスペインによってリープフロッグされる危険が生じたことになります。

 西回りでインドに行けるなら、せっかく築こうとしていたインド貿易におけるポルトガルの独占的地位はなくなってしまうからです。

 ポルトガル王室は、なぜコロンブスの提案を受入れなかったのでしょうか?

 まず考えられるのは、それまでのあまりの目覚ましい成功に慢心していたということです。

 もうひとつ考えられるのは、着手中の事業に精一杯で、新しい可能性を開く新事業に目を向けられなかったということです。実際、ポルトガルは小国であり、王室財政にそれほどの余裕がなかったのでしょう。

 ただし、実際に資金を提供していたのは、王室というよりは裕福な商人たちだったので、財政的条件が絶対的な制約とは思えません。

 一番大きな理由は、1488年のディアスによる喜望峰の発見で、インド航路が確実に開けると分かっていたからでしょう。

(連載第26回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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