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40年後のなんとなく、クリスタル|田中康夫

文・田中康夫(作家・元長野県知事)

「10年後に期待したい」。芥川賞選考会で“慈愛に満ちた引導”を渡された翌日の1981年1月20日に、文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』は書店に並びます。

「後世畏るべしというほかあるまい」。過分な評価を下さったのは文藝賞選考委員の江藤淳さん。ご自宅にお邪魔した同年3月末、「私が褒めたから、反発も大きかったんだよ」と微苦笑されました。

「1980年6月 東京」と洋数字で冒頭に記した「小説に付けられた274個の注は、『なんとなく』と『クリスタル』とのあいだに、『、』を入れたのと同じ作者の批評精神のあらわれで、小説の世界を世代的、地域的サブ・カルチュアの域に堕せしめないための工夫である」とも「選後評」で記しています。

登場する地名や銘柄等の固有名詞を読み手に理解して貰うべく応募締切日に短時間で書き上げた注釈は単行本化に際し、大幅に拡充しています。その数442個。アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』的色彩を持たせたいと考えたのです。

「2013年 7月 東京」と漢数字で同じく冒頭に記し、ロバート キャンベルさんが「いまクリ」と命名下さった続篇『33年後のなんとなく、クリスタル』を2014年に上梓した際、なかにし礼さんは「田中康夫」という人物に関する論評の中で「もとクリ」436番目の注釈「NHK放送センター」に触れています。

「“大日本帝国”のタクシー(大和、日本交通、帝都、国際)4社以外は、客待ちをお断りしています。開かれた国営放送局、みなさまのNHKからのお知らせでした」は「微に入り細をうがち的確であり、皮肉がきいている」。

「クリスタル」な高度消費社会の幕開けを描いた40年前、「カタログ小説」と冷笑する向きが大半でした。後に日本芸術院会員となる文芸評論家は、「ブランド物に身を包んで青山通りを闊歩している頭の空っぽなマネキン人形の手合い」と腐しています。

「出生率の低下は今後も続くが、80年代は上昇に転ずる可能性もある」。442の注釈に続く単行本の末尾に2頁、人口問題審議会「出生力動向に関する特別委員会」報告書と昭和55年版「厚生白書」が示す楽観的予測に加え、「もとクリ」執筆前年1979年の合計特殊出生率1.77を、僕は掲出しています。因みに東京都が公表の令和元年=2019年の数値は1.15。

日本発売直後のポスト・イットを貼りまくった拙著を、これ見よがしに携えて現れた取材者の誰一人として、作品の末尾への「疑問」も「関心」も抱かず、以下の如き質問は皆無。24歳の僕は肩透かしを食らいます。

“取って付けた様”に2頁も割いたのは何故ですか? 大学生でモデルの主人公・由利が物語の最終盤にテニス同好会の仲間と下り坂の表参道をランニングする場面で〈あと10年たったら、私はどうなっているんだろう〉と自問自答したのは何故ですか?

短文の羅列とは視覚的に異なる2頁の文字列が切っ掛けにせよ、僕の意図をインタヴューで問うた老練な「ワシントン・ポスト」女性記者を始め、米英仏独伊豪中韓台の活字媒体、電波媒体の幾人かとは実に対照的でした。

少子・高齢社会への僕の一抹の不安も「なんとなく」隠喩した「もとクリ」は、発売から程なく韓国で3つの出版社から海賊版が、著者も版元も与り知らぬ内に発売されます。題して『オッチョンジー・クリスタル』。往時、大韓民国は万国著作権条約に未加盟でした。

日本を眩しく見上げていたであろう隣国の若者。その40年後、韓国発の映画や音楽が地球規模で隆盛です。既に3年前、国民1人当たりGDPと労働生産性は日本を凌駕。焦燥感の裏返しとしての「ニッポン凄いゾ論」が昨今、幅を利かせています。

「あなたは社会的な物語を書きなさい」。同じく選考委員だった野間宏さんは少し震えた書体で毎年の年賀状に記して下さいました。

アンガージュマンを気取って震災ヴォランティア、知事、国会議員の体験を『東京ペログリ日記』で嘯(うそぶ)いていた僕は目下、南半球に浮かぶ“まあるい大きな島国”が舞台の『あんばい村 かわたれ国』に呻吟しています。「たそがれ=誰そ彼」の夕方と「かわたれ=彼は誰」の朝方の空の赤みが共鳴する塩梅を描こう、などと又しても身の丈を弁(わきま)えずに。

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