見出し画像

柳田邦男 御巣鷹「和解の山」③ 石巻のマーガレット

原爆ドームから「伝える」ことの大切さを学んだ。/文・柳田邦男(ノンフィクション作家)
★前回を読む。

第2話 石巻、焼けたちっちゃなくつの証(あかし)(つづき)

「私たちも震災で亡くなった子どもたちの場所を、どう作りどう守っていくか真剣に考えないと――」

御巣鷹の尾根や斜面に、30年以上経っても整然と保存されている墓標の数々を間近に見て、強くそう感じて石巻に帰った佐藤美香のところに、まるで待っていたかのように、大事な役割が与えられることになった。

その頃、石巻市が津波浸水と火災延焼によって惨憺たる状態になった市立門脇小学校の校舎を、震災遺構として保存すべきかどうかを検討する「震災遺構検討会議」を発足させていた。その検討会議のメンバーの一人で、被災者支援活動をしている市民団体の「3・11みらいサポート」専務理事・中川政治(まさはる)から、「検討会議にメンバーとして参加して、語り部活動を通して考えてこられたことを率直に話して頂けませんか。検討会議はすでに始まっているのですが、途中からでもいいと思うんです。途中参加については、市の事務局に私から諒解を取り付けます」と頼まれたのだ。

美香が日和幼稚園のバス被災で、長女の愛梨(あいり)を亡くし、その後、子どもの命を守るべき施設の安全対策のあり方について、語り部活動で熱心に訴えていることを、中川はかねてから注目していたのだった。

中川は、被災者でも石巻市の生まれ育ちでもなかった。京都出身で若い頃はJICAの青年海外協力隊に参加して、途上国の支援活動に携わっていた。東日本大震災が起きた時、30代前半で行動力に自信のあった中川は帰国して、京都青年会議所が東北各地に派遣する支援隊への参加を積極的に申し出て、石巻青年会議所の指揮下に入るように指示された。大津波により3000人超の犠牲者を出した石巻市には、大勢のボランティア活動家が詰めかけ、支援物資も続々と寄せられていた。石巻入りした中川は、支援物資を適切に被災者に配布する仕組みや、ボランティアの人々に効率よく仕事をしてもらう割り振りの仕組みの必要性を痛感し、震災の2か月後、それらの調整役を担う、後に公益社団法人「3・11みらいサポート」になる組織を立ち上げた。

佐藤美香さん©共同通信社

佐藤美香さん

亡き園児への花束の撤去

震災から1年が過ぎる頃には、被災地・被災者のニーズが、瓦礫の撤去や支援物資の配布といった緊急の課題から、生活の再建、地域の復興、さらには惨事を繰り返さないための活動などへと変わり始めた。

中川は、そうした変化に対応すべく、活動の範囲を広げていった。2012年の春に、石巻市内の様々な被災現場で始まっていた語り部の活動を行う人たちが、学びと交流の集いをはじめて開いた時には、中川も参加して、語り部との交流を始めた。その時参加した語り部たちの中に、佐藤美香もいて、「これから一緒にできることがあれば応援しますよ」と声をかけた。被災した人たちや活動をつないでいくコーディネーター兼プロモーターの存在は、被災者活動に新しい風をもたらすことになる。

そして、4年後、石巻市が門脇小学校に関する震災遺構検討会議を発足させた時、中川はこういう場にこそ佐藤さんのような人に参加してほしいと考えたのだ。

美香は考えた。娘の愛梨は小学校に通っていたわけではなかったが、子どもの命を守る責任を負うという点では、幼稚園や保育園も小学校も変わりはない。しかも、愛梨が乗せられた幼稚園バスが津波に呑まれたのは、小学校から400メートルほどしか離れていない場所だった。幼稚園を出たバスは、まず門脇小学校に立ち寄り、校庭に避難していた人たちの中に保護者のいた何人かの園児たちを降ろしている。あの時、全員を降ろして同乗の職員が裏山へ避難させれば、子どもたちの命は奪われなくても済んだのにという思いが消えない。

美香は、中川に答えた。

「私は愛梨たちの命を守らなかった幼稚園の判断の過ちから、子どもを預かる施設のあり方について考えてきたことがあります。そんな話が、皆さんの議論にお役に立つなら、検討会議に参加させて頂きます」

震災後、美香は愛梨の遺体が見つかった現場をしばしば訪れては、他の親と一緒に、石のブロックを置いて花束やお菓子を供えていた。しかし、2年ほど過ぎて復興工事が本格化し、現場一帯の瓦礫を撤去して更地にし、道路も整備されるようになった時、花束やお菓子を供えていた場所に、工事業者の掲示板が立てられた。

「工事に支障となりますので、予(あらかじ)め撤去下さるようお願いします」

花束を供えている場所は、道路になるというのだ。

ショックだった。悲しみが美香の胸にこみ上げてきた。

《愛梨は命を奪われたばかりか、魂の居場所、家族が会いに来る場所まで奪われてしまうのか》と。

災害の復興とは、ある意味で無慈悲だ。多くの人々の命を奪った惨事の現場を、まるで何事もなかったかのように片付けてきれいにしてしまう。そこでは、大地と人間の魂あるいは精神性が、完全に分断されてしまう。御巣鷹山は、奇跡的な例外と言えるだろう。

美香が「亡くなった子どもたちの場所を、どう作りどう守っていくか真剣に考えないと――」と、御巣鷹山慰霊登山で強く思った背景には、被災現場に花束さえ置けなくなったという悲しい思いもからんでいた。門脇小学校を震災遺構とするかどうかの検討会議に参加することは、美香が亡くなった園児たちの“居場所”作りを考えていくうえで、大事なステップになっていく。

未来の子たちの“学び舎”

石巻市の震災遺構検討会議は、9月になって間もなく、核戦争時代の“戦災遺構”である広島市の原爆ドームや広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)と阪神・淡路大震災の神戸市に見学に出かけた。検討会議のメンバーは、新門脇地区復興街づくり協議会の地元住民9人、有識者や語り部活動家や小学校長が9人、市職員が12人の計30人に上る。

これだけの大世帯にしたのは、門脇地区の住民の中には、「門脇小学校の焼け焦げて黒ずんだ校舎はあの日の恐怖を思い出すので見るのもいやだ、早く撤去してほしい」という人も多く、石巻市としては、賛否両論を調整する必要があったからだった。

遺構とは何か、どんな意味と役割を持つのかという、最も本質的な問題を考えるために、メンバーの多くが参加して広島に出かけたことは、まさに正鵠(せいこく)を射る結果をもたらした。メンバーたちは、原爆ドームのすぐ脇に立ち、崩れかかった壁や鉄筋だけが残った最上部を見上げた。おそらくそのすぐ上空で炸裂した原爆が一瞬にしてもたらしたこの世の終わりとさえ言える閃光(せんこう)と破壊の凄絶さを思い、恐怖を感じただろう。そして、「こんなことは二度と繰り返してはならない」という思いが、単なる観念的な言葉の次元を超えて、全身の血肉に染み渡るのを感じたに違いない。

原爆ドームや市内に残る被爆建造物を案内したのは、被爆者でもある広島平和記念資料館の元館長・原田浩(当時77歳)だった。原田が強調したのは、「戦争を知らない世代や世界の人々に、原爆の破壊力の恐ろしさを身に染みて知ってもらうには、破壊の痕跡を刻む遺構をその場所に残すことが重要です。遺構には、言葉を超えて全身で感じ取ってもらえる力があるのです」ということだった。これは遺構の本質的な意味を表していた。

原爆資料館の見学は、また別のインパクトをメンバーたちに与えた。焦土と化した広島市街地の全景を示す立体模型。被爆直後の凄絶な状況を示す記録写真や映像記録。焼け爛(ただ)れた衣類や日用品、等々――。こんな非人道的なことがあっていいのかと、誰しもが感じる展示の数々だった。

メンバーたちは、津波と火災の恐怖を経験しているだけに、原爆被爆の凄絶さをより強烈に感じたのだろう。三々五々、展示を見ながら、立場や考え方の違いを超えて、率直に感想をつぶやき合う姿が見られた。見学中や帰路のバスや新幹線内での形式張らない語り合いから、中川は、メンバーの中に重要な新しい気づきが生まれているのを感じた。それは、こういうことだった。

《小学校の被災校舎を遺構として残すのは、当面災害調査に訪れる人に見てもらうためだけではないんだ。より大事なことは、未来の子どもたちが、災害の恐ろしさを実感して、何をさしおいても命を守ることを優先するにはどうすべきかを学ぶ場として残さないといけないんだ。被災した校舎はもはや学校としての機能は失っていても、命の大切さを学ぶという別の形の“学び舎”としてかけがえのない場にすべきなのだ》

特に校舎の撤去を求める地元住民のメンバーの中に、そう考え方を変えた人たちがいたことは、広島見学の最大の意義になった。

原点、少女期の感性

美香にとっても、広島見学は自らの災害伝承活動の進め方に強い刺激になった。

美香が広島を訪れたのは、はじめてではなかった。熊本県八代で育った美香は、小学校6年生の時の修学旅行で長崎の原爆資料館を見学し、中学3年生の時の修学旅行では広島の原爆資料館を見学し、それぞれに鮮やかに記憶に残るほどの衝撃を受けていた。怖いという感情がこみあげてきて、「こんな核兵器を使う戦争はいけない」という思いを抱いた。

小中学生の年齢だったら、誰しもそこまでは思いを馳せるだろうが、美香は感性が豊かだったのだろう、展示物から、被爆して亡くなった人や家族のことまで想像したのだった。目蓋の裏に焼きついた展示物の一つに、焼け焦げたアルミ製の弁当箱があった。

《広島への原爆投下は午前8時15分頃だったから、男子か女子かはわからないが、お弁当を持って登校する途中だったのだろうな。楽しみにしていたお弁当を食べることもなく、その子は原爆で焼かれてしまったのだろう。お弁当をつくってあげたお母さんや家族も亡くなってしまったのだろうか……》

焼けた衣服を見ても、少女美香は同じようなことを想像してしまう。人が身につける衣服や食器や日用品などは、単なるモノではない。その一つ一つに、使っていた人の思いや愛着や生活、時には人生までが染みついている。原爆資料館に限らず、様々な戦災の資料館や災害・事故・公害の資料館を見学する時に大事なことは、展示物を単なる遺物として見るのでなく、展示されているモノにまつわる人間の生活や家族や人生を想像することだ。そういうことを想像しわが身に重ねて受け止めることによってこそ、起きた戦争や災害などの悲劇の真実を理解できるようになるのだし、二度と繰り返してはならないという強い思いにつながっていくのだ。

美香が少女時代に性格に染み込むほどの形で身につけていたそういう感性は、いつ育まれたのか。本人の回想によると、幼い頃、家が経済的に豊かでなかったので、少ししかない絵本の一冊一冊を繰り返し繰り返し読んでは、登場する人物や動物に自分がなり切って、自分でどんどん物語を膨らませて楽しんでいたという。幼児期における絵本との触れ合い方は、その子のパーソナリティ形成に濃密に影響を与えるものだ。

小学校5年の時に、日本航空機墜落事故のテレビ報道を見て、犠牲者や生存者のその後のことや家族のことまで想像し心配したのも、その根っこは、幼少期に形成された感性の豊かさであっただろう。そして、中学生時代の修学旅行から27年が過ぎ、津波で6歳の愛娘を失くした母親となって震災伝承のあり方を考えるために、広島の原爆ドームや原爆資料館を再び目の前にした時、少女時代とは違った思いが頭の中を駆けめぐった。

核戦争は怖い、絶対に繰り返してはいけないといった思いとは別に、人生を断ち切られた犠牲者たちの無念の思いをどのように伝えていくべきか、遺品や様々な被爆資料などをどのような形で伝承に生かしていくべきか、生き残った者はどんな役割を果たすべきかなど、自分が担うべき役割への問いかけを感じたのだ。

そうした思いは、多くの人々に幼稚園バスの惨事をリアルに想像してもらい、子どもの命を預かる施設の防災体制やスタッフの意識を高める“教材”あるいは“思考喚起資料”として、愛梨の焼け焦げたちっちゃなくつとクレヨンケースを、震災関係の施設に展示してもらおうという積極的な意識を、美香の心の中で活性化させた。

展示を見つめる子どもの目

石巻市の震災遺構検討会議は、関係者の意見を聞いて、翌2017年3月に終了した。検討会議の意義は何だったかとなると、それは、門脇小学校の保存に反対していた地元住民のメンバーまでが、校舎を震災遺構にするのは、「未来の子どもたちが命のかけがえのなさを学ぶ“学び舎”として残さないといけないんだ」という思想に考えを切り替えたことに尽きるだろう。

石巻市は、その後、門脇小学校を震災遺構とすることを正式に決定して、その事業計画に取り組み始めた(オープンは2022年3月)。

その頃、石巻市が工事を進めてきた、門脇地区の南側の海岸寄りの広大な南浜地区を「石巻南浜津波復興祈念公園」として整地して、その中に「みやぎ東日本大震災津波伝承館」をはじめ、震災津波資料館の「南浜つなぐ館」やイベント広場などを点在させる「市民活動拠点」を配置する計画が完成間近になってきた。

続きをみるには

残り 5,967字 / 3画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください