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出口治明の歴史解説! 中華料理が世界に広まった3つの理由とは?

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年6月のテーマは、「衣食住(ライフスタイル)」です。

★前回の記事はこちら。
※本連載は第32回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】前回の講義で解説された中国の絹と同じように、綿織物も世界的に広まりましたね。綿が世界商品になったのはなぜでしょうか?

綿の衣服は、丈夫で長持ちしますし、吸湿性がよくて着心地もいいですよね。絹ほど高価ではないものの、昔からインドの特産品として知られ、ムスリム商人が主にイスラームの国々に運んでいました。

12世紀頃には、ベトナムを経由して中国に綿糸や綿織物の製造技術が伝わり、綿栽培が広がりました。ヨーロッパにインド産の綿布が伝わるのは、16世紀にポルトガル人がインドに到達してからのことです。17世紀になると、イングランドの東インド会社などを通して、綿織物はヨーロッパの国々へどんどん運ばれるようになります。これは地理的な理由によることが大きい。

中国からお茶や絹をヨーロッパへ運ぶときは、31回目の講義でお話ししたように主に「海の道」が利用されました。「海の道」を中国から船で陸伝いに西へ西へと進んでいくと、東南アジアを経てインドにたどり着きますよね。文明国のインドは、交易船の中継基地としてうってつけでした。船乗りたちはインドの港に寄り、水や食料を補給するとともに、汚れてしまった衣類の替えを買い求めました。

船を動かすのは重労働ですし、時には嵐に見舞われたりもする過酷なものです。綿で作られた衣服は丈夫な上に涼しいので船乗りたちに重宝がられました。インドに近づいたら「よっしゃ、また綿の衣服を買うで」と船乗りたちは思ったことでしょう。当然、その価値はヨーロッパにも伝わり、次第にインド産の綿製品が広まっていきます。

インドは19世紀半ばにイングランドによって植民地化され、同じ頃に産業革命が起こります。イングランドの資本家たちは蒸気機関を利用した工場で、綿織物を大量生産しはじめました。こうなると手工業のインド産に勝ち目はありません。

インドは原材料の綿花を作って、それをイングランドに輸出し、イングランドの工場で製造した綿製品を逆に輸入する形が主流となりました。綿織物の輸出で儲けていたインドは、逆に綿織物の輸入国になってしまったのです。

綿花を安く輸出し、高い綿製品を輸入しているうちに、インドはどんどん貧しくなってしまいました。イングランドが栄えたのは、産業革命によってインドの特産品を代替したことが大きな理由の一つとなっているのです。


【質問2】海外旅行に出かけると、どの町でも中華料理は食べられるように思います。どうしてここまで中華料理は広まったのでしょうか?

それはもちろん、世界各地に中国出身の人たちが住んでいるからです。誰でも生まれ故郷の料理を食べたくなります。おそらく腸内の細菌が故郷の料理に慣れているからでしょう。

中国では、明(1368~1644)から清(1644~1912)にかけて、鎖国政策がとられ許可なく外国へ出かけるのはご法度でした。

中国人が本格的に海外へ出ていくのは、清の末期、英仏連合軍と戦ったアロー戦争(第二次アヘン戦争、1856~1860)のあとです。

少しさかのぼって、その背景となるアヘン戦争(1840~1842)から説明しましょう。アヘン戦争に勝ったイングランドは、南京条約で清から賠償金2,100万ドルを4年分割で受け取ることになりました。これはめちゃくちゃな巨額です。

イングランドはこのお金で、シンガポールの開発を進めようとします。同じ南京条約で、香港島割譲、上海など5港の開港、貿易完全自由化などをも取り決めたので、中国大陸とインドを結ぶ中継港としてシンガポールを開発したのです。

シンガポールは港に適していましたが、労働者の確保が難しい問題でした。アロー戦争に勝った英仏連合軍は、清と北京条約(1860)を締結します。さらに賠償金を求め、天津を開港させるとともに、清の海外移住禁止政策を撤廃させ、自国からの移民を認めさせました。イングランドははじめからここに目を付けていたのです。

イングランドは、清で労働者を雇い、シンガポールの港湾工事に従事させます。つまり、清からぶんどった賠償金で、中国の人たちを働かせてシンガポールを開発していったというわけです。

彼らはとてもよく働いたので、イングランドは「これは優れた労働力や。ほかのところでも出稼ぎさせよう」と、植民地だった北米、南米、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、スリランカ、マレーシア、ハワイ、フィジーなど、世界中に中国の労働者を移民させました。なかには奴隷同然に扱われた人たちもいて、「苦力(クーリー)」と呼ばれました。でも、これによって彼らの食生活や食文化が世界中に広がっていったのです。

とはいっても、複雑な料理では、自国以外で広まることはなかったでしょう。中国料理が世界中で食べられる理由があります。それは、食材と調理法です。

中国料理は、実に多様な食材を用います。たとえば、清王朝の乾隆帝(1711~1799)が始めたとされる満漢全席は、数日間かけて100種類を超える料理が出ることもあったそうです。

わがままな乾隆帝が、同じ食材はすぐに飽きて、「なにか別のものが食べたい」といっても不思議ではありません。珍しい食材が次々と使われた結果、中華料理のメニューの数も増えていったのでしょう。

どんな食材でも中華料理にできるのは、宋の時代に高温の油で揚げたり炒めたりする調理法が開発されたおかげです。アツアツの油で炒めれば、たいていの食材は殺菌されてお腹を壊すことはありません。

この調理法が完成したのは、宋の時代に「火力革命」が起きたことが要因です。石炭とコークスによって比較的簡単に高温にすることが可能になったのです。これによって製鉄技術が高まり、鉄製農機具を作れるようになり、農業の生産性は飛躍的に向上しましたが、料理の世界では、高温の油で調理する中華料理の原型がその頃に誕生したのです。

つまり、この調理法さえ知っていれば、どこに住もうと、その土地で手に入る食材を使って中華料理は作れるのです。むしろ「この珍しい食材で、美味しい中華料理ができるかも……」と期待できるというものです。

世界中で中華料理が食べられるのは、中国人が各地に広まっただけではなく、現地の食材を簡単な方法で調理することができたからなのです。

(連載第32回)
★第33回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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