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北村滋 プーチンのスパイとの攻防 外事警察秘録⑥

「同じ業種の仲間だよな、君は」。プーチンは私に声をかけてきた/文・北村滋(前国家安全保障局長)

★前回を読む。

北村滋氏

「プーチン氏は必ず現れる」

安倍晋三総理の命を受け、国家安全保障局長としてウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン ロシア連邦大統領と会談した2020年1月16日、大統領公邸が所在するモスクワ近郊、ノヴォ・オガリョヴォは、曇天なるも初春の穏やかさが感じられた。同地の1月の平均気温は氷点下6度ほどだと聞いていたが、その日はプラス2度を下回ることもなく、暖房の効いたホテルや移動の公用車内では、少し汗ばむくらいであった。

会談を待つ間、私は会談を受け入れたプーチン氏の胸中を自分の過去との関わりの中で推し量っていた。首脳外交では「遅刻の常習者」と評されるプーチン氏のことである。「首脳どころか閣僚ですらない人物と会うだろうか」「会談はドタキャンされるのではないか」。我が国関係者の間には直前まで、疑念や懸念の声があった。だが、プーチン氏は、この会談に必ず現れる。私は、そう確信していた。

会談は、前年に、国家安全保障局長のカウンターパートであるニコライ・プラトノヴィチ・パトルシェフ連邦安全保障会議書記が来日した際に安倍総理が会談したことへの返礼という位置付けであった。パトルシェフ氏は、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の出身。首相代行に任命されたプーチン氏に代わってKGB国内部門の後継機関である連邦保安庁(FSB)長官を担った人物で、プーチン氏の最側近でもある。安倍総理が構築したプーチン氏との信頼関係を合わせて考えると、返礼として設定された会談の意味合いは重かった。

プーチンはボールペンで……

大統領公邸の主は、定刻より40分程遅れて特徴的な歩き方で、会議室に姿を見せた。

先に、プーチン氏がこの会談に現れると確信していたと書いた。根拠はインテリジェンスの世界に生きてきた者の直感、としか言いようがないのだが、当時、プーチン氏は安倍総理との首脳会談を真剣に希求しており、安倍総理の代理人たる私との会談に、一定の実益を見いだしていた。

さらに言えば、プーチン氏との会談の前週、私がドナルド・ジョン・トランプ米国大統領と会談していたことも、プーチン氏にとって私と会談するインセンティブになっていたのかもしれない。

1月8日(米東部時間)、私は日本のナショナル・セキュリティー・アドバイザーとしてオーバル・ルーム(米国大統領執務室、Oval Room)にいた。トランプ氏との会談は、文在寅政権下で極端に悪化した日韓関係の縺れた糸を解きほぐすことを目的とするもので、盟友ロバート・オブライエン国家安全保障担当大統領補佐官の周到な取り計らいによるものだった。米朝間の仲介者の役割を果たした韓国の国家安全保障室長・鄭義溶(チョンウィヨン)氏も同席していた。米国としては、19年2月のベトナム・ハノイ会談で決裂した米朝プロセスをなんとか打開するため、日米韓の連携と結束を誇示しておきたいとの思惑もあったのかもしれない。

プーチン氏は、KGBで培われた諜報と謀略を本質とするソ連以来の伝統的な統治思想と、経済利益の追求という実利主義を兼ね備えた指導者である。日本の内閣総理大臣の代理人である「Сигэру КИТАМУРА(シゲル・キタムラ)」という男について、報告書を読み、バックグラウンドチェックも済ませているはずである。

通訳を入れて40分。会談は和やかに進行した。内容に関して詳細を明らかにすることは控えるが、2020年2月10日付けの産経ニュースは以下のように伝えている。

《プーチン氏「安倍首相にくれぐれもよろしく伝えてほしい。(日露首脳会談を)いつ、どこで行えるか話したい」

北村氏「日露間の戦略的連携を強化し、相互に信頼できるパートナーを目指したい」》

会談場で着席すると、プーチン氏の卓上に灰色の表紙のファイルが無造作に置かれていた。中身は、私に関する記録であろう。警察庁入庁から外事課理事官、外事課長、外事情報部長―中国や北朝鮮、ロシアのスパイを監視し、摘発を指揮、統括してきた経歴が記載されているのに相違なかった。

頭の片隅にそんなことを思いながらプーチン氏の手元に目をやると、備え付けのボールペンの先をノートパッド上でさらさらと動かしている。直線、曲線や円を描いたり、それを塗りつぶしたりして弄ぶのがクセのようだ。さながら、ロシア出身の画家ワシリー・カンディンスキーの絵画のような造形でもある。プーチン氏の人間くさい面を見た―のだが、あるいはあえて、その面を見せたのかもしれなかった。

北村氏と会談したプーチン

人間観と人心掌握術

会談は、終始ソフトなムードで幕となり、握手を済ませて部屋を出る際、プーチン氏からこう言葉をかけてきた。

「同じ業種の仲間だよな、君は」

私は、プーチン氏が私をどう見ているか、この会談に何を求めていたかを理解した。腹の中を掴みだされるような言葉だが、プーチン氏の人間観や人心掌握術が凝縮されている。

情報提供者や、特定の国家、組織の政策、方針に影響力を行使できる協力者を獲得し、運用する機関員を「ケース・オフィサー(case officer)」と呼ぶ。会談でのプーチン氏はまさにそれで、工作を仕掛ける相手に対するプロフェッショナルの接し方だった。「同じ業種の仲間だよな」についても、資料を読めば書いてあることではあるが、別れ際にあえてその一言を繰り出すセンス。プーチン氏は大統領であると同時に、依然として一人のケース・オフィサーでもあった。

警察官僚として数々の事件で「spy catcher(スパイ・キャッチャー)」を統括し、その後「Director of Cabinet Intelligence(内閣情報官)」として「機密情報」を担い、いまは国家安全保障局長を務める男が、内閣総理大臣の代理人として目の前にいる―。KGBのケース・オフィサーの目に、私は如何なる異国の「同業者」として映ったのか。

会談を終えると、公邸の周囲は漆黒の闇に覆われていた。シェレメーチエヴォ空港に向かう車中、車窓をひたすら打つ雨。我が国のカウンターインテリジェンス(外事警察)が摘発してきた数々のロシアによるスパイ事件が脳裏に去来した。特に――。それは2005年秋、警視庁公安部が摘発した事件だった。

SVRスパイの手口

2004年4月、千葉市の幕張メッセ。メーンの国際展示場だけで5万4000平方メートルの展示スペースを持つ日本最大級の複合コンベンションセンターで開かれた電気機器の展示会の片隅で、西欧人風の男が動いた。

「イタリア人で名前はバッハです」

出展企業の一つである東芝系子会社のブースでこう自己紹介した男は、製品説明役の男性社員に「経営コンサルタントで、日本への進出にあたり力を貸してほしい」と語りかけ、急速に間合いを縮めていった。都内の飲食店などで重ねた接触は、翌2005年初夏までの間に十数回に及んだ。社員は「バッハ」に、営業秘密を漏らすまでになっていた。

だが「バッハ」には、社員に見せない別の顔があった。ロシア連邦対外情報庁(SVR)のスパイ、ウラジーミル・サベリエフ―。これが、男の正体だった。

サベリエフは、日本に入国、滞在するに当たり、日露貿易の発展などを所管する在日ロシア連邦通商代表部員という公的身分を装ったいわゆる「オフィシャル・カバー(公的身分偽装)」であった。実際のところ、通商代表部にはオフィシャル・カバーが多く所属していた。外事警察による過去の摘発事例も少なくなく、経済産業省や業界団体は、メーカー等に対して「ロシア通商代表部」に関するアラートを鳴らしてきた。国籍や職業を偽って接近したのも、ターゲットに警戒心を抱かせないためであった。

SVRスパイは、エージェント獲得の初期、インターネットで容易に入手可能な公開情報を求める。これは、対象者に安心感を抱かせるためだ。次に閲覧者が限られる、非公知情報を要求。これに、少額の金品を与える。対象者はこの段階で“私は相手にとって不可欠な存在なのだ”という「承認欲求の罠」にはまる。そして、次第に「逢瀬」を重ねる中で、機密資料の対価として比較的高額な現金――多くの場合、1回当たり10万円程度――を渡すようになる。ここまでくると、対象者は、カネと承認欲求の充足を通じて、スパイに経済的、精神的に依存するようになってしまう。サベリエフの手口も、ほぼこのSVRスパイの「定石」に沿っていた。

エージェントとなった社員は、サベリエフの要求を満たそうと、大胆にも会社から貸与されたノートパソコンを社外に持ち出し、目的の情報をコンパクトフラッシュカードに複写し、手渡していた。

この事件で、サベリエフが社員に支払った謝礼は総額100万円程度であった。さらに、サベリエフは社員が勤務する企業の社内ネットワークへの侵入方法にまで、関心を示していた。この情報が漏洩していたとしたら、当該企業は、サイバー攻撃のターゲットになったことは疑いない。ロシア・スパイの貪欲な情報収集活動と、危険な本質に戦慄するばかりだった。

この事件で漏洩した情報は、パワー半導体に関する技術情報だった。技術流出にまつわる捜査では、被害状況を把握するため、当該漏洩情報に関する製品のスペック(性能や仕様)と技術そのものの有用性について、流出元企業に確認を行う。流出元企業は、管理責任の回避や刑罰減免のため、性能を低く説明することが多いが、この事件もその例に漏れなかった。

ロシア側に漏れたのは、電流を制御する半導体素子に関する情報。民生品に使われる技術で、流出元企業は「顧客に説明するための資料であり、軍事転用できるレベルではない」と主張した。しかし、実際には、潜水艦や戦闘機のレーダー、ミサイルの誘導システムへの転用が可能な「デュアルユース」であるとの結論を得た。日本の安全が、たかだか100万円程度で売り渡されたのである。ロシアにとっては実に安い買い物である。我が国は、また一つ、経済安全保障という血の流れない戦場で敗北を喫したのである。

スパイ事件の捜査は、端緒の捕捉から監視、採証、着手に向けた検察、経済産業省など関係機関との連携など、いくつものハードルを完全秘匿裏に越えていく。繊細さにおいて気の遠くなる作業の先にやってくる最大のヤマ場は、スパイとそのエージェントとが相そろう接触現場で、任意同行を求める瞬間だ。

スパイの“悪夢の瞬間”

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