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【蓋棺録】早乙女勝元、イビツァ・オシム、山本圭、中山俊宏、佐々木史朗
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【蓋棺録】早乙女勝元、イビツァ・オシム、山本圭、中山俊宏、佐々木史朗

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偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。

早乙女勝元さおとめかつもと

作家の早乙女勝元は、12歳のとき東京大空襲を体験し、その惨状の記録と後世に伝える活動に尽力した。

「勝元、起きろ!」という父の声で跳ね起きたのが、1945(昭和20)年3月10日零時過ぎだった。家族と共に外に出たときには、すでに周囲は米軍の空爆により燃え上がり、大きな地鳴りのような音が続いている。勝元の家族も劫火から逃げ惑うだけで、早朝には橋上や建物内には焼死体が重なり、川には隙間なく死体が浮いていた。

32年、東京の足立区に生まれる。父は勤め人だったが道楽者で普段は家に寄り付かなかった。小学校を卒業し高等科に進むが、毎日工場での勤労奉仕だった。空襲では「目もくらむばかりの光線と、地脈をゆるがす不気味なひびき」が記憶に焼き付いた。

戦後、墨田川高校を卒業して、ハーモニカ工場に勤める。小説を書くようになり、18歳の作品『下町の故郷』が直木賞の候補となった。職場をモデルにした『ハモニカ工場』も注目を集め、作家としての人生を歩み始める。

作家活動が転機を迎えるのは、70年に東京大空襲の遺族を訪ねて記録を残そうと思い立ったときだった。「東京空襲を記録する会」を立ち上げて多くの人から話を聞こうとするが、遺族の口は重く会うことすら拒んだ人もいた。また、意外なことに、公式の記録を除くと体験記が少なく、基本資料もドイツに比べると極端に貧弱だった。

しかし、苦労して話を聞き、データを集めて整理し、その夜の出来事を描きだして、71年に『東京大空襲―昭和20年3月10日の記録―』を上梓する。家族と逃げているうちに生き別れになった人たち。空襲の最中に産気付いて、劫火の中を担架に乗せてもらって移動した女性。なかでも母親が幼児を背負って火から逃げおおせたと思ったとき、すでに背中の子は死んでいた例は多かった。

たちまちベストセラーとなり多くの人に読まれ、そして読み継がれた。以降、少年少女向けを含めて、関連した著作を40冊以上刊行している。2002(平成14)年には「東京大空襲・戦災資料センター」を開設し、若者に体験を伝えようと試みた。

最初の本には、3月10日の死者は約8万人と書いたが、勝元たちの努力もあり、いまは、約10万人とするのが定説になっている。「あれほど書いたのに、東京空襲については、いまも不思議に知られていないんです」。(5月10日没、老衰、90歳)

★イビツァ・オシム

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サッカー元日本代表監督のイビツァ・オシム(本名 イヴァン・オシム)は、欧州で選手および監督として活躍し、来日してからは言葉と人柄で日本人を魅了した。

2003年、ジェフユナイテッド市原(現・千葉)の監督に就任するため来日。最初の晩餐会で、選手たちのテーブルを2回ずつ叩き、あとは黙々と料理を食べた。選手たちは唖然としたという。

1941年、旧ユーゴスラビアのサラエボで生まれる。父は鉄道工。少年時よりサッカーが上手かった。サラエボ大学では、数学の成績がよかったが、家計のため地元チームに入る。ジェレズニチャル・サラエボに移籍し、64年東京五輪の際はユーゴ代表の1人として来日した。

その後、フランスのRCストラスブールで活躍し、79年にジェレズニチャルの監督、86年には旧ユーゴ代表監督となる。91年からはパルチザン・ベオグラードの監督も兼任した。

翌年、ボスニア内戦が始まり、選手たちは帰属をめぐって激しく動揺する。オシムはパルチザンをユーゴカップ優勝に導いた直後、分裂への抗議の意味を込め、パルチザンおよびユーゴ代表の監督を辞任した。「故郷に対して私は今できることをする」。

その後、オーストリアのSKシュトルム・グラーツの監督となるが、妻と長女は出国制限のためにサラエボに残したままだった。グラーツではチャンピオンズリーグに3度出場するなど、かなりの成績をあげている。

ジェフ市原の監督を引き受けたのは、日本に親しみがあったからといわれる。最初の選手への挨拶では、故郷の厄除け儀礼にしたがって、テーブルを叩くだけにしたが、その後の記者会見やインタビューでは、選手について独特の発言が注目された。

「ライオンに追われるウサギが肉離れを起こすか。練習が足りないだけだ」「君たちはプロだ。休むのは引退してからでいい」「本当に強いチームは夢を見るのでなく、できることをやる」「アイディアのない人間でもサッカーはできるが、選手にはなれない」

どれも辛辣だが洞察に満ちていた。もちろん言葉だけではなかった。独特の練習法で選手たちが活気づいて、2005年にはヤマザキナビスコカップで優勝する。06年には日本代表監督に就任。このときもオシム流を通し、何らかの成果は確実と思われた。しかし翌年、脳梗塞で倒れ、オシムはリハビリ中に退任を決意する。

その後もサッカー界はオシムを必要としていた。11年、ボスニア・ヘルツェゴビナが統一したサッカー協会の会長を選出できなかった。オシムは後遺症の残る体に鞭打って正常化委員長に就任、三民族の代表を説得し協会を統一に導く。「これは難しい試合だ。勇気を持とう」。(5月1日没、不明、80歳)

山本圭やまもとけい

俳優の山本圭は、社会の矛盾に反発する青年の役で注目され、舞台ではシェークスピア俳優として知られた。

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