習近平「日本料亭の夜」日本人8人が証言する独裁者の素顔 安田峰俊
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習近平「日本料亭の夜」日本人8人が証言する独裁者の素顔 安田峰俊

日本人8人が証言する独裁者の素顔。/文・安田峰俊  (ルポライター)

安田峰俊

安田氏

「大きな山みたいな人」

「習近平さんはね、非常に印象的だったんですよ。表情がほとんどない。笑うときも、笑っているかいないかわからないくらい。声は低く穏やか、しかし言語明瞭に喋る。ムダな話は一切しない。だから失言はゼロ。しかし、面白い話もしない」

元沖縄県知事の稲嶺惠一(87)は、20年前に見た習の第一印象をそう話す。2001年2月27日、県と友好関係を結ぶ福建省の省長だった習は、同じく友好県省の長崎県を経由して到着。稲嶺知事を表敬訪問し、那覇市の中国式庭園「福州園」や首里城を視察している。

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2001年、福建省長として那覇を訪問

将来の習の出世を、日本側の誰も予想していない時期だ。ただ、無表情で寡黙な身長180センチの巨漢は、稲嶺に強い印象を残した。

「不思議な人でしたねえ……。特に強い好感を抱かせる要素はないが、反感も覚えさせない。才走った感じも、偉ぶる感じも、威圧感もない。まったくなにもない。しかし、『存在感』だけは強烈にあった」

稲嶺は過去、台湾の李登輝や中国外交部の李肇星(元外相)、王毅(現外相)とも面識がある。中華圏の政治家は多弁な人が多い。知識や実績をアピールし、冗談で場を和ませ、ときには家族の話も喋る。しかし習は他の中国人とは違った。

「でっかい熊さんというか、大きな山みたいな人だった。彼を嫌う人はきっと誰もいない、もっと出世するだろうとも思いました」

稲嶺の予測は、やがて見事に的中した。ただし往年の習の様子は、フラットな調整型の政治家に見えた。

2021年7月の建党100年集会で1時間にわたる長広舌を振るい、西側各国の対中干渉に「14億の中国人民が血肉をもって築いた鋼鉄の長城にぶつかり血を流す」と挑発してみせた強面こわもての独裁者の表情は、以前は片鱗も見られなかったものだ。

かつて長崎県知事として習と関係を深め、2009年までに5回の面会歴がある金子原二郎(77、現参議院議員)もこう話す。

「過去の穏やかなイメージと、近年マスコミで伝えられる姿が違いすぎる。なぜあんなに変わったのか。むかし習さんに会った人は、みんな不思議に思ってるんじゃないか?」

では、最高権力を握る前の習はどんな人物だったのか。過去、日本人たちの目に映った姿から、彼の素顔を可能な限り描き出していこう。

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習近平

夫人の手料理を食べた習近平

習近平は日本との縁が薄い——。

従来、日本の報道では、そうした見解が主流だった。事実、前任者の胡錦濤が青年期に日中交流活動の責任者を務め、高倉健や中野良子のファンであったことなど「親日的」な側面をのぞかせたのと比べ、習に同様の話はほぼ聞かれない。

これは習の地味な個性に加えて、彼が2007年10月に党中央の指導者入りするまで、福建省や浙江省などの地方勤務歴が長かったことが一因だ。

だが、ゆえに日本と無縁と見るのは早計である。習は現在まで、最低でも6回の訪日経験があり、北海道・大阪・兵庫・福岡・長崎・沖縄などに足跡を残している。地方勤務時代には無数の日本人訪中団を接待し、若き日には何人かの日本人ビジネスマンと親しい関係も築いた。

例えば、昨年7月に刊行された党のプロパガンダ書籍『習近平在福州』の逸話は興味深い。

福建省に進出していた「東海リース」の創業者・塚本幸司が、大阪の自宅に習を2度も招いたというのだ。1回目の1990年には、塚本夫人が手料理を振る舞ったという。

同書は、塚本夫人が「はじめ共産党員を恐れていたが、37歳の習書記が礼儀正しくおおらかで笑みを絶やさず、話が理論的で含蓄に富んで」おり「いまに大事を成す人物と感じた」ので、考えを改めたと記している(実際は前年に発生した天安門事件の影響で中国共産党に忌避感情を持っていたものの、習本人には好感を抱いたのだろう)。

ほか、福州市に合弁会社を設立していた沖縄の石材会社Sの先代の社長が、習と深く付き合っていたことも、稲嶺惠一やS社の現社長らの複数の証言から明らかになっている。

大手商社マンには、習と白酒バイジョウ(中国焼酎)を何度も酌み交わした者もいた。習は酒豪で、杯を重ねてもなかなか酔わなかったという。

——ただ、若き日の習を知る人々は現在90歳前後。上記の3者に取材を試みたが、高齢や認知症・体調不良を理由に断られた。

独裁者がくれた白い壺

「国家主席になったとき、テレビを見て驚きましたよ。印象が変わらないからすぐわかった。『むかし習近平と握手したことがある』と人に話すと、みんなびっくりしますね」

那覇市内で笑ってみせたのは、70代の沖縄県民・國吉くによしだ。過去に習と会ったクニンダの一人である。

クニンダ(久米三十六姓)とは、約600年前に福建省から渡来した中国人を祖先に持つ人々で、琉球王国の士族階級だった。現在はすっかり日本化しているが、一族で孔子廟の祭祀を伝える。日本人の中国渡航が容易になった80年代からは、祖先のルーツを探し福建省を短期訪問する人も増えた。

國吉が習に会ったのは1995年12月である。他のクニンダたちと訪中する際、当時の那覇市長・親泊康晴おやどまりこうせいが姉妹都市の福州市に連絡したところ、市のトップだった習が対応してくれたのだ。

「優しそうなおじさんでした。歓迎レセプションでは久米三十六姓に何度も言及し、『よく来たねえ』と親しみを示してくれた。いっぽう『これを機に福州市への援助を期待したい』とも言っていましたが」

日中間の経済格差が大きかった時代だ。國吉たちは大歓迎を受け、どこへ行くにもパトカーで先導された。帰りは「習近平寄贈」と金文字で書かれた白い壺を土産にもらい、意気揚々と那覇に戻った。

習は1991年、市政70周年式典出席のため那覇に来ており、クニンダの故事を知ったらしい。翌1992年には福州市内で琉球館(琉球王国の出先機関)の建物復元事業の完成にあたりスピーチ。さらに2000年代に稲嶺惠一と会った際もクニンダの歴史に言及している。

稲嶺が2002年に福州市を訪問したときも、歴史を重視する習のこだわりを目にした。

「市内の琉球人墓(近世に中国で死亡した琉球人の墓)が非常にきれいに掃除されていた。あれは嬉しかった。その後、習近平さんとの会談の際、最初にお礼を伝えましたよ」

当時、尖閣問題はまだ激化しておらず、習本人も国家規模で沖縄の取り込み戦略を図るような立場ではなかった。習の琉球史好きは、個人的関心に基づいていた可能性も高い。

1995年の沖縄県の交流冊子に残された若き習近平

沖縄県の交流冊子に残された若き習近平

料亭で卓袱料理、踊りを所望

いっぽう、沖縄県と並ぶ福建省の友好県が長崎県だ。習近平は1990年と93年にそれぞれ長崎を訪れ、1回目は福建省出身者の墓が多い崇福寺を視察。福州市の写真を寄贈している。

やがて1999年、習は福建省長代行として、前年に当選した長崎県知事・金子原二郎率いる訪中団を受け入れた。もっとも初対面では形式的な付き合いに終始した。

だが2001年2月、習が長崎を訪れたときに変化があった。金子が言う。

「習近平さんが表敬訪問に来た際、県庁の職員が全員総出で玄関から廊下までズラッと並んで、拍手で出迎えたんですよ。前に私たちが福州でお世話になったからね」

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