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美しい人――ヤマザキマリさん|中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第24回です。最初から読む方はこちら。

 マンガ家として有名なヤマザキマリさん。『テルマエ・ロマエ』を百歩譲って読んだことはなくとも名前を知らないという人はわずかなのではないか。

 オンラインの和英・英和辞書weblioにこんな例文が掲載されていたのを以前、発見した。

・「テルマエ・ロマエ」は人気の連載漫画だ。

 "Thermae Romae" is a popular comic book series.

・「テルマエ・ロマエ」の映画シリーズでは,彫りの深い顔で有名な日本人俳優たちが古代ローマ人を演じている。

 In the "Thermae Romae" movie series, Japanese actors noted for their sculpted faces play ancient Romans.

 面白くなってしまって、例文に作品名が使われてますよ(笑)、とLINEしたら、テルマエよりもっと××とかにすればいいのに!と、他の作者のマンガを挙げて謙遜されていた。マリさんらしい反応だなと思う。

『テルマエ・ロマエ』だけでなく、『プリニウス』『オリンピア・キュクロス』などいくつも他に読み応えのある作品をマリさんは発表されている。豊かな知識をベースに、自由なストーリーが展開されていくのが楽しく、読んでいるこちら側も時間旅行をしている気分になってくる。そのなかでも白眉は人物造形ではないだろうか。時にユーモアを、時に狂気を湛えた登場人物たちの心の裡に分け入るようなマリさんの描写に触れていると、本当にその人物と、時空を超えて対話しているような気分になってくる。きっと、マリさん自身も、そんな風に登場人物たちと対話しながら、物語を描いていっているのではないかという気がする。

 年下のイタリア人のご主人とも、古代ローマの皇帝について話していて、意気投合したのがきっかけで結婚されたという話を聞いた。マリさんのような女性と熱く議論を交わしたら、知的な男性はそれはもう虜になってしまうだろう。あのセクシーな低音ヴォイスで、ただの知識の披歴ではなく、生きた智恵として熟成された歴史や人物分析や人間関係の妙が語られていくのを受け止め、毎日、その思考の端々に触れることができるのである。ご主人の気持ちがとてもよくわかるし、私ももし自分が男だったら、マリさんのような女性と結婚したいと思う。

 マリさんは音楽家のご両親の元に生まれ、ごく若い頃から移動の絶えない暮らしであったという。先般、『たちどまって考える』という本を上梓されたばかりで、マリさんの多作ぶりと知的活動の旺盛さに目を瞠るばかりである。彼女の思考様式の魅力は、かならず知識を自分のものにして、新しい息吹を与えてからアウトプットするという点に尽きるのだけれど、まさに豊穣の神ペルセポネ(プロセルピナ)を連想させるような人なのだ。

 そもそも、『オリンピア・キュクロス』を連載するきっかけも、たまたまテレビでオリンピックの閉会式を観ていて、もしも古代ギリシャのアスリートが現代のオリンピックの閉会式にうっかり入ってきたら、面白いことになりそうだなあ、という妄想が浮かんだからだという。2000年以上も経っているのに、コロシアム的なスタジアムが未だに使われているということがまず面白いとマリさんは考える。一方で、オリンピックのコンセプト自体はもう全然違ってしまっていたりもする。神への奉納として行われていたオリンピックが、現代では大きな経済効果を生み出すイベントになった――オリンピックが時代ごとの人間の精神性や社会環境を反映しているということにマリさんは注目するのである。

 文献的な知識でしか知りようのないことを、マリさんは2000年も後の人間でありながら、悠々と現代によみがえらせてしまうのである。こういった業というのは、簡単にできるようでいて、そうではない。やや盛った言い方かもしれないが、神に愛された知性というのはこういうものかと、お話しするたびにいつも圧倒され、敬愛の念を深くしてしまう。

(連載第24回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。


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