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愛が毒に変わるとき|中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第37回です。最初から読む方はこちら。

 こう変わってくれたらいいのに、ともしも誰かに対して思ったとしたら、その時点でもうその人のことを許容してはいないのだ。変わったあとのその人はもう、今見ているその人ではない。もしかしたら、こう変わってくれたらいいのに、という心理的プロセスそのものを楽しんでいるフシすら、あなた自身の心の一面に、あるのではないだろうか。誰かを、私が正しいと信じている方向へ、私が導いてやる。そのことを快感に思わない人はまれだろう。処女信仰がこの21世紀もそろそろ初頭とは言い難くなってきた20年代にあって、なお力を持っているのもこのためだろう。私がこの女を正しく導いてやる。俺の女として、俺の色に染めてやろう。男女逆でも成立するかもしれない。私がこの子を教育してやろう。私のいた“しるし”をこの子に残してやろう。

 考えてみれば脳が恋愛のさなかにあるときは究極の人権無視へと極めて容易に移行しやすい状態であるわけで、古来、間諜も政治的リーダーも恋愛で相手の脳をこういった状態に持っていくというのを方法論の基礎として使ってきたわけだし、もちろんドメスティック・バイオレンスの犠牲になって亡くなる人というのも後を絶たない。そして加害者は口をそろえて、相手のことを愛していた、というのである。もちろん、保身もあるだろうが、8割方は本当にそう信じていると思われる。自分はその閉じた関係の中においてだけは、王/女王になれるのである。いたぶる快感に我を忘れ、相手を痛めつける言動は過激さを増していく。自分の愛している相手の生殺与奪権を握っているという感覚の中毒性は、相手が死んでもなお自らの異常性に気づくことができなくなるほどおそろしい、ということになるだろう。

 その人の「そういうところ」が許容し難いなら、最初からそういうところのない人を探すべきであって、その人を選んで付き合った自分の見込み違いを反省してさっさと損切りするか、または受容という選択肢しかない。その人を変えるのはその人であって、自分ではない。

 あたかも、デザインは気に入っているのにどうしてもサイズの合わない服を着るようなものかもしれない。最初から着ることを諦めるか、自分か服かのどちらかに無理を強いてなんとか合わせるようにしなければならない。長さを合わせるために高過ぎるヒールを履いたり、無理やり自分の体を締め付けたり、もしくは無茶に盛ってみたり、過激なダイエットをしたりしなければならない。なんとかして一度きりくらいなら、着ることもできなくはないかもしれない。

 でも、無理にサイズを合わせて着ても、それが着心地のいい服になる可能性は極めて低いだろう。自分の無理は長くは続かないし、少なくとも心から楽しめるものにはなりにくい。服の方をお直しを加えて何とか着られるようにしても、当初のスタイリッシュなデザインとは変わってしまうだろう。思っていた通りの姿になることは期待薄だ。
 
 あるいは、そもそも種が植えられていない畑にいくら水を撒いても芽は出ない、というたとえのほうが良いだろうか。せっせと愛情という名の水を注いで、いつか芽が出るに違いないと、その日を切実に待ち望む。そうして、待てど暮らせど芽が出ない。永遠にやってこないその「芽が出る日」まで、どれほどあなたは待っていられるだろう。

 愛しているその相手はもうあなたのことなど見ていないし、あなたのことなど考えもしていない、かもしれない。この「かもしれない」の確率はどれくらいだろう。少なく見積もっても、半分よりは大きいのではないだろうか。相手が目の前にいないとき、あなたが楽しみのさなかにいるとき、あなたはわざわざ相手のことを考えたりするだろうか?

 愛している相手が別の誰かと楽しんでいることを、あなたはきっと許せないだろう。たとえばこれが友人なら、友人として大好きなその相手が楽しく過ごしていることを、喜ぶことがごく自然にできるのではないかと思う。

 けれどひとたびこれが恋愛感情を向ける相手となったとき、様相は一変してしまう。相手が楽しんでいるそのことを、自分の喜びとしては感じられなくなるだろう。それが人間の仕組みだからだ。相手が楽しんでいればそれでいいじゃない、と試しに主張してみるといいと思うが、ただ強がっているだけだと呆れられるか、完全に頭のおかしい人間だと思われてしまうはずだ。

 相手が自分の知らない場所で楽しんでいることを想像するだけで息が詰まり、動悸がし、体中の血が凍るような思いをする、そういう人も少なくないだろう。不思議なもので、私たちは最も身近で大切な相手が楽しく過ごしていることを楽しめない。人間は業の深い生き物だ。

 薄く浅い思いしかなければ、寛容に振る舞える。なのに、愛や期待が深ければ深いほど、相手を許せない。許せないどころか、沈殿してこびりついた泥のような苦しみが晴れるまで、容赦なく相手を攻撃しようとする。その人を自分の枠の内に取り込んで、ああこれで安心だと納得するまで、その感情は止まることがない。

 すっかり相手が人間らしい意思を失い、あなたの軍門に下ったとき、やっとあなたの心は安らかになるだろう。

 そして、いずれまた、その安寧を物足りなく思い、新しいターゲットを探し始めることになる。

(連載第37回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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