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小説「観月 KANGETSU」#34 麻生幾

第34話
熊坂洋平(7)

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※本連載は第34話です。最初から読む方はこちら。


「病院に行ってきちんと検査しない(しなさい)」

と七海は、ここ最近、何度もそう言ってきた。

  だが母はその都度、

「分かったわ。ちゃんと行くけん」

と言うばかりでなかなか病院へ足をむけようとはしない。

 風邪もめったにひかないし、根っから健康には自信がある母のことである。

 大病を患っているとは七海は思わなかった。

 しかし、67歳になった母にしても、持病があってもおかしくない。

 だから、ちょっとでも長生きしてもらうためには、今からこそ、ケアして欲しい、

と思っていた。

――ひ孫の世話もバリバリやらせてもらうから。

 それが母の口癖だった。

 食事を終えて自分の部屋に戻った七海は、パソコンを立ち上げ、グーグルで“真田和彦”の名前を検索してみた。

 だが、七海はすぐに溜息をつくことになった。

 ヒットしたのは、さっき見た事件に関するニュースばかりで、内容はどれも同じだった。その他には、同窓会の名簿などのサイトで同姓同名の記述があったが、どう考えても別人だった。

 ベッドの上に仰向けに転がった七海は、天井を見つめながら母のことを考えてみた。

 父が亡くなって、23年もの間、女手ひとつで自分を育ててくれた母。

 自分は、母のすべてを知らないにしても、誠実という言葉があてはまる女性であったことは確かだ、と思った。

 自分に対しても常に優しく見守ってくれ、時には厳しく叱ってくれた母。自分の人生の中で、母に一番感謝しているのは、中学時代に同級生からイジメにあった時のことだ。

 母には言えなかったが、実は、自殺まで考えたことがあった。

 しかし母は、そんな自分の悩みを見抜いていた。

 学校から帰ってすぐに自分の部屋に閉じこもっていた時、部屋のドアの前でこう言ってくれた。

「引っ越してんいいちゃ。七海ん思い通りにすりゃいいけん」

 その言葉で私は救われた。

 すべてが吹っ切れたのだ。

 今でも母への気持ちは、信頼、尊敬という言葉しか思い浮かばない。

 だからこそ、わだかまりを引き摺っているのだ。

――真田和彦ちゅう人物に、母は何を思うちょんのやろ……。

 その時だった。

 外から車のエンジン音が聞こえた。

 咄嗟に立ち上がった七海は窓へ駆け寄った

 カーテンを急いで開けた七海は、その光景をじっと見つめた。

 1台の乗用車がゆっくりと発進してゆく。

 そのテールランプ越しに、車のナンバープレートがはっきりと見えた。

10月6日

「用意したホテル、気に入っちくれたかえ?」

 熊坂洋平の前に座った涼が、その顔を覗き込むようにして訊いた。

 毎日、30分はかかる杵築の自宅に迎えに行って、帰りはまた送るという面倒なことよりも、宿泊同意書を書かせて、別府市内のビジネスホテルに泊まらせるということを捜査本部長である杵築署長が了承してくれたのだった。

 当初、杵築署長は、熊坂の無免許運転を検挙して身柄を抑えることを主張したらしい。だが、正攻法で行きたい、という捜査本部を仕切る管理官の考えが採用されたということを涼は正木から聞かされていた。

 涼の問いかけに、熊坂は今日も、顔を俯(うつむ)けて押し黙ったままだった。

「今日は、事件とは違う話をしようやんか」

 大分県警捜査第1課の正木は、熊坂の背後に回り込み、その肩にそっと手をやった上で穏やかな口調で語りかけた。

「あんたん目の前におる、こん若え刑事、最初に紹介した時んこと覚えちょんか? 首藤、ちゅう名前んだけんど-」

   何を言い出すのか、と涼は慌てて正木の表情からその理由を探った。

 熊坂の方はまったく反応を見せなかった。

「この首藤刑事の婚約者は、島津七海、っちゅう女性なんちゃ」

 熊坂が突然、顔を上げて涼を凝視した。

(続く)
★第35話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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