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エリザベス女王 世界一見事な終活 現地レポート 君塚直隆

“Century”(世紀)を築いた一人の女性は最期に何を託したか。/文・君塚直隆(関東学院大学教授)

©文藝春秋

君塚氏

まるで“最愛のお姉さん・伯母さん”のお葬式

9月19日、午前11時。

96回めの鐘が鳴りやむと、赤、青、黄の王室旗に覆われた棺がウェストミンスター寺院に運び込まれました。

9月8日に96歳で亡くなったエリザベス女王は、25歳で即位してから実に70年もの間、イギリスの君主のみならず、15ヶ国からなる英連邦王国の元首、そして56ヶ国の加盟するコモンウェルスの首長として人生を捧げてきました。

国葬の前々日、私はNHKで中継される国葬の解説をするため、ロンドンに来ていました。18日の朝、中継用に即席スタジオが組まれたホテルを出てみると、日本より少し涼しいくらい。雨続きのこの時期のロンドンにしては珍しく天気がよく、歩いていると少し汗ばむほどでした。

テムズ川を渡ると見えてくるのは、柵で周囲を完全に囲われたウェストミンスターホール。女王の正装安置がなされたホールには、棺を一目拝もうとリバプールやブリストルなど英国全土から訪れた人々が最長16キロにも及ぶ列を作りました。その周りを仮設トイレや屋台が囲みます。

葬儀を翌日に控え街の至るところが封鎖されているのを横目に、道を縫いつつバッキンガム宮殿を目指すものの、宮殿手前のセントジェームズ・パークを抜けようとしても、人が多くて思うように進めない。23ヘクタールもの広大な公園が、花を手にした大勢の人々でごったがえしているのです。

市内の主要なパークには花を供えられる場が設けられていたようで、警官の姿もあちこちに見られます。これまで数えきれないくらいイギリスを訪れていますが、パークを抜けられないほど人がひしめいているのを見たのは初めてでした。

もちろん、バッキンガム宮殿の前も献花に訪れた人が溢れていて近づけない。家族連れで足を運び、小さな子どもに花を供えさせている人々も多く見られました。

在位70年ともなれば、国民の8割はエリザベス女王の治世しか知りません。生まれた時から女王が君主で、彼女の肖像がついたコインや紙幣、切手で買い物をしたり手紙を書いたりしてきました。

彼女と生活をともにしてきた国民にとって、この葬儀は自身の人生を振り返るという点でも大きな意味を持つイベントだったことでしょう。

悲しみは国を越え、ヨーロッパ王室にも広がりました。女王の両親の時代から、英国王室は欧州で最も存在感がありました。

1940年、ヨーロッパの多数の国がナチスドイツの急襲に遭い、王侯たちはロンドンへ亡命。BBCのラジオを通じてドイツへの徹底抗戦を故国へ呼びかけたこともあり、彼らは終戦とともに無事、帰国することができたのです。「こんにちの自分があるのは、英国王室がわれわれの祖父母や父母を助けてくれたからだ」と、ヨーロッパ諸国はいまでも深い恩義を感じています。

もちろん、エリザベス女王自身も戦後のヨーロッパ外交を背負って立ちました。ブレグジットの際には、最も交渉が難航したスペイン国王を国賓に招き大歓待するなど、両国の緊密な理解と関係の強化を目指し、王室外交においてたゆまぬ努力を続けてきた。

ヨーロッパ王侯はみな感謝の気持ちを携え、まるで“最愛のお姉さん・伯母さん”のお葬式に参列するような気持ちで駆けつけたのだと思います。

jpp031651573©共同通信社

エリザベス女王

半世紀越しのロンドン橋作戦

国葬は、まさにイギリス王室の伝統と威信を見せつけるものでした。しかも、その内容は半世紀も前から女王自らが決めてきました。

ウェストミンスターホールで4日間の正装安置がなされたあと、ウェストミンスター寺院で葬儀を行い、葬列を組んでロンドン市内を巡る。ザ・マルと呼ばれる大通りを経て、棺を霊柩車に移し、昨年亡くなったフィリップ殿下の眠るウィンザー城へ。そこで埋葬式を執り行う――。

“London Bridge is Down”

女王が亡くなれば、王室から首相や関連部署へこのような暗号が送られ、一連の“作戦”が幕を開けることになっていました。かの有名な「ロンドン橋作戦」です。

1952年に即位して間もなく、女王は自身が亡くなった後の国葬について継続的に話し合ってきました。内容や段取りは世相などを反映しながら何度も改定され、そのすべてに女王自ら目を通します。君主という立場上、いつ何が起きるかわからないからこそ、常に万全の用意が整えられてきたのです。

ここで注目すべきは、葬儀が行われた場所です。

女王の祖父であるジョージ5世や、父のジョージ6世の国葬は、公務を行うバッキンガム宮殿から西へ35キロ離れたウィンザー城で行われました。イギリス君主の公邸であり、イングランド国教会の礼拝堂がある古城です。

しかし、女王の国葬が営まれたのは、ロンドンの中心に位置するウェストミンスター寺院です。ビッグ・ベンや国会議事堂の近くにあり、日頃から人々が集まりやすい場所。より多くの国民に別れを告げたいという女王の気持ちの表れでしょう。それに、ウィンザーは小さな町で多くの人を受け入れるキャパもない。利便性の側面からも、21世紀らしい判断だったと思います。

棺が外側から見えるように、天井も側面もガラス張りとなった霊柩車も注目が集まりました。これも女王のアイデアと言われています。窓が大きく開くようにして、より多くの人々へ最後の挨拶をしたい、と。

「下り坂の女王」として

世界中から惜しまれ、見送られた女王も、決して順風満帆な道を歩んできたわけではありませんでした。

大英帝国が拡大を続けた19世紀のヴィクトリアを「上り坂の女王」とするならば、エリザベスは「下り坂の女王」。即位の5年前には「イギリス王冠に輝く最大の宝石」といわれるほどの富をもたらしたインド帝国が解体し、1952年に即位してからは、アジアやアフリカの植民地も次々と独立していった。大英帝国は急速に溶解していきました。

そんななか、エリザベス女王は国民とともにイギリスを盛り上げ、大国にとどめてきたのです。

イギリスを頂点とする英連邦という枠組みが廃止された後も、旧英連邦の加盟国すべてが対等な立場となるコモンウェルスと呼ばれるゆるやかな共同体を形成できたのは、エリザベス女王という「求心力」があったから。2度の大戦によってかつて支配・被支配の関係にあった国々と今でもパートナーシップを結び、さらに国民と手を携えて国を維持してこられたことを考えれば、その存在がいかに大きいかがわかります。

女王のレガシーをひとことで表すなら、「王室は国民とともにあり、時代とともに変わらなければならない」と理解していたこと。国葬を見るまでもなく、女王が国民とともに歩んできたことは明らかです。

では、時の国王の次男の娘として王位継承の順位から離れた地位に生まれながら、わずか10歳で突然「未来の女王」になってしまったリリベット(女王の子どもの頃の愛称)に、どうしてそれほどの意識が芽生えたのでしょうか。

©共同通信社

戴冠式にて(1953)

“腹をくくった”瞬間

実は、第一次世界大戦の頃には国民と王室の関係は大きな転機を迎えていました。

それまで戦地に赴くのは、国民のほんの数パーセントにあたる貴族出身の軍人だけ。国を守ることは、貴族たちによる「高貴なる者の責務(ノブレス・オブリージュ)」とされていました。

しかし第一次世界大戦に突入すると、国家総動員で戦わなければ勝てなくなった。1916年にははじめて徴兵制が導入され、国を守るのは「国民の責務(ナショナル・オブリージュ)」となりました。

義務には権利が与えられなければなりません。人々は選挙権を手にし、大衆民主政治の時代がやってきました。王室にもこれまで以上に国民の支持が必要になったのです。

当時は、女王の祖父にあたるジョージ5世の治世。「国民あっての君主制」を体現する、国民から非常に親しまれた王でした。

大戦中の4年間を、彼は国民とともに戦い抜きました。軍の閲兵式や軍需工場への激励、負傷兵や看護師たちへの慰問など何百回と足を運び、5万人以上に自ら勲章を授けるため大奔走します。だからこそ、この大戦は国民に「王様と一緒に戦って勝った戦争」と捉えられたのです。

1936年1月、そんなジョージ5世の正装安置に、9歳だったリリベットは参列します。

「(前略)部屋にいる誰も彼もが黙っていて。まるで王が眠っているかのようだったの」

彼女は家庭教師のクロフィに、当日の印象をこう語りました。

正装安置が行われたウェストミンスターホールの前には最大で3キロもの列ができ、100万人近くが訪れました。イギリスのひとつの時代が終焉を迎えた日のことは、幼いリリベットの胸にも深く刻まれたのです。

また、この葬儀に加え、なにより彼女に「未来の女王」としての覚悟を決めさせたのは、父・ジョージ6世の戴冠式でしょう。

この日のために特注されたローブと冠を身にまとい、馬車で沿道から何十万という群衆の歓声を浴びたリリベットは、その後、4時間にもわたる儀式を前に、数十年後には自分も座る玉座の重みをひしひしと感じたに違いありません。

実際、そのわずか2年後に第二次世界大戦が始まりジョージ6世の奮闘を目にするや、1945年には彼女も陸軍の組織する婦人部隊に入隊し、軍用トラックで物資を運ぶ任務に就きました。

戦争という国の有事に、祖父、そして父が国民と手を携え立ち向かう背中を目にし、女王は王室の在り方を学んでいったのだと思います。ある日突然、大英帝国の王位継承第一位になってしまったことへの戸惑いを乗り越え、真に腹をくくった瞬間とも言えるかもしれません。

ダイアナ事件が大転機に

時を経て、1977年6月7日。51歳の女王は、ユニオンジャックを手にした100万人以上の国民の前に姿を現します。在位25周年を祝うシルバー・ジュビリーは、女王にとってはじめての祝賀イベント。

その頃、イギリスは石油危機の煽りを受け、経済は停滞し、街には失業者が溢れていました。日本では「英国病」などという造語もできるほどどん底にあったイギリスで大々的な祭典を行うことに、当初、政府の一部はあまりいい顔をしませんでした。ところが、「国民とともに」という考えの女王は、このような局面だからこそ王室が主導して国民を励まし、彼らの明るい気持ちを取り戻したいと考えていました。

そこでイギリス各地に加えコモンウェルス諸国も歴訪し、この年の前半だけで実に9万キロもの距離を移動しながら人々を激励しました。結果的に、ジュビリーのメインとなるセントポール大聖堂での記念礼拝には100万人以上の国民が詰めかけ、大変な成功を収めたのでした。

しかし、時はさらに流れ、国民もまた変わっていきます。1997年に起きたダイアナ元妃の交通事故死をきっかけに、女王はその現実を突きつけられます。

恋人とともにパリで交通事故に遭ったダイアナの訃報に接した女王は当初、沈黙を貫きました。これにダイアナを強く支持していた労働者層が猛反発。その火は一気に燃え広がり、王室の支持率は急落しました。

女王が国民と二人三脚で歩んできたことは間違いありません。ただ、その国民が変わりつつあることに気づけていませんでした。

まず、国民の王室への意識そのものが変化しつつありました。ジョージ5世、ジョージ6世の時代には、人々は王室や貴族への自然な恭順の気持ちを持っていた。ところが半世紀が経ち、とりわけサッチャー革命によって自由競争の時代に突入すると、「身分や地位は関係ない。努力した者が上へ、怠けた者が下へいく」という、階級にとらわれない意識が広まります。必ずしも王室へ首を垂れる人ばかりではなくなってしまったのです。

「秘すれば花」があだとなり

また、シルバー・ジュビリーからダイアナ事件までの20年間は、イギリス国民にとって非常に苦しい時代でした。

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