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藤原正彦 そして何より言葉 古風堂々29

文・藤原正彦(作家・数学者)

アメリカにいた頃、数学科だけでなく他学科を教えることもあった。ビジネス専攻1年生を担当したこともある。皆のいやがる授業だったが、同僚の一人が「秘書になりたい可愛い娘がいっぱいいる」、と言ったので即座に引き受けたのだ。その通りだったが、1/2+1/3を計算できない者がいたのには閉口した。

そんな学生でも、地図上で日本とフィリピンを間違えるようなハイティーンの小娘でも、議論になると滅法強い。筋道を立てて話すし、相手の弱点をつくのも巧い。私が何かユニークなことを言うと、「面白い見方だが、あなたは数少ない現象から不当に一般的な結論を導いている」、などと小癪なことを言う。日米の学生に知識テストを受けさせれば日本の圧勝だし、議論をさせればアメリカの圧勝となる。これは学生に限らず一般人でも同様である。

彼等は小学校の頃から、論理的に考え説得力をもって表現するよう教育されている。これは西洋の伝統でもある。古代ギリシア・ローマのアリストテレスやキケロなどが強調した雄弁術(修辞学)は、12世紀頃にヨーロッパで大学が創設されて以来、20世紀に至るまで教養科目の柱の一つとして取り入れられていた。とりわけアメリカのような、言語、風俗習慣、宗教などの異なる民族の寄り集まりでは、統治するには全人類に共通の唯一のもの、すなわち論理を用いるしかないから、そんな教育が重視される。

一方、人種のるつぼから程遠い我が国では、熱弁をふるわなくとも、以心伝心、腹を探る、空気を読む、忖度などで大体足りる。逆に理屈ばかり言うと疎まれる。「智に働けば角が立つ」のだ。論理一辺倒で口角泡を飛ばすアメリカ人、フランス人に比べ奥床しいが、その分、論理的に話すのが苦手である。

菅内閣の支持率が20%台と、政権発足以来の最低となっている。理由としてコロナ対策の失敗等もあるが、根本にあるのは国家観と歴史観の欠如、そして何より言葉であろう。人を動かすには説得力のある論理的な言葉と胸を打ち情に訴える言葉が必要だ。これらが決定的に欠けているから人心が離れ緊急事態宣言も効かない。30代前半、お見合いで連敗を続け、「数あるボーイフレンドの中で顔も人格も最低だった」(女房談)私が、女房を陥落させたのは、私の妖しくも魅惑的官能的な言葉が女房の理性を麻痺させたからだった。

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