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塩野七生 「金色夜叉」を読む 日本人へ227

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文・塩野七生(作家・在イタリア)

夏目漱石は1867年の生れだが、尾崎紅葉もその1年後に生れている。2人とも、いまだ江戸の空気の濃く漂う東京の生れ。そして2人とも、開校したばかりの東京府立一中に学び、その後は大学予備門、まもなく一高と変わるが、そこで英語をたたきこまれたことでも似ている。その後に進む大学では漱石は英文科で、紅葉は国文科とちがうが、2人とも原語で英文学を読めたことでも同じ。つまり、府立一中→一高→東大というエリート・コースを進んだことでは、2人ともまったく同じなのである。しかも「同じ」はそれだけで終らず、末は博士か大臣か、と言われた時代に生きながら、博士も大臣も蹴っとばし、社会的にも経済的にも何の保証もない売文業を選んだことでもまったく同じなのである。

にもかかわらず、彼らが活躍した頃から100年以上が過ぎた現代、日本近代文学の最高峰で定着した感じの漱石に対し、紅葉への評価となると正反対。『金色夜叉』は失敗した社会小説の好例であり、お宮は目覚めていない前近代女性の哀れな一例であり、紅葉は万事中途はんぱで未熟のまま若死した通俗作家、という評価には誰も疑わないよう。

私の見たかぎりでの唯一の例外は、杉本秀太郎一人だった。この人は古い歴史を持つ京都の町屋の生れでいながら、フランス文学の研究者でもあった人。大学では教えなくなった後も「名誉教授」という、金魚のフンなどはくっつけることなく杉本秀太郎とだけで生きた粋人でもある。この人に『金色夜叉』の解説を書かせた、岩波文庫の編集者の見識には感心した。なにしろ、東京の粋人の書いたものを、京都の粋人に解説させるのだから。

夏目漱石にも、『幻影の盾』に『薤露行かいろこう』と題した2作がある。2作ともヨーロッパの中世に材をとった恋物語だが、これがはげしいと言うしかない恋愛物なのだ。イタリアに住みながらこれを読んだとき、漱石はヨーロッパでは珍しくないこの烈しい恋物語をどうやれば日本に移せると思っていたのか、と考えたものだった。漱石自身も、「この趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うた」から、この試みはやめにしたと書いている。

ところが、1つ年下の紅葉はやったのだ。中途はんぱではあったかもしれない。なにしろ“未完”で終ったのだから。それでも、漱石が右の2作を書く8年も前に実行していたのである。『金色夜叉』は、烈しく燃えた恋の物語である。しかも、それまでは意識しないできた愛の想いを、男から烈しくつきつけられて始めて意識するという女の心理、同種の西欧の恋愛物語にもめったに見られない女の心の動きまで、深く掘り下げた傑作である。この辺りはさすがに、金魚のフンにはくみしなかった杉本秀太郎のこと、鋭く適切に説き明かしている。

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