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保阪正康『日本の地下水脈』|五つの国家像

昭和史研究家の保阪正康が、日本の近現代が歩んだ150年を再検証。歴史のあらゆる場面で顔を出す「地下水脈」を辿ることで、何が見えてくるのか。第二回のテーマは、五つの国家像。欧州型の帝国主義国家への道を目指した維新後の政府。だが、日本が取りえた「国のかたち」は他にもあった。/文・保阪正康(昭和史研究家) 構成・栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

「玉砕」「特攻」に至るまで

なぜ日本は太平洋戦争を始め、敗戦に至ったのか。なぜ「玉砕」「特攻」といった無謀な作戦で多くの人命を失ってしまったのか――私が昭和史の研究に携わるようになったきっかけは、こうした謎を解明したいとの思いからであった。

実際に敗戦に至る道筋を調べれば調べるほど、明治維新以降の歴史をもう1度つぶさに検証しなければならないとの思いを私は抱くようになった。明治維新から太平洋戦争に至るまでの日本は、政治、経済だけではなく、教育や社会倫理、日常生活の規範まで、すべてが「軍事」に収斂するプロセスをたどった。その延長線上に、太平洋戦争における悲惨な敗戦という現実が位置付けられるからである。

一方で私は、歴史の可視化された部分だけでなく、不可視の領域にも踏み込んで検証することが大切だと考えてきた。アカデミズムの研究者は通常、史料によって歴史を語らせるという手法をとることが多い。可視化された事象を、史料をもって裏付けてゆくという手法である。だが、私はジャーナリスティックな観点から、日常生活者としての立ち位置で歴史的事実をとらえることも大切だと考えている。史料にほとんど記載されていない事実、歴史の中でさりげなく起きた事象、人々の記憶から忘れ去られたかのように見える観念が、時として歴史の大きなうねりを生じさせる因果関係をもつのである。これを私は「歴史の地下水脈」と、個人的に呼びならわしてきた。

今も日本に流れる地下水脈

このように考えるのは私だけではない。たとえば司馬遼太郎は生前、「結局、日本は攘夷の思想を未分化、未消化のまま残してきた。日本社会の地下水脈には攘夷の思想がずっと残っている」と語ったことがある。明治維新が落ち着いた後、攘夷の機運は我々日本人の間からは消滅したように見える。しかし、じつは攘夷の思想は伏流水のように日本社会の地下に脈々と流れてきた。そして、その思想が戦争中に排外主義というかたちで噴出した――あらましそんな指摘である。

この「地下水脈」という観点から日本の近現代史を見直すと、新たな地平が見えてくる。

開国した日本は、明治維新によって幕藩体制を終結させた。以降、明治政府は富国強兵政策を進め、日清戦争や日露戦争に勝ち、欧米の列強に比肩する存在となった。年表的に歴史を振り返ると、私たちの国は、帝国主義国家への道を整然と一直線に進んでいったかのように見える。だが、実際はそうではない。

徳川幕府による鎖国体制が260年ほど続いて、そこに欧米から新しい風が入ってきた。そこから維新が始まるまでの間に、さまざまな思想をもつ志士たちが登場した。

ただ、幕末から明治政府成立までの歴史をみて驚くのは、維新後に権力中枢に居座った薩摩藩や長州藩の人物たちに「日本をこのような国家にしよう」という国家ビジョンが何もなかった、という事実である。結局、維新後に立ち現われた諸問題に、新政府はひたすら場当たり的な対症療法に終始したのである。

明治22(1889)年に大日本帝国憲法が制定され、国の在り方がほぼ定まった。しかし私は、そこに至るまでにはいくつかの国家像が存在し、せめぎ合っていたとみる。つまり、日本が取りうる国家像は複数あり、全く別の国家のかたちとなり得た可能性もあったのである。

5つの国家像

私が考える「あり得た国家像」とは、次の5つである。

①欧米列強に倣う帝国主義国家
②欧米とは異なる道義的帝国主義国家
③自由民権を軸にした民権国家
④米国に倣う連邦制国家
⑤攘夷を貫く小日本国家

それぞれの特徴を見ていこう。①は「富国強兵」を目指すことであり、現実の歴史で日本がたどった道である。他国への経済的、軍事的侵略の国家像であり、西欧的な18〜19世紀の帝国主義を追いかける姿である。政治体制としては、憲法上、国体の下に政体があった。天皇制の下に政治が存在したのである。それは軍事主導体制であり、政治、経済、教育、文化の全てが軍事に収斂してゆく体制であった。

②は植民地における殖産や興業をおこなうものの、①とは違ったかたちの帝国主義の可能性だ。欧米列強の植民地を解放するという発想や、植民地の文化や伝統を否定せずアジア的な共生を目指すという思想もこの中に入る。欧米式帝国主義が数100年に渡ってやってきたマイナス面を、日本ならではの手法で超克する方法ともいえる。

③は明治10年代に燎原の火のように広がった自由民権運動を軸とするものである。板垣退助や後藤象二郎らが大久保利通を中心とした政府は専制政治であると批判し、速やかに国会を開き国民を政治に参加させるべきだと主張した。

④は江戸時代の幕藩体制の延長上にある。幕府が大政奉還した後、権力は明治政府に移ったように見えたが、実際は旧幕藩体制の勢力は全国に網の目のように広がっていた。これをもとに高度な地方自治・分権が展開されれば、連邦制国家となる可能性もありえたといえる。

⑤は単に外国勢力を排撃するというものではない。外国とは適切に交流しつつ、必要以上には交わらないという体制だ。江戸時代の「鎖国体制」に連なるものでもある。

現実に日本がたどったのは、周知のように①の国家像である。②から⑤は、それぞれある時点までは実現する可能性もあったが、現実の政治体制にはならなかった。

しかし、実現しなかったから消滅し、その後の日本に影響を与えなかったのかといえば、そうではない。これらの国家像は地下水脈となって明治以降も脈々と生き続け、大正、昭和、そして現代にもつながっていると私は考える。本連載ではそれぞれの国家像がどのようなかたちで地下水脈化し、その後の歴史に影響を与えたのかを検証していく。

「主権線」と「利益線」

歴史の地下水脈に入る前に、まずは日本で①の帝国主義がどのように成立したのかを振り返っておく。

憲法が制定された明治22年に日本の国家としてのかたちが定まったわけだが、それまでの約20年間の期間は、基本的には暴力革命の時代であった。熾烈な主導権争いが行われ、諸外国の革命と違うとはいえ、戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争などでは少なからず血が流された。

暴力によってなされた革命は、基本的には暴力によって守るしかない。それは明治維新も同じである。新政府はおのずと軍事先行でこの国のシステムを作っていくことになる。その中で、政治、社会構造、倫理や道徳に至るまで、すべてが軍事に隷属される形で進んだ。

やがて帝国主義的な政策が、場当たり的な対症療法ではなく、国家の中枢に位置づけられるようになる。その節目が、明治23(1890)年、山縣有朋首相が第1回帝国議会で行った以下の演説だ。

「(前略)國家獨立自營の道に二途あり、第一に主權線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主權線とは國の疆域を謂ひ、利益線とは其の主權線の安危に、密着の關係ある區域を申したのである、凡國として主權線、及利益線を保たぬ國は御座りませぬ、方今列國の間に介立して一國の獨立を維持するには、獨主權線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ、必ず亦利益線を保護致さなくてはならぬことヽ存じます、今果して吾々が申す所の主權線のみに止らずして、其の利益線を保つて一國の獨立の完全をなさんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累子て、漸次に國力を養ひ其の成蹟を觀ることを力めなければならぬことと存じます、即豫算に掲けたるやうに、巨大の金額を割いて、陸海軍の經費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます(以下略)」

ここに繰り返し登場する「主権線」「利益線」という言葉に注目したい。主権線とは言うまでもなく国境線のことだ。そして「其の主權線の安危に、密着の關係ある區域」として国境線の外側に、国益を守るための利益線を引いたのだ。この考え方と外交方針は、帝国主義の国づくりの基本となった。

戦争をビジネスにした日本軍

日本における資本主義の発展も、軍が主導するかたちで進んだ。軍を強化するためには、艦艇や武器などの生産システムを完備しなければならない。そのため、軍需産業が経済の中心に位置づけられた。また、軍と結びついた資本には、国有財産の払い下げが破格の安値で行われた。

さらに言えば、日清戦争以降、日本は「戦争に勝って相手から賠償金を得る」ことが目的化してゆく。企業が資本を活用してビジネスで利益を上げるように、日本という国家は国民の生命と財産を戦争に投じることによって、利益を上げることを企図してきたのである。実際、当時の日本がほぼ10年おきに戦争をしていることも、戦争が営利事業であったことを示唆している。

より分かりやすい例がある。昭和20年8月10日と14日、ポツダム宣言を受諾するかどうかを検討する御前会議が開かれた。この時、参謀総長の梅津美治郎は、国民の安全や国体護持のことよりも「賠償金をいくら取られるのか」という懸念を、しきりに口にしているのだ。

私はその記録を読んだとき、日本軍は賠償金を獲得する“ビジネス”として戦争をおこなっていたのであり、軍とは“会社”であったのだ、ということに思い至った。そう考えると、なぜあの戦争で無謀な戦いを繰り広げたのかも想像がつく。負けたら巨額の賠償金を取られるからである。だからこそ、「勝つまで戦争を続ける」といった不合理な発想に陥り、戦時指導者は兵士の命を消耗品のように扱うことにも感覚が麻痺していったのだ。

ここで注意すべきは、すべてが軍事に隷属してゆく体制への歩みは明治初期から始まっていた、という点である。不平士族の反乱に備えるためには軍隊を持たなければならない。明治4(1871)年の廃藩置県で藩兵は廃止された。軍隊の統括権を兵部省に集中させた。明治6年には初の徴兵令が公布され、身分に関係のない国民皆兵の制度が作られる。大村益次郎がまず立案し、大村が暗殺された後は山縣有朋によって実行された。

さらに明治15年には軍人勅諭が作られ、天皇の軍隊という性格が強調される。安政5(1858)年に欧米列強から不平等条約を押しつけられたが、新政府は先進帝国主義国の外交の本質を知り、改正の交渉を始める。改正するには何が必要かを試行錯誤する。そして日清戦争で、戦争の内実を知り、国民に向けて軍の教育は徹底的に行われた。

このような流れをみると、先に紹介した①〜⑤の「あり得た国家像」は日本に確かに存在したが、当時の国家指導者らはそれらを比較検討はせず、なし崩し的に軍事優先体制が進み、その結果として①の国家像になったといえる。あたかも軍が親のような形で政治が誕生し、それが日本の帝国主義の特徴ともなった。

日本は帝国主義の「実験国家」

ただ、日本の帝国主義化は、きわめて実験的な要素を含んでいることを認識しなければならない。

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