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「左翼的な気分」は何処へ 革マル派に体を張って抵抗した筆者の体験的左翼論 樋田毅(ジャーナリスト)

若者の熱いエネルギーはなぜ消えたのか?/文・樋田毅(ジャーナリスト)

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樋田氏

「左翼」と「左翼的な気分」

今から半世紀前、1972年に私が早稲田大学に入学したころは、キャンパスの若者たちの活動エネルギーが今では想像できないほど高かった。全共闘運動に象徴される1960年代後半の「政治の季節」は終わりかけていたが、早稲田の「政治の季節」は続いていた。「革命的マルクス主義」を掲げる政治セクトの革マル派が第一文学部、第二文学部、商学部、社会科学部などの自治会執行部を握り、キャンパスを暴力支配し、11月に文学部の自治会室で当時2年生の学生を殺害する事件を起こした。これを機に、学生たちの怒りが全学で爆発し、連日、数千人から1万人規模の糾弾集会やデモなどを繰り広げた。それまで革マル派を恐れて姿を消していた様々な政治セクトがキャンパスに登場し、鉄パイプや投石などによる衝突も続いた。当時の体験に基づき、個人的な左翼論を述べてみたい。

最初に、私がこの原稿で使用する「左翼」と「左翼的な気分」について、あらかじめ定義しておきたい。「左翼」はマルクス主義と、それから派生した思想に基づく政治集団、「左翼的な気分」は政治集団には属さないが、反体制的で平和、平等、自由な社会に憧れる人々の気持ちの有り様とさせていただく。

1972年という時代についても、説明したい。2月に連合赤軍による浅間山荘事件が起きた。革命を目指したグループが逃走中に12人の仲間を「総括」と称して殺害し、軽井沢の山荘に猟銃などを持って立てこもり、警察官ら3人を射殺した事件だった。3月に南ベトナム解放民族戦線が大攻勢をかけ、同国の社会主義化を阻止するために駐留する米軍などに大打撃を与えた。5月には沖縄の施政権が米国から日本に返還された。同じ月、イスラエルでロッド(リッダ)空港事件が起きた。世界革命を目指していた日本赤軍の3人がパレスチナの過激派の支援を受けて銃を乱射し、26人の犠牲者が出た。9月には田中角栄首相が訪中し、日本と社会主義・中国との間で国交正常化声明が出された。つまり、「左翼」が絡む歴史的な出来事が相次いだ年だった。

私が入学したのは第一文学部で、第二外国語として中国語を選択したクラスに入った。若者たちが中国の社会主義にまだ憧れを抱いていた時代で、中国語は人気があった。クラスには「高校紛争」を経験している級友たちも目立った。都立高校で校舎がバリケード封鎖された事件を経験した者、長野県の県立高校で中核派系の活動家だった者、岐阜県の県立高校で生徒会長と新聞部長を兼ね、政治運動のリーダーだった者……。「大学解体」などを叫ぶ全共闘の学生らによる大学闘争がピークを迎えた1968~70年に、全国の多くの進学校などで、大学闘争に似た紛争が起きており、彼らは否応なく巻き込まれていた。

「左翼的な気分」に満ちていた

私の「左翼」をめぐる体験も高校時代に始まる。愛知県立旭丘高校へ入学したのは1968年。2年生の秋に騒動が起きた。「過激派」とも呼ばれていた新左翼系の全校闘争委員会(全闘委)の数人が校長室を占拠しようとして、教師たちに阻まれた。その後、彼らは授業をボイコットして、体育館で座り込み、生徒会執行部が「全校集会を体育館で開催する」と校内放送で呼びかけた。授業は中断され、異様な熱気の中で全校集会が約1週間続いた。

集会を主導したのは3年生たち。彼らは、「70年安保」を前にした日本の政治・社会状況などを語り、今こそ高校生が立ち上がり、高校生の政治活動を禁止していた文部省(現在の文部科学省)との闘いを始めようと訴えた。3年生たちの雄弁に、私は圧倒された。

2年生が中心だった全闘委のメンバーも次々に発言した。彼らはそれぞれ所属する政治セクトのヘルメットを被っていた。リーダー格のS君はML派(「共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派」が正式名称)という毛沢東思想を信奉するセクトだった。ハンドマイクを握り、「日帝(日本帝国主義)打倒の闘いに結集せよ」と訴えた。その主張内容の是非はともかく、覚悟と決意に満ちた、純粋な熱情に心を動かされた生徒も多かった。激しい論争はあったが、暴力沙汰はなく、「大人の社会」への反発心は共通していた。会場には「左翼」ないし「左翼的な気分」が満ち満ちていたと思う。その気分の中で、私は生徒会長に立候補し、全校集会で議論された制服制度廃止の実現などを訴えて当選した。全校生徒による投票を実施し、3分の2以上の賛成で、制服制度は実質的に廃止された。

全校集会の後、私はベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」が正式名称)が名古屋市内で主催するデモに参加するようになった。大国=米国が自分の正義を小国=ベトナムに押し付け、軍隊を送り、無辜の人々まで殺傷する。そんなベトナム戦争に抗議する平和的なデモだった。

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大宅賞受賞作

革マル派が学生や教員に暴行

高校時代に高揚していた私の「左翼的な気分」に冷水を浴びせたのは、大学で出会った「左翼」、つまり文学部自治会の執行部を握っていた革マル派だった。革マル派は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」という長い正式名称を持ち、文学部キャンパスを文字通り、暴力支配していた。彼らが最も警戒していたのは、革マル派と同じ組織から分かれた中核派(「革命的共産主義者同盟全国委員会」が正式名称)で、新入生たちの発言や動向も監視していた。日本共産党と系列の青年組織・日本民主青年同盟も敵視され、文学部キャンパスではしばしば、民青やそのシンパとされる学生が革マル派の学生たちに取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けていた。共産党員とみられていた教員も同様で、文学部中庭での糾弾集会に連れ出され、小突かれていた。しかし、私を含めた一般の学生や教職員たちは遠巻きに眺めているだけだった。

そのころ、文学部キャンパスから一歩外に出れば、平穏な日常があった。暴力沙汰にぶつかっても、見て見ぬふりをしていれば、普通に学生生活を送ることができた。心の片隅に苦い思いを残していたが、すぐに忘れて、例えば神宮球場での早慶戦の応援で歓声をあげていた。

1年生の時、私は高田馬場駅の近くにあった「パール座」という小さな映画館に時々通った。西友ストアの地下にあり、2本立て(2本をまとめて上映)で料金は300円だった。封切り館ではなかったが、伊・仏・米・ソ連の合作映画の「ひまわり」、「イージー・ライダー」など米国のニューシネマの作品も観た。同級生の間では東映のヤクザ映画も人気だった。

学生たちの暮らしは、今よりもずっと清貧だった。私の最初の下宿は四畳一間。級友たちも三畳や四畳半の下宿が大半で、室内にトイレやシャワー、炊事設備はなかった。廊下に共同のトイレや炊事所があり、銭湯に通った。二畳間に住んで「二畳城の主」と称する剛の者もいた。早稲田の周辺には当時もたくさんの喫茶店があったが、金のない学生のために「水」だけで何時間も粘らせてくれる店もあった。級友たちの多くは、勉強よりもサークル活動やアルバイトに精を出していた。だが、政治セクトの影響下にあるサークルも多く、ドストエフスキーの読書同好会のはずが、革マル派による学生囲い込みの場とわかり、脱会するのに苦労した者がいた。

私は、革マル派への警戒感もあって、政治色のあるサークルは避けて、「登歩の会」という、登山の同好会に入った。リーダーのIさんは政経学部の3年生で、新左翼に影響力を持っていた吉本隆明氏の心酔者だった。春は丹沢山塊での沢登り、夏は後立山連峰の縦走に挑戦しながら、吉本氏の『共同幻想論』をめぐるIさんの話に耳を傾けた。

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革マル派糾弾の学生集会に導入された機動隊

無表情のまま鉄パイプを

恒例の学園祭「早稲田祭」が終わって2日後の11月8日、1年先輩の川口大三郎君が革マル派によって文学部の自治会室に連れ込まれ、「中核派のスパイ」との汚名を着せられて殺害された。事件後、1年余りにわたって革マル派糾弾の闘いが続き、革マル派の自治会をリコール(罷免)し、新たな自治会を再建する運動が続いた。革マル派の反撃を受け、私を含め多くの仲間たちが傷つき、闘いは敗北した。その詳細については、拙著『彼は早稲田で死んだ』をお読みいただければと思う。

当時、革マル派の学生たちが暴力を振るう際などに見せた独特の表情を、私は忘れない。人を小馬鹿にし、見下したようなヘラヘラした笑い顔。かと思うと、血走った目で睨みつけ、罵声を浴びせる。口を半開きにし、無表情のまま鉄パイプを振り下ろす……。誰かが「革マル顔」と名付けていたが、あの表情は彼らの心が荒んでいた証左だったと改めて思う。

革マル派は「革命的マルクス主義」についてさまざまな理論書を出しているが、その中で「革命的暴力」などについて、以下のように書いている。

「わが同盟は、革命組織である以上、反革命分子に対して革命のために鉄槌を下すことについては、いささかも躊躇しない」

「われわれの基準にのっとって反撃的・復讐的な、あるいは攻撃的な暴力を、ひとしく革命をめざしている陣営内部でさえも行使することをよぎなくされることがあることを、われわれは否定しようとは思わない」

「政治目的で規制される暴力とは、殺すつもりなく殺すという衝動性を許さない。暴力の衝動性を抑えてはじめて革命的暴力は組織される」

つまり、指導者が机上で説く「革命的暴力」は、必要な範囲で、理性的に組織的に行使されることになっていた。しかし、末端の活動家たちが実践するのは、単なる野蛮な暴力に過ぎなかったと私は思う。川口君の事件についても、彼らは「意図せざる事態だった」と釈明したが、数時間も激しいリンチを重ねて、「殺すつもりなく殺す」事態が起きないはずがない。そもそも「衝動性を抑えた暴力」が実際に可能なのか。それが可能だと考えること自体が、人間というものの現実を知らない傲慢な所業だったのではないのか。

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早大生が殺害された学生自治会室

繰り返される「内ゲバ」

一方、革マル派と敵対していた中核派は、暴力の行使について、さらに躊躇がなかった。71年12月、革マル派の襲撃によって2人の大学生が惨殺された後、中核派は機関紙『前進』でこう書いた。

「われわれは、無条件かつ全面的に宣戦布告する。カクマルに対する全面的殲滅せんめつ戦争を、わが同盟の総力、とりわけ全重量をかけた軍事的殲滅戦を開始するであろう」

機関紙で「カクマル」とカタカナ表記したのは、革マル派をもはや革命を目指す党派とは見なさないことを示すためだった。「戦争」「殲滅」という言葉は、「殺人も厭わない」という意思表示だった。

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