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保阪正康「軍服を着た天皇」“天皇の戦争責任”の問いの前に知っておきたい 日本の地下水脈21
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保阪正康「軍服を着た天皇」“天皇の戦争責任”の問いの前に知っておきたい 日本の地下水脈21

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「天皇に戦争責任はあるのか?」。その問いの前に知っておきたい歴史的事実。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

保阪

保阪氏

「天皇と戦争の関係」

前回見たように、日本人にとって皇室とは「聖なるもの」の地下水脈を体現した存在であった。

皇室は、社会関係、生産関係、経済関係を持たない。日本人はそこに「聖なるもの」を見出してきた。俗世間に生きる人々は、生きるためのしがらみの中で、ときには俗悪な行為に手を染めなければならないが、「聖」が存在することによって、比較対象としてひとつの価値観を持てる。それは私たちが自省する際の尺度にもなりうる。

だが今、「聖」と「俗」の関係性が危機に瀕しているように見える。「聖」の地下水脈は「俗」とは決して交わらないからこそ天皇制が成り立ってきたわけだが、戦後の象徴天皇制のなかで、その部分を日本人が直視してこなかったからである。

もうひとつ、戦後の日本人が直視してこなかったものに「天皇と戦争の関係」がある。

私は講演などで、こんな2つの質問を受けることがよくある。1つは「天皇に戦争責任はありますか?」という質問、もう1つは「天皇は平和主義者だったのですか? それとも好戦主義者だったのですか?」という質問だ。しかし、「戦争責任」という問いそのものが左翼公式史観の側からの決めつけであることに、質問者が気づいていないことが多い。「天皇は軍部の最高責任者なのだから、実際に戦争を指揮していたはずだ。だから好戦主義者だ。戦争責任を問われないのはおかしい」といったレトリックに嵌まってしまっているのだ。

ここで私の立ち位置を先に簡潔に記しておくが、昭和天皇には戦争に関連するすべての責任とは言わないまでも、その一部に関して「責任はあった」と言うべきだと考えている。また、天皇は平和主義者と好戦主義者のどちらでもない、と考えている。これは昭和天皇だけでなく、明治天皇、大正天皇も含めてである。

早合点しないでほしいのは、私の考えは、「戦争責任」という曖昧な言葉をもとにした責任論ではないという点だ。「戦争についての責任」を要因に分解して検証した場合、いくつかの点で責任があったとみなすことができる——というのが私の見立てである。

また、天皇が平和主義者でも好戦主義者でもないことは、「歴代天皇が最も重視していたことは何か?」という点を検証すれば自ずと明らかになる。これも結論から先に言ってしまえば、天皇が最も重視していたのは「皇統の存続」である。戦争を継続するか止めさせるかは、皇統の存続にとってどちらが有利かという判断による結果だった。

ただ、軍部主導の富国強兵政策によって日本が近代国家となるにつれ、「軍服を着た天皇」としての役割が天皇に求められるようになった。近代の日本の失敗を読み解く上で、まさにこの点が重要になってくる。

そこで今回は、近代以降の「天皇と戦争」の関係性を見てみたい。

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昭和天皇

明治天皇の戦争への恐怖

近代の天皇と戦争の関係を考える際、次の3つの視点を軸にすると理解しやすくなる。

(1)明治天皇の戦争に対する「恐怖」。
(2)大正天皇の教育から始まった「軍服を着た天皇」像。
(3)「軍服を着た天皇」の実践者としての昭和天皇。

まずは明治天皇が戦争に示した「恐怖」から見てみよう。

本連載第3回(2020年9月号)で詳しく紹介したが、明治天皇は明治27(1894)年7月に始まった日清戦争には反対の意向を示し、「これは朕の戦争に非ず」と表現した。その根底には、戦争に対する徹底的な恐怖があったと考えられる。

嘉永5(1852)年11月3日生まれの天皇は14歳で即位した。12世紀以降、700年続いた武家政権下で天皇制が続いて来られたのは、後醍醐天皇のような特異な例は別として、原則として天皇自らが政治、そしてその延長線上にある戦争に関与してこなかったためである。明治天皇はそのことを肌感覚で知っていたのだろう。

清は19世紀以降、イギリスなど列強から侵略されたが、圧倒的な広さの国土と人口を擁し、「眠れる獅子」として国際社会に認識されていた。そんな大国の清と戦争して敗れたら、天皇制が崩壊してしまう——当時41歳の天皇は、そういう危機感を抱いたのである。

首相の伊藤博文は、外相の陸奥宗光ら強硬派からの圧力を受け止めつつ、明治天皇の説得にかかった。しかし、外交の機微が明治天皇に報告されることはなく、最終の御前会議を経ずに、明治天皇は閣議決定を経た宣戦詔書案の裁可を求められた。その際の明治天皇の苦衷を『明治天皇紀』(宮内庁編)はこう記している。

「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之れを神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ」

この最後のくだりに注目してほしい。戦争に負けた時、皇祖皇統に対する申し訳が立たないという明治天皇の心理が凝縮されている。

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伊藤博文

ロシアとの開戦で涙を流す

だが開戦後、明治天皇は積極的に戦争に関わった。この戦争で初めて設置された大本営(戦時に設置される天皇直属の最高戦争指導機関)を戦場に近づけるべく、東京から広島への移転が決まったが、明治天皇も現地に移っている。大本営の会議に頻繁に臨席し、それ以外でも戦況報告を受けた。出征する指揮官や帰還した兵士たちの慰労も行った。日清戦争は翌明治28年4月、日本の圧倒的勝利に終わった。それと同時に明治天皇も東京に戻っている。

清を破り朝鮮半島での影響力を確保した日本は、次いで極東での南下を進めていたロシアと衝突することとなった。交渉は難航し、結局明治37年2月に開戦に至る。ロシアは清よりはるかに強大な軍事力を持つ大国であるだけに、明治天皇の不安はさらに大きかっただろう。開戦前、こんな御製を詠んでいる。

四方の海
みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ

『明治天皇紀』によると、御前会議で開戦が決まった後も、

「事万一蹉跌を生ぜば、朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん」

と述べ、涙を流したという。

この発言からも、明治天皇が戦争に対して強い恐怖を抱き、その恐怖は皇統の存亡の危機という思いから発していることが読み取れる。この時も、伊藤をはじめ政府首脳が最終的に明治天皇を説得にあたった。

「軍事」を拒絶した大正天皇

2度にわたる対外戦争に勝利した日本は、維新後半世紀もしないうちにアジア唯一の近代国家に成長し、列強と肩を並べるまでになった。

その過程で「天皇の武装化」が進められた。明治維新が一種の軍事革命であったことは本連載で繰り返し述べてきたが、革命集団である薩長をはじめとする討幕勢力は自らの正統性を担保するために、天皇という権威を必要としていた。その天皇に軍事の大権を与えるかたちで、天皇の武装化が進められたのである。

後継の大正天皇にも、一等国の主権者としての天皇像と、軍事主導体制に日本の伝統を重ね合わせる天皇像が求められていた。しかし大正天皇は、軍事に関することを徹底的に嫌い、「軍服を着た天皇」としての役割に消極的であった。

明治天皇は崩御の数年前から、皇太子(後の大正天皇)を自らの上奏を受ける場に立ち会わせ、その政務の一端を見せることで帝王教育を試みた。帝王学を、直伝で身につけさせようとしたのである。しかし皇太子はこれを嫌い、事あるごとに立ち会うのを避けた。業を煮やした明治天皇は晩年、「皇太子教育を間違えた」との趣旨の言葉を側近に漏らしている。

大正天皇は鋭敏な感性の持ち主であった。明治29年ごろから和歌や漢詩の創作を始め、ことに漢詩を好み、1367首を残している。明治天皇と昭和天皇が漢詩を残していないことを考えると、大正天皇の個性は際立っている。公表されているものは約300首だが、代表作のひとつが大正3(1914)年作の七言絶句「西瓜」である。

濯得淸泉翠有光
剖來紅雪正吹香
甘漿滴滴如繁露
一嚼使人神骨涼

〈清泉にあらい得てみどり光有り き来たれば紅雪正に香を吹く 甘漿滴滴繁露かんしょうてきてきはんろの如し 一嚼いっしゃく人をして神骨涼しからしむ〉

中国文学者の石川忠久はこの作品を「御作中、白眉の作。ごくありふれた日常の題材のスケッチながら、みずみずしい感性の輝きと、機知が光る」などと評している(『大正天皇漢詩集』大修館書店)。

大正3年は、欧州での紛争をきっかけに第一次世界大戦が勃発した年でもある。大正天皇はドイツとの戦いを題材にした「青島の兵事を聞く」や「慰問袋」なども詠んでいる。

ただ、いかに文学的才能があろうとも、それは軍事指導者が要請した天皇像ではなかった。大正天皇は第一次大戦の参戦の意思決定にさえ関わっていない。時の大隈重信内閣は参戦を決断したが、大正天皇は御前会議で意見を述べることなく、対独宣戦布告が行われた。前述の、日清戦争における明治天皇の行動とは対照的である。

その漢詩も、大正6年までは確認されているが、翌年以降の作品は明らかになっていない。

昭和天皇に施された「帝王学」

大正天皇が「軍服を着た天皇」としての役割を果たさないため、明治天皇は皇孫(後の昭和天皇)への教育に情熱を捧げた。学習院の院長に、信頼する乃木希典を迎えたことも、その表れである。時間割には国語、算術、倫理、習字、博物が入り、4年生からは軍事学も入った。男子皇族は軍人としての教育を受け、昭和天皇も大正元年に11歳で陸海軍少尉になっている。

昭和天皇は皇太子時代の大正3年から10年まで、東宮御学問所で特別教育を受けている。歴史を担当した東京帝国大学文科大学教授・白鳥庫吉、倫理担当の日本中学校校長・杉浦重剛らが教授陣となり、華族の子弟から選ばれた5人が同窓生として机を並べた。この7年余の教育により、昭和天皇は近代日本が求めている天皇像を理解したのである。それは軍事主導体制を象徴する「軍服を着た天皇」としての姿であった。

それと同時に、「立憲君主制の枠内にとどまる天皇」であることも求められた。ひとたび政治、軍事指導者に大権を付与した以上、彼らの決定には異を唱えない。その代わり、責任からは免れる——それが帝王学の要諦であったのだが、きわめて人為的につくられた天皇像をそのまま実践することが昭和天皇に期待されていた、ということになる。

一方、大正天皇は病気が悪化し、宮内大臣の牧野伸顕は当時の日記に

「聖上陛下には唯々アーアーと切り目切り目に仰せられ御点頭てんとう遊ばされたり」

と書き記している。ただ、こうした記述が事実であったかどうかは不明である。なぜなら当時、政府首脳は大正天皇が天皇としての権威を欠くと見ており、なるべく早く皇太子(後の昭和天皇)を摂政として天皇の政務を譲るべきと考えていたためである。そのため、大正天皇の病状などが誇張されて伝えられたきらいがある。巷間有名な「遠眼鏡事件」——帝国議会で詔書を読み上げた後、紙をくるくると丸めて望遠鏡のように議員たちを眺め渡したというエピソードも、軍部によって意図的に流布された形跡がある。

大正天皇は、「軍服を着た天皇」という枠組みに自らをはめ込むことを嫌い、最後まで抗った。それでも、皇太子が摂政になるため、大正天皇の政務室から摂政の部屋に侍従が御名御璽の印を運ぶ時に、大正天皇はそれを抱えて離さなかったと、侍従武官の日記に記されている。

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大正天皇

天皇を欺く軍部の傲慢

大正10年11月、皇太子が摂政に就任した。弱冠20歳である。即位はその5年後になるが、実質的にはこの時から天皇という立場に立っていたことになる。

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