中野信子様

日本のエリートはなぜアートに群がり始めたのか―MoMAのVisual Thinking Strategy 中野信子「脳と美意識」

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 情報の感度の高いビジネスパーソンの間でアートが話題に上ることが増えたように思う。「ビジネス✕アート」の関連書籍が新しい潮流を形成しつつあるように見える。

 ただ私の小中高時代を思い起こせば、美術はいわばマイナー科目だった。自分は中高と6年間美術部で、油画が好きで描いていたこともあって、授業とはあまり関係なく個人的に勉強もした。文明論的な観点から語られる美術、アートの成立から歴史、宗教史に至るまで幅広く議論を交わすのは刺激的で楽しかった。やってもやらなくても入試にはあまり関係がなく、言葉を選ばずに言えば、息抜き、と未だに学校教育ではみなされがちな領野ではある。だが私にとってアートの世界はセキュア・ベース(心理学の用語で、日本語では「心の安全基地」と訳される)だった。

 しかし、近年の日本では”世界のエリートは時間を割いてでもアートに触れるようにしている”というプロモーションがなされただけで、アートの世界を持ち上げ始めているようだ。アートマーケットが拡大することそのものは嬉しいことであるとはいえ、いかにも日本人的ではないか。別に日本人的であること自体は悪くないが、本来の理由――世界のエリートがなぜアートに触れるのか――とは違ったアプローチでアートに群がり始めている感があるのがどうも気になる。

 ハーバード大学の○○がこうしているから自分も、であるとか、ジョブズがそうしていたから自分も毎日同じ服を、だとかいう行動の裏に、どこか本来の自分を低く見て、粗末に扱う感情がありはしないか。前向きで創造的な模倣というより、焦りと不安からの、形だけの真似であったりはしないか。
この不安感情は他者と比べて比較優位にあるときに宥められる性質だから、自尊感情の低い人たちの集団ではアートそのものの楽しみを味わうよりむしろ、ともすれば○○を知っている、俺は○○を買った、大手ギャラリーの誰それと親しい、などというマウント合戦がやり取りのメインストリームになりかねず、想像するだけで疲れてしまう。ただこれはアートの領野に限った話ではないだろう。

 日本人は、維新後は「富国強兵」、戦後は「追いつけ追い越せ」と、どこか他者の美点と比べて自己を卑下し、叱咤し、一心不乱に「無駄なこと」を切り捨てて粉骨砕身、刻苦勉励してきた。この苦行のようなスタイルを裏打ちする本質的な自尊感情の低さが、世界の一流はこうだ、と言いさえすればそれが流行してしまう現象に滲み出しているようで、なんとも落ち着かない気分になる。

 まあ、入口は何であったとしてもアート好きが増えるのは長期的には望ましいことであろう。理由を詳述するのはまたの機会としたいが、アートほど国の価値を端的に文化の差異を超えて伝えられるものも少ない。ただ、刻苦勉励のなかで切り捨てられてきたその「無駄なこと」の中にこそアートがあったはずなのだけれど、果たして苦行スタイルで自身の立場を築いてきた日本のエリートたちにこの「無駄なこと」を、経済合理性のある見返りなしに愛せるのか? このブームの展開が実に楽しみだ。

 1980年代にMoMA(ニューヨーク近代美術館)が開発したVTS(Visual Thinking Strategy)という教育プログラムがある。鑑賞者が作品をよく見て考え、鑑賞者同士で互いの意見を語り合いながら、「観察力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」を育成するというものだ。

 重要なのは、解釈が常に開かれているという点である。つまり、捉え方は一様ではなく、何通りもの見方が許されるということだ。これは、従来の日本の教育を受けて来た大人にとってはかなり刺激的なはずだ。原則として、自分なりの見方を発表することは許されず、たった一つの正解を選ばされる教育を受け、用意された正解を辿るようにして人生を設計してきたエリートたちには、むしろVTS的なプログラムのほうこそ苦行かもしれない。

 正解を選ばされることに慣れてきた人たちは、アートをこんなふうに見るだろう。

「いつ、どこで、誰が、何のために、どんな手法や材質を使って制作したのか?」

 「作品の背景にはどんな歴史があり、どんな来歴をたどって来たのか?」

 いかにも美術のテストに出そうな問である。

 VTSでは、そうした「作品の背景」を問わない。鑑賞の自由度を上げようとするとき、それらの情報はむしろ邪魔になってしまうからだ。作品を見て自分が何を感じ、何を考えるか、をVTSでは重視する。さらに面白いことに、このプログラムはアートに触れる体験を提供するだけでなく、複合的な能力を伸ばす効果もあることが、アメリカの教育現場で実証されているという。

 プログラムではまず、児童によく観察させる。その後、児童らにその作品からどのような気付きや発見があったのか自由に発表させる。教師は作品について、解説をするのではなく、「作品の中から何を発見したか」「なぜそう思うのか」「さらに発見はあるか」などと質問しながら、児童の発言をつなぐファシリテータの役割を担う。

 こうした問いかけの繰り返しによって、児童の観察の仕方や作品への解釈が豊かになるともに、多様な意見を傾聴しながら、自身の考えを根拠をもって人に伝える方法を学んでいく。この一連の流れの中で、事物への多面的な捉え方ができる能力が身に付き、批判的思考や論理的思考、コミュニケーション能力が高められるというのだ。

 この方法のメリットは、アートを仲介することにより、同調を求められることなく、たとえ互いの意見が違っても穏やかに対話を終えることができる点である。安心して自由に発言できる機会が保障されているため、対立することなく自由な意見の交流が生まれ、結果、創造的で豊かな帰結が得られる。

 根拠に乏しく正体不明な「右脳思考」などではなく、極めてロジカルに分析できる理由によって、アートはビジネスの「役に立つ」ことがこれでおわかりいただけるだろうか。

 いま私たちに必要なのは、こうした正解がない課題に対して自由に発言することを許し、互いの考え方や視点の差異を適切に尊重して、理解するためのトレーニングなのではないだろうか。

 (連載第9回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
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