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美しい国|中野信子「脳と美意識」

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 パリに来ると毎回、心を打たれることと、失望の両方を交互に味わうことになる。美観は他には見られない素晴らしさがあり、どう足掻いても誰にも真似できないものがあり、文字通り、美しい。

 一方で、利便性と清潔度は期待できない。もちろん公共交通機関は時間通りに来ないことを前提として動くべきである。予期しない迂回、唐突に直前になって告知される運休、頻繁に行われるストライキ(グレーヴ、と呼ばれる)。

 タクシーもつかまえづらい。G7などのアプリで配車を頼むことはできるけれど、東京のようには行かない。そもそも台数が少ないうえに、道路事情があまりよくない。渋滞がよく起こるために、メトロを使う方がまだ確実な場合も多い。だから、時間の約束も難しい。

 また、エアコンの効いた、清潔で明るい、およそ便利な機能はほとんど揃っているコンビニエンスストアのようなものもない。これは便利だ、という何かが存在しないこともないのだが、そこに人の手が加わるだけで怪しくなってくる。大抵の機械はすべてが正常に動いているということは滅多になく、1か所か2か所か壊れているのがあたりまえで、しばしば全ての機械が壊れている、ということも珍しくない。

 カードキーなんていうものも一応便利であることにはなっている。けれども、これが人を介すと事情が変わってくる。たとえば、カードキーを渡す役割の人物が、それらをジーンズの後ろのポケットに入れていたためにすべて歪んでしまって使えなくなってしまっていたということもある。当然のごとく本人は、絶対に謝らない。こちらは出入りのたびに人を呼ばなければならず、「鍵とは一体なんなのだろうか」という哲学的なまでの疑問を覚える。なるほどこれは人文科学が発達するわけだと奇妙な感慨さえ湧いてくる。

 清潔度についてはもう、書くまでもないかもしれない。パリと比較すれば、少なくとも東京都心部は、街中がホテルのように清潔に見える。

 その中にいると異文化の良くない部分は先に目に付くもので、つい力が入ってしまったが、こうして失望を味わったその向こう側に、もちろん、素晴らしいものは存在する。それを目の当たりにする時に、私は美しい感情としか言えないなにものかを味わう。

 大型のショッピングモールに入っている店舗では屈強なアフリカ系の男性が、未払いの品を来店者が外に持って出ないかどうか、出入り口でレシートをいちいちチェックして確認している。それでも果敢に万引きをしようとする移民風の高齢者、未払いの品を持って出ようとして捕まえられ、苦笑する若い女性、数分に一回はそういう人がいる。ひどい光景だ。いったいモラルというのはこの国にあるのかとさえ思えてくるような様相である。

 けれども、丁寧に客に寄り添おうとして心を尽くし、マニュアル通りではないあたたかみのある応対をする人も少なくない。東京では機械のように正確で、客とは距離のある応対が良しとされるような雰囲気があるのと対照的だ。大型のチェーンの店舗に、こうした血の通ったコミュニケーションが当たり前のようにあるのは美しい。

 またある時、ストリートピアノがある場所で、どの子も白人ではないことが容貌からはっきりとわかる10代から20代前半くらいの若い男の子の集団が、代わる代わるピアノを弾き、歌を歌い、スマートフォンの画面に映し出された楽譜や歌詞を指差してあれこれ議論しながら、わいわいと楽しんでいた場面に出会った。どの子もピアノも歌もうまく、驚かされた。プロとしてお金を得よう、というようなギラついたものがある様子でもなく、ただただ音楽を楽しんでいる。たとえば東京なら、ゲームセンターでこういう光景を見ることがあるかもしれない。

 パリで、地元の子たちが、ストリートピアノで創作とコミュニケーションを楽しんでいる様子と、そしてこれがなければこの子たちは社会に絶望したのではないかとも思えるような状況を考え合わせるに、こうしたクリエイションが確実に社会の一隅を照らす光として機能していることを思った。これが美しい国というやつではないか、と感慨を深くした。文化は長い時間のうちに、行政やごく一部のマーケット関係者からお墨付きを与えられた人だけの排他的特権主義に冒されていくことがしばしばあり、そのままでは形骸化して力を失っていくものだ。が、そうではない活きた創作の現場を、偶然にも垣間見ることがかない、胸が熱くなるような思いに駆られた。

■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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