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なぜ青梅は新宿の母なのか|門井慶喜「この東京のかたち」#28

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※本連載は第28回です。最初から読む方はこちら。

 江戸の街なみというと、どんな風景を想像するだろうか。落語の八つぁん熊さんが住んでいそうな長屋の密集もそうだろうし、たくさんの人や荷車が行き交う表通りもそうだろう。表通りの左右には、ずらっと店の軒や看板がならぶわけだ。

 けれども単純に面積で考えるなら、第1位はそれらではない。圧倒的に武家地のはずである。

 大名屋敷や旗本屋敷。白い漆喰(しっくい)の塀がながながとつづいたあげく直線的に折れ曲がり、屋根つきの門があらわれ、なかの建物は板壁のときもあるだろうが、やはり高級なのは漆喰の壁だ。

 ちりひとつ寄せつけぬ感じの清らかさ、まばゆさ。そういう屋敷のうち最大のものがすなわち将軍の住む江戸城であることは言うまでもないだろう。現在の皇居の敷地内にも富士櫓、百人番所、大手門がよく残っていて、文字どおり「徳川時代」をしのぶに足りるが、当時は武士だけでなく、商人もやはりお金があれば蔵や塀などは漆喰で建てたのではないか。漆喰というのは美しいことも美しいが、実用の面でも燃えにくく、また長雨や風にもくずれないという利点があったからである。商人たちの命より大事な財産をまもる盾としても、この材料は重宝したのだ。

 すなわち江戸とは漆喰天国である。そう断言していいだろう。この万能の外装材は、主原料は石灰(消石灰)だった。いまでも小学生たちが体育の時間に校庭へ線を引いたりする、あの白い粉である。あれにフノリ(布海苔)などの海藻の煮汁をまぜて粘り気をつけ、壁土にべたっと塗りこむわけだ。セッカイがシックイになるなどとは何だか下手な駄洒落みたいだが、実際は、駄洒落どころか語源である。セッカイのなまりがシックイなのだ。

 あるいは「石灰」の唐音がシックイともいう。唐音とは行灯をアンドン、和尚をオショウと読むたぐいの特殊な読み。どちらにしても両者は同一の語と見てよく、もちろん「漆喰」は当て字である。江戸の街なみとは石灰の街なみにほかならないのだ。

 そうして当時は、いまと異なり、石灰を人工的に製造する手段はない。いや、ないことはないのだが、それは貝殻を焼いて砕くというようなものだから規模は小さいし、生産高もごく少ない。

 つまりは大自然から頂戴するほかなく、問題は鉱業のそれになる。石灰石はどこの山に産したか。

 こんにちの青梅(おうめ)市に産した。青梅というのは西にながい東京都(島嶼部を除く)のなかでも西のはしっこ、というより北西のはしっこに位置する街であり、東京駅からの鉄道距離は50キロ以上。もし東海道をたどるとすれば横浜をこえて藤沢あたりまで行ってしまう距離である。青梅市は、都内にありながら地勢的には埼玉県へ足を出しかけているのだ。

 その青梅市の北部、成木(なりき)や小曽木(おそき)といったような地区の山から石灰石が大量に出るとわかったのは戦国時代、いや、もっと以前かもしれない。しかしながら石灰石鉱山などというものは、日本の場合もともとめずらしくない上に、いまだ需要がじゅうぶんではなかった。たとえば室町時代の人にとって石灰というものの用途といえば、おそらくは建物の外装よりもむしろ絹や麻などに色をつける媒染剤という印象のほうが強かったのではないか。これでは青梅のたっぷりの山抱えも人目を引かないわけである。

 それが全国の注目をあびたのは、これはもちろん、徳川家康が江戸に来てからである。武家の屋敷はとにかく敵襲にそなえて燃えにくく、雨風にくずれぬ外壁を持つべきだというのはそれ以前から常識ないし理想だったけれども(見た目が美しければなおよろしい)、それが戦国乱世の時代を経て、かなりの程度、実現されたということだろう。

 漆喰という建材が、歴史の表舞台に立った瞬間である。家康の江戸入府から16年後、慶長11年(1606)には江戸城の改修がおこなわれたが、この改修というよりはむしろ第二次開発と呼ぶほうがふさわしい巨大プロジェクトにさいしては、幕府は、

 ――石灰は、青梅より採取し上納せよ。

 という命令を下している。

 当時はセッカイではなくイシバイと読んだだろう。下した相手は、八王子代官・大久保長安(ながやす)だった。

 大久保長安は、近世最高の鉱山経営者である。

 このとき61歳であり、すでにして石見銀山、佐渡金山、伊豆金山などといったような錚々たる場所での実績があった。手がけた金山銀山はことごとく採鉱量が劇的に向上し、幕府財政をうるおした感がある。

 その秘密はどうやら採掘技術の改良よりも、むしろ労働者の管理の徹底および効率化のほうにあったらしい。鉱山「経営者」と呼ぶゆえんである。そういう大久保長安をここで起用したということは、幕府は或る意味、金山銀山と同様の重要性をこの石灰石鉱山にみとめたことになる。問題は距離だった。何しろ青梅の山々は、都心までの距離が50キロ以上。そう、東海道なら横浜よりも遠いのである。

 この問題を、長安はどう解決したか。

 ――道を、通せばいい。

 青梅で採り、青梅で焼いた石灰をぎっちり俵につめこんで、馬で江戸へと運びこむ。そのために、それだけのために、長安はあえて幹線道路を一本引いたのである。

 この発想は、コロンブスの卵だった。日本史にこれほどの規模の貨物専用線があらわれるのは、おそらくこれが最初である。むろんただ地面をふみかためれば一丁あがりというわけではない。青梅から江戸市内まで一頭の馬にひたすら荷物を負わせるのは無理であり、途中には、いくつか宿駅を設けなければならないからだ。

 荷物はそこで馬から馬へと載せかえられ、馬引きの人夫も交代して、リレー競技よろしく運んで行かれる。これを駅伝という。このため周辺の村はつねに馬や人夫を用意しておかなければならず、幕府のほうも、彼らの負担を公平にする諸規則をさだめる必要がある。それやこれやをふくめると、長安が整備したのは単なる一本の道路ではない。その沿線の住民まで巻きこんだ社会基盤そのものだったのである。

 そうしてこの石灰のための青梅道(おうめみち)は、じつはもうひとつ大きな副産物を生んでいる。新宿である。青梅道はじつはそれ自体が江戸市中にまで進み入るわけではなく、その手前で、甲斐国から来た甲州街道と合流して、それに吸収されるのである。

 その合流点(江戸から来れば分岐点)にはもともと宿駅などなかったものを、便利だからと、あとで置かれたのが内藤新宿にほかならなかった。これが現在の新宿の街なのである。

 その意味では、青梅は新宿の母である(ほかにも新宿誕生の理由はある。くわしくは第13回「なぜ新宿に紀伊國屋書店があるのか」を参照されたい)。なお青梅道においては、内藤新宿にいたる宿は4つ。

 表川

 箱根ヶ崎

 田無(たなし)

 中野

 である。これらが現在の地図のどのへんにあるかの調査ないし探検は、これを読者にゆだねることにしよう。とにかくこの青梅道の完成により、江戸の街はみるみる漆喰の白壁の屋敷がふえ(色をつけた例もある)、自然災害に強くなり、21世紀の私たちの脳裡へも或る統一された視覚的記憶をもたらしたのである。

 いや、江戸ばかりではない。この青梅石灰はそのほか駿府城、名古屋城、京の二条城、大坂城、さらには日光東照宮のごとき宗教施設にまで用いられたという。全国制覇のいきおいである。石灰というのが体積のわりには重量が少なく、つまりは運びやすい建材だからでもあるだろうが、だとしても、まさかこれら全物件の全壁面にくまなく塗られたわけではあるまい。

 ほんの一部にちがいない。それでもとにかく塗りさえすれば将軍家の「御用石灰」使用の金看板が、いや白看板がかけられる。そういう親の七光りみたいな思惑が駿府城には、名古屋城には、その他の物件にもあったのだろう。青梅の地名はここまで貫禄がついたのである。

 もっとも、徳川時代の物流の中心は陸運ではない。水運である。宝永年間(1700年代初頭)あたりからは並行する新河岸川(しんかしがわ)が整備されたことで青梅道の負担はいくらか軽くなったけれども、この川はさほど大きくなく、石灰の陸送はやはりつづいた。

 いや、それどころか、時代が進むにつれて青梅道の運ぶ品物の種類は、杉皮、織物、薪炭……むしろ多様になったのである。

 社会の複雑化に応じたわけだ。もちろんこの「品物」のなかには人間も入る。上の4宿、ことに田無と中野がさらに周辺の地域へと道をのばすと、そこから来て、じかに甲斐方面へ行きたい人がふえる。そこで青梅道のほうも青梅の先へと延伸して、大菩薩峠をこえて甲斐に入り、甲府の近くでふたたび甲州街道に合するようになるのである。

 いわゆる脇街道が誕生したわけだ。裏街道ともいう。もちろん利用者のほとんどは善良な市民だったにちがいないが、なかには天下の大道を胸はって歩けない凶状持ちのような人々もいたとか。

 そういえば中里介山の大長編小説『大菩薩峠』の主人公は机龍之介という幕末の剣士だけれども、これは何しろ冒頭いきなり武州御岳山(現在の青梅市)の奉納試合でライバルの剣士を斬り殺し、その妻をさらって逃げ出した札つきの犯罪者であり極悪人である。作者がわざわざタイトルに脇街道の難所中の難所の地名をえらんだのは、こういう人物造形と呼吸を合わせた面もあるのだろう。

 ともあれ、このようなしだいで、青梅道の歴史とは特殊から一般へのあゆみである。単一の資源の搬送路から始まって、多品種のそれになり、人の往来のよすがになった。

 現在はもちろんアスファルトで舗装された道路となり、青梅街道と名を変えて、車やトラックをさかんに行き交わせている。どこにでもある風景である。しかし私はそれを個性の喪失というよりも、むしろ汎用性の獲得と受け取りたいような気がするのだ。東京に漆喰の建物がなくなっても、道は生き残ったのだから。

 少なくとも、あの「発展的解消」という語がもっとも似合う街道ではあると思う。現在は、青梅マラソンのコースにもなっている。いわゆる市民マラソンの大会のうち、もっとも有名なもののひとつだろう。基本的にはランナーがひとりでゴールまで駆ける形式であるからして、駅伝ではない。

(連載第28回)
★第29回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』 『シュ ンスケ!』。東京駅を建てた建築家 ・辰野金吾をモデルに、 江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、 はじまる』。最新刊は『銀閣の人』。
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