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「英語教育」が国を滅ぼす! / 藤原正彦

来年度から導入予定だった英語民間試験が4年以上延期となり、教育界に激震が走った。さらに12月17日には、国語・数学の記述式についても延期することが発表された。この国の教育はどこへ向かうのか。筆者は、こう断言する。「大学入試改革は産業界主導の愚民化政策である」と――。/文・藤原正彦(作家・数学者)

公平な入試をすると不公平な結果を生む

 令和元年11月1日、教育界に激震が走った。来年度から導入予定だった英語民間試験が、4年以上延期となったからである。そのための準備をしてきた高校2年生以下の生徒たちは、さぞ混乱しただろう。高2生は高3になる半年後の令和2年4月から12月までの間に、英語民間試験を2回受け、その成績が大学入試センターを通し、大学側に提供されることになっていたからだ。民間試験の傾向と対策を練り生徒を指導してきた高校や塾の教師も、仰天しているだろう。間違いなきよう大がかりな態勢を整備してきた英語民間試験請負業者、すなわち英検、GTEC、ケンブリッジ英語検定、IELTS、TOEFL、TEAPなどは、怒り心頭に違いない。実施の半年前になって、突然の延期決定だからである。

 延期を発表した萩生田光一文科相によると、延期理由は、「経済的状況や居住している地域にかかわらず、等しく安心して受けられるようにするためには、更なる時間が必要」ということだった。こんなことは当初から教育界のすべての人が言っていたことだった。1回の検定料が5,000円〜2万5,000円もかかる英語民間試験を2度受けるから、1人当たり1万円〜5万円もかかることとなる。高2までに前もって腕だめしをしておいた方が断然有利だから、費用はさらにかさむ。それに英検とGTECこそ各都道府県に試験会場を持つものの、他は半数ほどの県にしか持たない。都市部に住む裕福な家の受験生が有利となるのは、誰にでも分かることだった。

萩生田光一(中吊り用)共同_トリミング済み

萩生田文科相

 このことを萩生田文科相はよく理解していなかったのか、延期発表の8日前になってメディアに対し、「各受験生は身の丈に合った勝負をすればよい」と語った。英語民間試験には他にも問題が指摘されている。採用される民間試験は、出題の目的も形式も難易度もまったく異なる。Aという民間試験とBという民間試験から送られてきた成績を大学はどう比べるのか。50万人が受ける試験を民間にまかせ、採点の公平性は保たれるのか、成績の漏洩はないのか、なども解決されていない。不祥事が出たら大混乱だろう。

「公平」の大好きな野党やメディアが、鬼の首をとったように大臣の発言にかみついた。身の丈発言は確かに軽率だ。英語民間試験に関するこれまでの経緯を大臣は理解していなかったに違いない。文科相は辞任を回避するために民間試験を延期した、と疑われても仕方ない。

 国立大学の入試は公平なものである。例えば数学では、1つの答案に複数の教官が目を通し、公平な採点の結果を念入りに集計し、合計点の高い方から定員までを合格とする。採点時や合格判定会議には、受験者の名は隠されているから、情実の入るスキもない。どこからどう見ても公平に思える。ところが、かくのごとき世にも公平な試験の結果、東大生の親の所得が全大学中で最も高い、という不公平な現実が生まれている。公平な試験をすると、裕福な家庭に生まれ、よい家庭教師やよい塾に通い、一流の私立中高で学んだ生徒の方が、平均的には学力が高いから有利になる。彼等が東大を出て官界財界でよい地位につき裕福となれば、その子弟によい教育を与えることができ、子弟たちは東大に入りやすくなる。彼等が再び、という形で階層さえ作ってしまうのだ。公平な入試をすると不公平な結果を生む、ということである。

「ヴァイオリンが箱形でないのは何故か」

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藤原氏

 30年ほど前、ケンブリッジ大学にいた私は教えていたクイーンズカレッジの入試面接にかり出された。その日は、グリーン、ヘインズ両博士と私が、数学および物理学専攻の面接を行った。面接は各人につき30分ずつである。合否はこの面接と、内申書やAテストと呼ばれる国家試験の結果を半々に見て決定する。面接の点は試験官3人がそれぞれ5段階評価をし合計する。この大学で最重要視されるのは、自ら学んで行く意欲と能力である。質問内容は専門的なことから読書傾向や友人関係にまで及んだ。教科書に出ていないことでも臨機応変に聞く。趣味がヴァイオリンと言った生徒には、「ヴァイオリンが箱形でないのは何故か」と問うたし、卓球部にいた生徒には「ピンポンをカットすると何故曲がるのか」などと聞いた。物理に疎い私はよく分からなかったが、分かったような顔をして聞いていた。実は、答えが正しいかどうかは大した問題でなく、分からなくとも頑張ってどう思考を進めるか、その態度を我々は見ていたのである。数学では基本をよく理解していない者も散見されたが、ケンブリッジを受験する生徒だけに、どの内申書にも抜群と記してあったのは日本と同じでおかしかった。

 真っ赤な口紅に真っ赤なマニキュア、真っ赤なロングドレスという出立ちで、香水の匂いをまき散らしながら女生徒が登場した時は、お茶の水女子大に長くいて女生徒に慣れているはずの私が圧倒された。ただ、艶かしい割には質問にうまく答えられなかった。評点を2にするか3にするか迷った挙句、3には私の生来の好色が影を落としていると判断し、2にした。他の2人も2だったのでホッとした。3者の評点は時折1点の差があったが、2点の差が出ることはなかった。主観的のはずなのにほとんどの場合、同点だったのである。1人だけ凄いのがいた。まだ16歳のインド人だった。葬式帰りのような黒スーツに黒ネクタイだったが、どんな質問にも的確に答えた。少し困らせてやろうと、整数に関するやや意地悪な問題を出したら、ものの10秒ほどで解いてしまった。ノーベル賞を数十人も出す大学にはこんな生徒が来るのか、と感心していたらグリーン博士が、「やったぜ」とでも言いた気に私に目配せした。

パブリックスクールと公立高校を区別する

 試験後、グリーン博士に気になったことを2つ尋ねてみた。1つは、願書にあった「親戚中のオックスフォードあるいはケンブリッジ出身者」なる欄の使われ方だった。彼はそれが「合否に影響することはあり得ない」と断言した。ただし、別のカレッジの教授は、「質の高い学生を選ぶのがケンブリッジの使命だ。そのためにあらゆる情報を利用する、というのは当然」と言っていたから、ケンブリッジではカレッジにより、あるいは教官により利用方法が違うのかもしれない。

 もう1つは、合否判定時にパブリックスクール(寄宿制のエリート私立中高)と公立高校が同等に扱われるかという疑問だった。イートン校、ハーロウ校といったいわゆるパブリックスクールは英国の私立中高の上澄みとでも言うべき学校だが、学費が年に500万ほどかかるため、裕福な階層の優秀な子弟しか入学できない。数万坪の敷地には芝生のラグビーグラウンド、クリケットグラウンド、テニスコートなどを完備し、コンピュータや科学機器が整い、理系教師の大半が博士号を保有する、といった夢のような環境で生徒は6年間を過ごす。「同等ではありません。もし類似した成績なら公立高校出身者をとります。教育環境がまるで違うからです。条件の違うものは区別するのが当然と考えるからです」。例えると、総合点で200点をとったイートン校出身者を落とし、192点をとった田舎の公立高出身者を合格させる、ということである。劣った環境の下で勉学しながら192点をとる者は、優れた環境の下で勉学し200点をとる者より、潜在能力は上と見なすのである。日本ではあり得ない話だ。これがケンブリッジの公平なのである。

 日本の国立大では、推薦入試やAO入試といった特殊入試を除き、総合点だけで機械的に合否を決定する。内申書は全受験生に出させるが、異なるレベルの高校での成績を、公平に比較する適切な方法がないから、ほとんどの国立大学では一切考慮せず、総合点が同じだった時にちらっと見るくらいのものだ。

 ケンブリッジ大学と日本の国立大学との公平は相当に異なると言ってよい。別の言い方をすると、日本の入試における公平は「一切の主観を混入させない」であり、ケンブリッジのそれは、「主観を入れることでより妥当な評価をする」である。

「公平」は欧米の作ったフィクション

「公平」という言葉を日本人は大好きだが、自由、平等などと同じく定義はなく曖昧なものである。雰囲気を示すだけのものと言ってよい。そもそもこの世界には、自由も平等も公平も存在しない。すべて欧米の作ったフィクションなのである。

 トマス・ジェファーソンはアメリカ独立宣言を起草した。そこに、「我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は生まれながらに平等であり、神により生存、自由、および幸福の追求など侵すべからざる権利を与えられている」とある。自明なら神を持ち出すまでもないと思うのだが。ちなみに自由と平等のチャンピオンとも言うべきジェファーソンは、後にアメリカ第3代大統領となり、アメリカ先住民絶滅計画を力強く推進し、黒人奴隷を100人以上も所有していたことが知られている。10数年前、ジェファーソン家で働いていた奴隷の子孫が、ジェファーソンの子孫であることがDNA鑑定により判明し、一流科学雑誌にも発表され話題を呼んだ。自由、平等、公平とは何なのか、雰囲気さえ分からなくなりそうだ。

 今般の英語民間試験については、公平が最大関心事となっているが、さほど本質的な論点とは思えない。全国のすべての高校生が経済状況や教育環境で激しい格差の中にある時、「一切の主観を混入させない」という入試の公平が、どれだけ意味があるのかと思ってしまうのだ。

 あるオックスフォードの卒業生に日本の入試について話したら、「面接をしないのですか。面接もしないで人間の意欲や能力を判定するなどというのは、受験生をバカにしている」と憤慨されたのを覚えている。面接は主観のかたまりである。ただ、ケンブリッジでの私の経験が示すように、各面接官の印象のブレは極めて小さい。30分も質問すれば、能力は無論、人間性もかなりよく分かる。私のように口紅、マニキュア、香水の3点セットでKO寸前になる、というハプニングはあるものの、実に多くのことが分かる。日本においてだって、受験生を筆記試験の篩にかけて定員の2倍くらいにすれば面接は可能だ。いつまでも「一切の主観を混入させない」という公平に拘るのは、国民的熱病とでも言うべきものだろう。

「産業競争力の強化」が最大の目標

 今度の大学入試改革は、英語だけではない。2020年度からセンター試験に代わる共通テストにおいて、国語と数学に記述式が取り入れられることになる。この意味は不明である。現在でも、各大学の個別入試の数学はほぼすべて記述式だ。多くの大学では国語にも記述が入っているし、小論文などもあるのだ。

安倍首相(中吊り用)共同_トリミング済み

安倍首相

 今回の大学入試改革において、メディアや野党の騒ぎ立てる「民間業者への丸投げ」とか「公平性の欠如」は大した問題ではない。決定的な問題点は、この改革が経済界のイニシアティブで進められてきた、ということだ。この改革の青写真は、2013年10月に教育再生実行会議が発表した第4次提言である。そしてこの提言は、産業競争力会議のお墨つきを得たものを具体化したものと言える。産業競争力会議とは、アベノミクスにおける第3の矢「成長戦略」を議論するために設けられた首相直下の会議である。2013年3月の産業競争力会議において、当時の下村博文文科大臣は、「産業競争力会議と教育再生実行会議とが、グローバル人材の育成や国立大学改革などに関し、車の両輪として互いに連携をとりながら、成長戦略を描いて行きたい」という趣旨の発言をしている。そしてその年の4月および5月の教育再生会議では、下村文科相が産業競争力会議の内容を紹介し、それをたたき台として議論が進められたことが議事録からうかがえる。産業競争力会議のメンバーのほぼすべては政治家と経済人で、教育再生実行会議のメンバーの約半数は教育界の人間ではなかった。

 その後、文科省の審議会も検討を加えたが、今回の大学入試改革は出発点から不幸なスタートだったのである。「人間を育てる」が教育の目的なのに、恐るべきことだが、「産業競争力の強化」が最大の目標だったのだから。

 教育に関しては、「これからの激しい社会変化に耐えられる人材、グローバル人材の育成」が目標となった。また出てきたかグローバル人材である。ひところ流行った「国際人」がやっと聞かれなくなりホッとしていたら、10年ほど前から猫も杓子も「グローバル人材」だ。これも「国際人」と同じく意味不明だが、どうやら英語によるコミュニケーション能力やプレゼンテーション能力を身につけた、国際的に活躍できる人間のことらしい。「国際人」と同様、もともと経済界の要請だが、今では企業ばかりか小学校から大学までが、一斉に「グローバル人材」を唱和している。国民の多くも、「英語が自由に操れたらいいなあ」くらいの感覚で、これを支持しているから手に負えない。

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