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近江兄弟社・山村徹「商人道とキリスト教徒理念のハイブリッド経営」 ニッポンの社長⑬

文・樽谷哲也(ノンフィクション作家)

「究極のリップをつくろう」

外出時、ポケットのどこかに入っていないと不安になるものといえば、いまや誰しもスマートフォンを挙げることであろう。寒気の厳しいこれからの季節は、大方、さらにスティック型の薬用メントール系リップクリームが加わるのではなかろうか。

多くの日本人がこの薬用リップには大きく「メンソレータム」と「メンターム」という2つ商品名があることを知っていよう。前者は一般用目薬で国内トップのシェアを持つ大阪のロート製薬の商品なのだが、元をたどればどちらも滋賀の近江兄弟社から広まったものなのである。

工場を併設した近江八幡市の本社で、社長の山村徹に不躾に訊ねた。

——御社のメンタームと、メンソレータムのリップクリームに、端的な中身の違いはあるんですか。

山村は、目尻に柔和な笑い皺を立てたまま、間を置かず答えた。

「変わりないと思います。成分、効能にもほとんど違いはありません」

山村徹社長

山村社長

見分けがつかぬほど似てもいる。それだけ完成度が高く、生活者に馴染んだ商品なのであるといえよう。

「ほぼ同じ商品が市場にあるのは、お客さまにもそれだけ認めていただけているということだと思います」

山村は、遠慮がちに「究極のリップをつくろうと開発陣を挙げて開発しまして——」と《唇の皮むけ ひび割れに》と謳う効能のより高いリップケア商品をさらりと紹介した。

「私自身、冬は唇がカサカサになるので、リップクリームのヘビーユーザーなんです。これは保湿力も細胞活性作用も完成度もより高く……」

入社して何年も自転車を漕いで営業に走り回ったというだけあって、トップ自らPRは怠らない。大卒入社で生え抜きにして48歳で社長に就き、11年目に入った。ことしの大晦日で59歳になる。彦根市に生まれ育ち、地元の公立の小中学校から近江兄弟社高校に学んだ。

法人としては別の運営になっているが、近江兄弟社は、建築設計、消臭剤などの製造販売、キリスト教の伝道・出版活動のほか、病院、こども園から高校、さらに高齢者用ケアハウスなどをグループに擁する。

株式会社近江兄弟社の朝は、本社だけでなく全国の営業所も含めて、午前8時半より全従業員による礼拝から始まる。創業時から変わらない。讃美歌を歌って聖書を読み、祈りを捧げて15分ほどである。むしろクリスチャンの多くない職場であり、礼拝を強制することもしていないが、長い歴史を重ねてきて、「私たちがいまも大切にしていることです」と山村は話した。仏教の檀家に育った自らも、社長に就いた翌年の2012年のクリスマスに洗礼を受けた。

「変わったといえば週末に必ず教会へ行って牧師先生のお話を聞くようになったことくらいでしょうか。時々の自分の悩みに答えが見えてきたり、来週もがんばろうと思ったりするようになった、というのが洗礼から10年を経て感じることですね」

「三方よし」発祥の地

本社のすぐそばに、県立八幡商業高校がある。1886(明治19)年に滋賀県商業学校として創立され、日本で最も歴史ある公立商業高校の一つに挙げられる。評論家の大宅壮一が「近江商人の士官学校」と高評したことでつとに知られ、ワコールを創業した塚本幸一をはじめ、伊藤忠商事の2代目伊藤忠兵衛や越後正一まさかず、日本生命の川瀬源太郎ら、辣腕らつわんで轟いた経営者を輩出している。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」という商いの理想とされる考え方は、もともと近江商人から広まったと語り継がれる。日本最大の湖である琵琶湖は、県の面積の6分の1を占める。一級河川でもあり、古くから水運の要衝でもあった。県内最高峰の伊吹山は隣県の岐阜へとまたがる山地をなし、名前が表すように風とともに降雪が舞う。四季の厳しい寒暖の差は、山里への豊かな恵みともなる。農林水産業が営まれてきた一方、全国に知れ渡るような特色ある工芸品が生まれていたわけではなかったらしい。人口も多くはなく、したがって、大坂や三河、さらに江戸にも至便な地の利により、交易が盛んであった。

ガイドブックなどより、地元育ちの山村の解説は実に説得力に富む。

「人が少ないので、ここにいては小商いにとどまってしまう。だから、よそへと売りに行く。私が子どものころ、よく見聞きした近江の産品は蚊帳かやですね。蚊帳を編んで、山を越えて他国へ売りに行く。売ったお金を持ち帰って、こちらの生活に使う。そして商いを広げていくわけです」

関西地区に営業に出向いていたという山村の経験を重ね合わせ、近江商人の今昔が浮かび上がってくる。

「単に移動販売をするのではなく、物と情報が行き来するということが大切なんですね。物を売って、お金と、さらに情報を持って、とことこ歩いて帰ってくる。遠方のお客とは直接の接点のない地元の職人や生産者にも情報を伝える。よりお客の要望に沿った物をつくる。また物と情報を持って売りに行って帰ってくる。それが近江商人なんです」

「三方よし」の「世間よし」とは、売り買いの当事者以外にも何らかの幸いをもたらすことを意味する。

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近江八幡市

「青い目の近江商人」

1905(明治38)年、そうした風土を持つ地に降り立ったのがのちに「青い目の近江商人」と呼ばれることになる一人の青年である。名をウィリアム・メレル・ヴォーリズといった。米カンザス州に生まれ、建築士を志した学生時代に、YMCA(キリスト教青年会)の活動に参加する。21歳のとき、カナダで開かれた海外宣教学生ボランティア運動の世界大会に、コロラドカレッジの代表として出席した。中国でキリスト教信者が弾圧を受け、ときに虐殺されてきたと女性宣教師の報告を聞く。大きな衝撃を受けたヴォーリズは、僻地へきちでの伝道に一身を捧げようと進路を大きく変える。

YMCAの派遣により、横浜港で日本の土を踏み、24歳にして、日本語もおぼつかぬまま、県立商業学校と改称していた現在の八幡商業高校に英語教師として赴任するのである。創立から20年になろうとする県立商業で、すでに12代目の米国人教師であったというから、「士官学校」と呼ぶにふさわしい英才教育が実践されていた証左であろう。

身長160センチほどと小柄で、親しみやすい性格から、気安く「ヴォリ公」と呼ばれたりもしてすぐに生徒たちの人気者になる。英語を教えるだけでなく、聖書を傍らにキリストの教えを説くバイブル・クラスも開き、多くの参加者を集めた。

しかしながら、ただでさえ仏教徒の多い日本で、人のつながりの濃密な保守性は排他の感情ともなり、「切支丹キリシタン」、「耶蘇教ヤソキョウ」と侮蔑ぶべつのつぶてが投げつけられもした。生徒たちには慕われたが、わずか2年で教師を解職される。生活の資を得る途を断たれたが、近江にとどまり、自給自足で伝道を継続すると決心する。覚えのある建築設計で暮らしを立てながら、伝道師をつづける構想にたどり着き、「近江ミッション」と称した。近江兄弟社のルーツである。

ヴォーリズは、信仰に基づく「人間みな平等、みな兄弟」という思想を持ち、自らと教え子たちを分け隔てることなく、公平に接するばかりか、財産をほとんど持たぬ無私の暮らしに徹した。近江兄弟社とは、そうしたヴォーリズの理念から根づいた名であると同時に、実際に苦境に立たされた彼を助け、支えた教え子たちも、兄弟といっていいほどに年齢の近い若者ばかりであったことに由来しよう。ゆえに実際の兄弟たちによって始められたのではない。

創業年といっていい1907年に近江八幡YMCA会館を手がけたことに始まり、ヴォーリズが生涯に建築設計に携わった建物は八百棟を超えるとされる。有名なところを挙げていくだけで、関西学院、明治学院礼拝堂、同志社、大丸心斎橋店、大同生命ビル、主婦の友社ビル、神戸女学院、東洋英和女学院、山の上ホテル、梨花女子大学校(韓国・ソウル)、そして八幡商業高校といった具合である。温もりと思念が伝わると形容される名建築を数多く築いてゆきながら、ヴォーリズ自身は、豪邸に住むでもなく、暮らしと活動に必要な最小限の金を受け取る質素な生活を営み、伝道の道を歩みつづけた。

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