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「米軍機撃墜の絵馬」から「教育勅語の記念碑」まで――護国神社の歩き方|辻田真佐憲

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 地方に出張したとき、筆者は各地の護国神社に立ち寄るようにしている。そこは、多種多様な記念碑の宝庫であり、戦争や地域の歴史などを考えるうえで、外すことができないスポットだからだ。多くが交通至便な場所にあり、近現代史に興味があるひとならかならずピンとくるものがあるので、史跡めぐりの初歩としてもおすすめできる。

 境内では、できるだけ時間を使い、隅々まで散策するのがよい。思わぬ発見があったりする。たとえば、松江護国神社の絵馬掛け所。国宝・松江城の真北にあり、観光客も多いこの神社では、絵馬のイラストが一部、米軍機の撃墜シーンなのである。

 さっそうと飛ぶ日本軍の双発機。後方で煙を引く米軍機。まるで戦時下の戦争画だ。イラストには何パターンかあり、日本軍の飛行機が軍艦に肉薄せんとするものもある。すべて「至誠」の文字と、海法一夫の筆名が入っている。

(1)松江護国神社の絵馬(2020年11月撮影)

松江護国神社の絵馬(2020年11月撮影)

 幸いにして、終戦記念日の靖国神社のように、「敵国降伏」や「全弾命中」といった物騒な祈願はなかった。ただ、志望校合格や健康長寿を願うにしても、ひとびとはこの裏面のイラストに何を思うのだろうか。そもそも、日本軍は対米戦で負けたはずなのだが……。

 松江護国神社は、「皇軍大勝利祈願」にちなんで、個人や団体の大勝利祈願祭を行っている(山中浩市『全国護国神社巡拝ガイドブック』)。そのため参道には、黒地に「大勝利祈願」と赤く染め抜いた幟がびっしり。絵馬も「大勝利」とだけ書いたものが少なくない。

 そんななかに、「光復香港、時代革命」の文字があった。香港民主化運動のスローガンだ。西日本の主だった神社では、最近、この文字を記した絵馬をよく見かける。香港からの観光客によるものだろうが、香港は「皇軍」にも占領されている。その解放をここで祈っていいものなのかどうか、しばし考え込んでしまった。

 ここまで強烈な絵馬は珍しいが、彫像や記念碑ならば、護国神社はインパクトのオンパレードである。

 静岡県護国神社境内の、市川紀元二中尉の銅像を知っているだろうか。市川は静岡県磐田市出身、一高、東大電気工学科を出て、京浜電鉄の技術部長を務めていたが、日露戦争の勃発に臨み志願して出征、1905年3月、奉天会戦で戦死した。この抜刀姿の銅像は、その武勲を称えるため東大構内に建てられたもので、第二次大戦下の金属供出もまぬかれ、戦後、ここに移設されたものなのである。筆者は、この人物自体知らなかったので、はじめてみたとき「へえ」と感心した。

 もちろん、護国神社内の記念碑は、第二次大戦後の慰霊碑の類が圧倒的に多い。だけれども、それらはあまりにも多いので感覚が麻痺してしまい、例外的なもののほうが印象に残りやすい。熊本県護国神社の教育勅語記念碑もそのひとつだった。

 問題の記念碑は、鳥居をくぐってすぐ左、熊本県英霊顕彰館の脇に立っている。土台の上に、鏡面のように磨き上げられた黒石のプレートが掲げられ、そこに菊の御紋と教育勅語の原文が金色鮮やかに刻まれている。平成初期に建てられたもので、まだ真新しく、傷一つない。

(2)熊本県護国神社の教育勅語記念碑(2019年10月撮影)

熊本県護国神社の教育勅語記念碑(2019年10月撮影)

 なぜ熊本県に教育勅語なのか。その理由は、黒石プレートの両脇に、まるで教育勅語を支えるように配されたレリーフをみればわかる。ひとりは、法制官僚の井上毅。もうひとりは、明治天皇の侍講の元田永孚。この両人こそ、教育勅語の起草者であり、また熊本県の出身者なのである。

 ここまではまあよい。ずっこけるのは、記念碑のすぐ右隣に、「教育勅語の口語文訳(国民道徳協会訳文)」の案内板が設置されていることだ。これは、第一次池田勇人内閣の官房副長官などを務めた、佐々木盛雄によって作られたものだが、教育勅語を戦後社会に普及させるため、意図的に天皇の存在をぼかしている(「皇祖皇宗」が「私達の祖先」となっている!)として、つとに評判が悪い。そんなものを、よりによって、井上や元田の隣におくとは。ふたりがこれを見たら、怒り出すのではないだろうか。

 ところで、護国神社とはなんだろうか。よく誤解されているように、それは靖国神社の分社ではない。その起源は幕末以降、戦没者の慰霊顕彰のため、各地に設けられた招魂社に求められる。靖国神社も、1879年までは東京招魂社という名称だった。

 各地の招魂社は、軍国日本において重要な存在であったにもかかわらず、曖昧な位置づけのまま置かれた。そのため内務省は、1939年に省令を発し、全国の招魂社を護国神社と改称した上で、各県を代表する「指定護国神社」と、それ以外の「指定外護国神社」に分類した。そしてそのうち前者は、原則として一県一社とし、県名を冠せることとなった。

 といっても、護国神社はもともと中央集権的な仕組みでなく、例外が多数あった。松江護国神社のように、県名を冠さない「指定護国神社」の例もあれば、熊本県護国神社のように、戦後になってようやく「指定護国神社」に相当する神社が創建された例もあった。

 いや、それどころか、靖国神社を擁する東京都を除けば、今日にいたるまで護国神社をもたない県さえ存在するのである。神奈川県がそれにほかならない。

 もとより神奈川県も、護国神社を横浜市神奈川区に整備しようとはした。ただ、場所の選定や用地の買収などで時間を使い、終戦に間に合わなかっただけでなく、建設中の神社も空襲で失ってしまった。

 結局、その土地は戦後、横浜市に売却され、三ツ沢公園として整備された。公式サイトに「昭和24(1949)年に公開され、国体やオリンピック東京大会の会場としても使用された歴史ある運動公園」とあるように、現在ではスポーツの場所として知られている。

 神社の跡地に足を運んでみる。すると、まるでそれを補うように、横浜市戦没者慰霊塔(1953年)が立っている。とはいえ、それはあくまで横浜市のもの。白い2本の塔は、いかにも無宗教的で(左の塔だけ上部が崩れているのは、先の大戦の犠牲や破壊をあらわしているらしい)、指摘されなければ、ここが護国神社の予定地だったとはわからない。

(3)三ツ沢公園の横浜市戦没者慰霊塔(2020年11月撮影)

三ツ沢公園の横浜市戦没者慰霊塔(2020年11月撮影)

 何を隠そう、筆者も学生時代、6年にわたって神奈川区に住んでいたが、この場所のことを考えたことがなかった。護国神社を意識することで、思わぬ近現代史の痕跡を発見できる。その愉しみは、ふしぎな記念碑との邂逅だけではないのである。

(連載第28回)
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■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。
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