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「『聖』と『俗』の天皇論」保阪正康 日本の地下水脈20

「聖」は「俗」とは交わらない。だからこそ天皇は日本人に必要な存在であったのだが……。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

私たちは決断を迫られる

昨年末、安定的な皇位継承のあり方などを議論してきた政府の有識者会議が最終的な報告書をまとめた。皇族数を確保する方法として、(1)女性皇族が結婚後も皇室に残る、(2)旧皇族の男系男子を養子に迎える、の2案が盛り込まれた。皇位継承の議論については「機が熟していない」として触れていないが、男系男子の皇統を最優先すべきなのか、それにこだわらず天皇制を守るべきなのか――そう遠くない将来、私たちは決断を迫られることになる。

ただ、報道機関による世論調査の結果を見ると、有識者会議が出した2案にはそれぞれ無視できない割合の反対があり、皇室をめぐる世論は分断していることが窺える。

太古から現在に至るまで、さまざまな権力者が日本の実権を握った。古代には藤原摂関家、中世から近世には武家、そして近代は軍部であった。1つの権力システムが継続するのは、最も長い江戸時代の幕藩体制でも260余年でしかなかった。そんな権力者たちの栄枯盛衰を横目で見ながら、皇室は「権威」として存続し続けた。

なぜ皇室は続いてきたのか。そのひとつの理由として、皇室が「聖なるもの」の地下水脈を体現した存在であったことが認められる。権力者や庶民は生活のしがらみの中で、ときには俗悪な行為に手を染めなければならない。一方、皇室は、社会関係、生産関係、経済関係を持たないという特徴がある。日本人はそこに「聖」なるものを見出してきた。

「聖」が存在することによって、われわれ「俗」の側は、比較対象としてひとつの価値観を持てる。それは「俗」が自省する際の尺度になり、俗が暴走しないよう歯止めとなりうる。その「聖」なる部分を、日本人は天皇に仮託してきたのである。

「聖」の地下水脈は「俗」とは決して交わらない。だからこそ、天皇制が成り立ってきた。それは階級や支配関係とは関係なく、権力とは別次元の存在であった。

ところが今、「聖」と「俗」の関係性が危機に瀕しているように見える。さらに秋篠宮の長女・小室眞子さんの結婚問題によって、この問題がより露わになっている。

私たちは皇室にどのように向き合うべきなのか? この問題を考える出発点として、まずは近代の天皇制の原点を振り返ってみたい。

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小室圭・眞子夫妻

民族のアイデンティティー

鎌倉時代から江戸時代まで、日本の実質的な最高権力者は幕府の征夷大将軍であった。征夷大将軍は平安時代の律令体制によって創られた官職で、形式的には天皇が宣下(任命)していたが、実際に将軍職を決めるのは幕府であり、政治権力も幕府が握っていた。天皇は権力の蚊帳の外に存在したのである。

やがて江戸中期に国学が花開くと、天皇崇拝は形而上的な世界で広まっていった。たとえば本居宣長や平田篤胤らによる復古神道や、朱子学の影響を受けて尊王思想を研ぎ澄ませていった水戸学は、その典型である。これらの思想は幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

権力を持たない天皇が日本国民のアイデンティティーの拠り所となった背景には、18世紀後半から外国の手が日本に伸びてきたことがある。民族のアイデンティティーは、他民族と直面した時に強く意識される。外国にはない文化と歴史を模索する中で、日本人は天皇の重要性を再発見したのである。

開国の過程で、天皇は現実政治の立役者として登場した。アメリカから開国を迫られた幕府は抗しきれず、勅許を引き出そうとしたが、孝明天皇は頑として拒否。それでも幕府は開国を断行してしまった。

すると、欧米列強の傲慢な態度に業を煮やしていた尊王攘夷の志士たちは幕府に見切りをつけ、朝廷に期待を寄せた。誤解されがちだが、尊王攘夷論者=倒幕論者ではなかった。朝廷と幕府が協力して国難を乗り越えるべきだという公武合体論者もいた。しかし幕府による朝廷無視と弱腰外交は、尊王攘夷の志士たちを討幕側に追いやる形になった。結果として、孝明天皇がそれを意識したかどうかは別としても、朝廷が権力を担うようになったのである。

もっとも、倒幕を目指す志士たちがいずれも純粋な尊王主義者だったわけではない。天皇のことを「ぎょく」と呼び、「玉を握った方が勝ちだ」という認識の者も多くいた。実際、天皇の「錦の御旗」としての力は絶大であった。薩摩藩と長州藩は天皇を擁して官軍となり、軍事的に優位にあった幕府軍を鳥羽・伏見の戦いで撃破。その後の旧幕府軍側との内乱さえも1年あまりで鎮圧した。こうしてみると、明治維新とは一種の「暴力革命」であり、天皇はそれに利用されたとみることができる。

倒幕には成功したものの、欧米列強と対峙できる近代国家を作るには、軍備の充実、税制や法の整備、殖産興業などを進めなければならない。それには藩の支配を解体し、中央集権体制を整える必要がある。そのために明治新政府が利用したのが天皇であった。

天皇による支配を正当化するために、「万世一系」と天皇が神の末裔であるという点を強調する必要があった。そこで『古事記』と『日本書紀』が伝える神話を「事実」として定着させるため、天皇神格化の流れを作ったのである。

「聖」なるものを体現した存在

さて、本連載で繰り返し述べてきたことだが、明治維新後の日本が採りえた選択肢として「5つの国家像」があったと私は考えている。(1)欧米型の帝国主義国家、(2)道義的帝国主義国家、(3)自由民権主義を軸とした民権国家、(4)アメリカ型の連邦制国家、(5)攘夷を貫く小日本主義の国家、である。

ただ、日本がどの国家像を選択したとしても、天皇を中心とするシステムは生き残っただろうと私は考えている。なぜなら日本人にとって、天皇は「聖」なるものを体現した存在だからである。

たとえば、福沢諭吉とその高弟ら慶応義塾関係者によって設立された社交クラブ「交詢社」は明治14(1881)年、「私擬憲法案」を提案したが、そこにも天皇を「聖」なるものとする観念が窺える。

交詢社は議会の権限が強いイギリス型の国家モデルを模索していた。私擬憲法案は、天皇の大権にも議会による一定のチェックが利く仕組みを提唱していた。一方、明治新政府は、議会の権能が弱く皇帝の権限が強いドイツ型の憲法制定を目論んでいた。そのため明治新政府にとって、交詢社による私擬憲法案と、その人脈に連なる大隈重信らは目障りな存在であった。それが「明治14年の政変」の下地となってゆく。

ともあれ、そんな開明的な志向が強い交詢社の私擬憲法案でさえ、「天皇ハ聖神ニシテ犯ス可ラサルモノトス、政務ノ責ハ宰相之ニ当ル」と指摘していることに注目したい。徹底的な現実主義者であった福沢の弟子たちも、天皇が「聖」なるものを体現した存在であり、だからこそ日本にとって必要だと認識していたのである。

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福沢諭吉

福沢諭吉の「帝室論」

もっとも、「ありえた5つの国家像」の中で、実際に天皇を制度化し、どのように機能させてゆくかについては、国家像同様にいくつかの可能性があったと私は考えている。明治維新後は王政復古による天皇親政を目指す動きもあったが、これは初期の段階で頓挫した。そして明治22(1889)年に公布された大日本帝国憲法の中で、天皇は立憲君主として存在し、現実の政治は臣下が担当することになった。だが、それ以外にもさまざまな可能性があったということだ。

その可能性のひとつが、福沢諭吉の「帝室論」にみられる。明治15年に発表されたこの論文では、「あり得たかも知れない天皇制」を示しているように思われる。以下、詳しく見ていこう。

福沢は本文冒頭でこう言う。

「帝室は政治社外のものなり。いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らずとの事は、我輩の持論」

時は西南戦争から5年。政府への大規模な反乱の可能性はなくなったものの、政情はいまだ不安定で、前年の「明治14年の政変」など、権力闘争が続いていた。また藩閥政府の専制を激しく批判する自由民権運動が高揚し、政府にとって無視できない勢力となっていた。そうした中で、福沢はいきなり「皇室は政治の現場から独立した地位にあるものである」と断言したのである。

明治14年の政変の後、政府は明治23年の国会開設を約束した。これを受けて福沢は言う。

「去年10月国会開設の命ありしより、世上にも政党を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲国会政党の風に一変することならん」

福沢は実際に国会が開設されるより以前に、政党と議会が将来重要な政治的役割を果たすことを見越していたのだ。

「俗」に交わることへの危惧

当時、福沢が最も憂慮していたのは、皇室のあり方であった。

「此時節に当て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り」

なぜか。

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