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保阪正康 日本の地下水脈(27)

「ポスト安倍」時代に知っておきたい。アメリカの本質とは?/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

「この国をどのように守るのか?」

安倍晋三元首相の「国葬」が、国論を二分するなかで行われた。これによって、安倍元首相の時代にひと区切りがつき、これから日本の政治は「ポスト安倍時代」に入る。

だがポスト安倍時代に入ったにせよ、日本の安全保障をどうするのかという根本的な課題は変わらない。ロシアがウクライナに侵攻を開始してから7カ月が過ぎたが、いまだ収束の道筋は見えず、日本とロシアの関係は悪化している。台湾周辺では、中国が軍事演習を執拗に繰り返し、尖閣諸島周辺での威嚇・挑発行為も止んでいない。さらに北朝鮮は核兵器開発とミサイル発射実験を繰り返している。

こうした状況を受け、安倍元首相はアメリカとの協調を重視し、日米同盟の強化に尽力してきた。だが、それは「対米従属」と揶揄されても仕方のないほど、アメリカ一辺倒であった。安倍政権発足後、アメリカからの高額武器購入額は急激に上昇した。アメリカ政府の対外有償軍事援助(FMS)での兵器購入額は、安倍政権発足前の2011年に約600億円であったのが、2015年以降は約4000億円~7000億円のレベルにまで増えている。さらに安倍元首相は実質数兆円にも上るとされる「陸上イージス」の導入を検討したり、米軍と核兵器を共有する「核シェア論」を提唱してもいた。

安倍時代の安全保障構想からは、日本独自の軍事哲学は見えてこない。現在GDP比1%程度に収まっている防衛費を2%程度に倍増させるべきだという論や、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保持を求める論は、安倍時代に高まった。だが、「この国をどのように守るのか?」という軍事哲学が見事なまでに欠けている。結局のところ、安倍時代の安全保障政策とは「アメリカ頼み」でしかなかったのである。

しかも皮肉なことに、日本はアメリカ頼みでありながら、明治維新から現在に至るまで、アメリカの軍事哲学から学ぼうとはしてこなかったのが歴史的経緯といえる。

なぜ日本はアメリカの軍事哲学を学ばなかったのか? ポスト安倍時代の安全保障を考えるためのヒントとして、今回はその点を考えてみたい。

フランスの軍制を導入した幕府

明治6(1873)年に徴兵令が敷かれた後、明治新政府はまず天皇を守るための近衛師団作りに着手した。長州、薩摩の下級武士を揃え、軍隊の編制について試行錯誤を行ううちに、新政府は「海主陸従」、すなわち海軍の整備が優先で陸軍はその次という大方針を選択するに至った。日本は四方を海に囲まれているが、海軍の近代化が列強に比べて著しく遅れていた。また陸軍については、明治新政府には海外に兵を送る発想がなかったため、あくまでも敵が上陸してきた場合の迎撃が主な任務と想定されていた。当時は薩摩出身者が海軍の要職を占め、長州出身者は陸軍を押さえていた。

ところが、ほどなくして海主陸従の構図は逆転する。明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などを経て、地上戦の重要性が増し、陸軍の発言力も強くなったのである。薩長の権力闘争がここにも作用し、西南戦争や明治11年の大久保利通暗殺などで薩摩側の勢力に翳りが見え出すと、長州の山縣有朋らが陸軍を牛耳るようになる。

ここで問題になるのは、どの国の陸軍のモデルを採用するかということである。陸軍については、明治政府は当初フランスの兵制を取り入れようとした。幕末期の幕府が仏陸軍の強い影響を受けていたからだ。

19世紀後半、幕府は士官をフランスから招き、陸軍の整備を進めるため、フランス公使レオン・ロッシュの協力を得た。慶応2(1866)年、幕府の要請を受けたフランス政府は、ジュール・ブリュネ砲兵中尉ら軍事顧問団を日本に派遣した。これを受け、幕府陸軍は仏式の訓練を重ねた。戊辰戦争が始まると、ブリュネら仏士官は榎本武揚率いる旧幕府軍とともに箱館、五稜郭に入り軍事顧問として従軍した。

明治2年に旧幕府軍は降伏するが、ブリュネらは箱館港に停泊していた仏軍艦で脱出、本国に戻った。ブリュネは罰せられることなく軍に復帰し、明治3~4年の普仏戦争でプロイセンと戦った。フランスはこの戦争で敗れ、ブリュネはナポレオン3世らとともに捕虜になる。だが、その後もブリュネは仏陸軍の中枢を歩み、明治31年には陸軍参謀総長にまで登りつめている。

明治15年には陸軍大学校が設置されたが、当初はフランス式兵制を土台とすべく、フランスから軍人を招いた。そこで教えられたのはナポレオンの戦略だった。

陸軍大学校を変えたメッケル

ところが共和制のフランスの軍事は、天皇制の日本には合わないことが徐々に分かってきた。また、普仏戦争でフランスを破ったプロイセンが欧州の新興勢力として台頭してきた。しかもプロイセンの軍事は「皇帝の軍隊」を志向していた。日本政府はこの点に着目して、プロイセンを中心とするドイツの新しい兵制を取り入れようとの動きが加速する。

明治18年、ドイツ陸軍のクレメンス・メッケル参謀少佐が来日した。メッケルは、参謀総長としてドイツ陸軍の基礎を築いたヘルムート・フォン・モルトケの薫陶を受けた人物である。日本滞在3年間で陸大の教育課程を仏式から独式に改革したメッケルは、戦術ノウハウを惜しみなく日本に伝授した。ただ、メッケルが日本に伝授したのは「この地形ではこう戦え」「敵がこう出てきたらこのように叩け」といった戦術面に特化したノウハウで、長期的な国防計画や軍事哲学ではなかった。

メッケルの教育の効果は、すぐに現れた。日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37~38年)で日本は勝利をおさめる。この成功体験で、ドイツ式軍制への信頼が強固になった。メッケルが基礎を作った陸大の教育課程は、昭和20年の敗戦まで継承された。

陸大1期生は明治18年に10人が卒業したが、首席は東條英教であった。東條英機の父親である。英教は反骨精神の持ち主で、藩閥政治の弊害を公言し、長州閥打倒を訴えていた。そのため山縣に嫌われ、首席でありながら出世はかなわず、不遇だった。のちに東條英機が陸軍幼年学校に進んだ時、山縣の子分格である寺内正毅が講演に来たことがあった。長州閥のせいで父親が不遇だった英機は、寺内を「憎々しげにじっと見ていた」という証言が残っている。そんな英機が日本を破滅的な敗戦へ導いていくのは、歴史の皮肉である。

東條英機 トリム前

東條英機

文民統制が馴染まなかった藩閥政治

ここで考えたいのは、なぜ日本が近代軍制のモデル国家としてアメリカに目を向けなかったのか、という点である。

日本の近代は、アメリカの外圧によって始まった。嘉永6(1853)年、ペリーが率いた米東インド艦隊が江戸に近い浦賀に来航した。最新の軍事力である「蒸気船」は軍事面で日本に大きな衝撃を与えた。アメリカは圧倒的な武力によって江戸幕府に開国を迫り、幕府はこれに屈し、翌年「日米和親条約」を締結した。

砲艦外交で開国させられた日本だが、開国直後、明治新政府は新たな国造りのモデルとして、アメリカに学ぼうとした。明治4年11月、岩倉使節団が最初に向かったのはアメリカだった。アメリカではその6年前まで、4年にわたって南北戦争が続いていた。長期間の内戦は、兵器と戦術における進歩を促した。北軍は当時の地上戦における最新の戦術を採用し、勝利を収めた。

ところが、明治新政府はそのアメリカの兵制を採用しなかった。大きな要因の一つは、新政府が新たな国家像として、欧米列強に倣う帝国主義国家を採用したことにある。

本連載で何度も指摘してきたことだが、明治維新後の日本が採りえた国のかたちとして、5つの国家像があった。(1)欧米列強に倣う帝国主義国家、(2)欧米とは異なる道義的帝国主義国家、(3)自由民権を軸にした民権国家、(4)アメリカに倣う連邦制国家、(5)攘夷を貫く小日本国家、である。このうち日本は(1)の欧米列強に倣う帝国主義国家の道を選択したわけだが、とりわけモデルとしたのは欧州の新興国家として勢いがあったドイツである。

日本が(4)のアメリカ型の連邦制国家を採らなかったのは、おもに文化の違いや国土の広さの違いなどのためだった。さらに軍の在り方もその一因だったのではないかと考えられる。初代大統領ジョージ・ワシントンは、独裁政治を廃し、三権分立にこだわった。そのため、アメリカでは軍隊機構が政治に従属する文民統制(シビリアン・コントロール)が徹底していた。アメリカン・デモクラシーならではの軍事機構であるともいえる。

一方、当時の日本は、事情が違った。薩長出身者を中心とする明治新政府のリーダーたちは、維新という暴力革命によって権力を獲得した。維新後も、西南戦争や竹橋事件などを経験する中で、暴力装置を持つことの重要性を痛感していた。藩閥政治への反発が高まり、自由民権運動が高揚し政党が次々と結成されると、薩長出身者は「今度は自分たちが暴力革命の対象になるのではないか」との恐怖感を抱くようになった。シビリアン・コントロールからは程遠い事情があったのである。

薩長出身者らは、軍を政党から切り離すために力を注いだ。それがわかりやすいかたちで現れたのが、山縣が主導した「軍人勅諭」であった。

これによって、軍は大元帥である天皇に直属することとなり、軍の編制や作戦には、首相といえども口出しできなかった。口出ししようとすると、「統帥権干犯」という、政治生命を絶たれかねないレッテルを貼られてしまう。軍は統帥権干犯を盾に、文民統制から離れて好き放題できる余地を得たのである。それは帝国憲法ができた後も継続された。

アメリカ式文民統制の非情さ

一方で、アメリカのシビリアン・コントロールは、政治と軍事の微妙な意見の違いを生じさせることにもなった。

昭和16年12月、日本海軍のハワイ真珠湾奇襲によって太平洋戦争が始まった直後、フランクリン・ルーズベルト大統領が「日本やドイツはもう2度とわれわれに逆らわない国家にする」と、両国が無条件降伏するまで戦う意志を表明したことは、本連載でも触れた。

しかし、米軍人の中には反対意見もあった。それは「相手を抹殺するまで戦うということは、アメリカ側の犠牲も相当大きくなる。相手を100人殺すために味方が80人戦死してもよいのか」という論である。

現代でも言えることなのだが、戦争の本質をよく知悉している軍人ほど、無用な戦いを避けたがる傾向がある。たとえば、2つの国が激しく対立し、両国の政治家たちが好戦的になっていても、制服の軍人同士は戦争回避を志向するということがままある。戦争になったら真っ先に死ぬのが自分たちであることを、教訓として知っているからだ。

米軍幹部の中には、武力一辺倒で敵を叩くよりも、相手国内にいる反対勢力を利用するべきだという考えもあった。ドイツでは、必ず反ヒトラー勢力が誕生してくる。それを支援してヒトラーを除くほうが、確実かつ被害が少なくて勝利できるという目論見だ。敗戦後の国際秩序も見据えて、完膚なきまでドイツや日本を叩くのは得策ではないという意見である。

しかし、結果として軍事は政治の判断に従った。ドイツは徹底的に破壊され、連合国に占領された。日本は敗戦確実だったのに、あえて2発の原爆を落とした。シビリアン・コントロールの非情な側面ともいえるが、アメリカは一個の確立した軍事哲学を貫徹してきたのである。

ルーズベルト

フランクリン・ルーズベルト

石原莞爾の軍事哲学

では日本の軍事はどうだったか。統帥権の名の下に、軍事は天皇に従属した。だが、そこには確固たる軍事哲学はなかった。「天皇の軍隊」の看板を利用して、軍事は政治に口を出し、むしろ政治を従属させた。

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