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“権力のブラックホール”二階俊博「最後のキングメーカー」の研究

生い立ちからの歩みを丹念に取材し、鋭い政局勘、政敵とも話ができる老獪さ、すべてを飲み込んでしまう怪物幹事長の正体に迫ったレポート。/文・広野真嗣(ノンフィクション作家)

<この記事のポイント>
●二階氏本人は「自分は“たたき上げ”ではない。政治の本筋を歩いてきたという自負がある」と語る
●周囲に評判を聞くと、きまって「気配りの人」という声が返ってくる
●だが、ここ数年、「二階王国」とも呼ばれる地元では、有権者の“冷ややかな反応”が目立つ

挙動で政局を動かした

紀の川中流の小さな町に暮らす元和歌山県議会議長、門三佐博(かどみさひろ)(84)の携帯に二階俊博(81)からの着信があったのは、幹事長再任が決まった3日後の9月18日のことだ。

「俺の仕事は終わった」

二階は門にそう告げたという。

「確かに今回のことがよ、再任につながったとは思うんや。でも二階さんは『俺は何にもそうしてくれなんて言ったことはない』と言うとった」

門が言う「今回のこと」とは、安倍晋三総理退陣から菅義偉内閣発足への流れを、ほぼ2日で決してしまった二階の“早業”のことだ。

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菅義偉総理

二階側近の幹事長代理、林幹雄は「早かった。政治勘というんですかね」と振り返る。林によれば、二階にスイッチが入った瞬間は、退陣表明があった翌8月29日午後2時頃。国対委員長の森山裕を通じて菅からのアポ電がかかってきた時だ。

その晩、菅の総裁選出馬の意思を確認した二階は翌日、派閥所属の衆参両院議員48人に連判署名させた。最大派閥の細田派、第2派閥の麻生、竹下両派が揃って支持表明したのは3日後の9月2日。第4派閥の領袖にすぎない二階がキングメーカーぶりを見せつけた。

二階とは30年以上の交流をもつ元幹事長の古賀誠は「政局には勝機をつかむ一瞬がある。それをとらえる力で二階さんに勝る人はいない」と断言する。

二階の幹事長就任は2016年8月。以降の4年あまりを振り返ると、総裁任期延長、30万円給付の撤回など、二階の挙動によって政局が動いてきたと言ってもよい。

戦略なのか、勘なのか。普段は凡庸な老人にしか見えないのに、スイッチが入った時の読みの鋭さと動きの速さは尋常ではない。二階俊博とは、いったいどんな人物なのか。

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二階氏

敗戦と父の公職追放

戦前に木造船会社を起こした父・俊太郎と、保健師だった母・菊枝の間に二階が生まれたのは、昭和14年のことだ。人生で初めて向き合った苦い体験――それは敗戦だった。訥弁の二階が語り始めた。

「敗戦の日は、小学1年の8月ですよ。小学生だから敗戦がどういうことかわからないけれど、周囲の大人たちの様子を見て、何かよからぬことが起こったんだなと思ったことは覚えているよね。日本ではよく終戦というが、敗戦といった方が、心が整理される。日本国が、国民が反省しなければいかん点はどこにあったのかを問いかけてみる必要がある」

より心に深い印象を残したのは、父の公職追放だという。

「親父の会社は近畿でも一番大きい会社だったんだ。県会議員に出たが、推されて村長もしていた。その兼務が祟ってね。当時の村長というのは今でいう自民党の支部長みたいな仕事をやる。それが公職追放の対象にひっかかるわけだ。一切の公職から追放された。俺はそれを聞いて、格子なき牢獄につながれているようなものだと思った。PTAの会合も出られないんだ。ひどい? 当時は誰もそんなことを言ってはくれない。やっているのは進駐軍、マッカーサーだから」

やや投げやりな語尾に、子供の頃の心象がにじむ。

和歌山県御坊市中心部は本願寺日高別院を中心に、江戸時代の面影を残す町家が並ぶ。寺の門のはす向かいに、二階が十代の頃を過ごしたという木造二階建ての家が建つ。

地元には戦前、貧しさから移民を北米に送り出した集落があった。

「通称アメリカ村といっていました。戦後、移民したアメリカから服や何かを送ってくる。今でこそ日本もかなり派手になってきたけど、あの頃、日本人の着ている服の色彩と、アメリカから送ってくるものの色彩は違うから、着て歩いているとすぐ判る。それを称して『アメリカさんだ』と言ったものだね」

地元の高校を出た二階は、父の母校でもある中央大に進学するため上京。卒業後、静岡県選出の衆議院議員、遠藤三郎の秘書を11年にわたってつとめた。遠藤は建設大臣経験者だ。政界に進んだ動機を、二階はこう振り返る。

「我々は開発発展の遅れている地域の出身ですからね。それが政界へ進出する原点です。いかにも国土の均衡ある発展がなされてないではないかという、激しい怒りにも似た気持ちがありましたから」

「たたき上げ」ではないとの自負

よく「たたき上げ」と言われる二階だが、自身のキャリアへの自負は強烈だった。独自の政局勘をどこで培ったか、と尋ねた時、ひときわ語気を強めて、こう言い放った。

「私は、大学を出た翌日から国会議員の秘書ですよ。11年間代議士の秘書をやって県議を8年やって、国政へチャレンジしてきた。その政治訓練の実績です。これは聞かれたから初めて言うが、そんなこと自分で誇るべきことでもなんでもない。でも、同じようなコースを歩んできた人を“秘書上がり”だとか、“たたき上げ”とか生意気なことを言うやつがいる。お前は何アゲだ。唐揚げとは言わんが、何で俺だけ“たたき上げ”なんだ。俺は、政治学の本筋をずっとやってきたんだ」

実際、和歌山に戻った二階は、選挙も議会も、めっぽう強かった。

父の地盤を受け継ぐ形で1975年4月、36歳で県議選に初出馬。そこで人生最大の試練が待ち受けていた。「相手は、私さえいなければ終生県議だったはず」と二階が振り返るその選挙の対立候補は、政界復帰した父を引退に追い込んだ、25歳も年上のベテラン現職県議だった。しかし二階は実に110票の僅差で競り勝ち、父の仇をとったのだ。

この時、保守系の初当選組10人で、清新クラブという会派を結成した。その同期組の一人が、前出の門三佐博だ。門の証言を引こう。

「保守系の先輩らはボスの派と反対派で14、5人ずつに分裂して議長ポストを奪い合った。僕らはどちらからも『きてくれ』と言われてな。巻き込まれまいと集まった」

当時、県議会の定数は46。二階ら10人は、キャスティングボートを握った。この頃から門は「二階さんは生まれながらの政治家。人と付き合うのが抜群に上手い」と、3つ下の二階に一目置くようになる。

「社会党や公明党と一緒に6派連合を作った。二階さんは共産党の連中までひっぱってきた。それでこっちが議長も副議長も取れる過半数まできたら、先輩らはびくびくしとった」

「知事が2人いる」と評されたほどの県議会のドン、妙中正一から「議長、副議長さえ渡すなら委員長ポストは好きにしろ」と口説かれた。

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門三佐博氏

発展から取り残された怒り

ただ、二階は単なる喧嘩上手ではなかった。その先を見据えていた。

県議当選の3年前、二階が後に政治の師と仰ぐことになる田中角栄が「日本列島改造論」(72年)を出版していた。その序文に角栄は「巨大都市は過密のルツボで病み(略)農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている」と危機感を表し、「都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる」と打ち出した。その具体的な方策が、新幹線や高速道路だった。新幹線は北海道の稚内や網走、九州と四国を結ぶ路線も描いた。高速道路では本州と四国の間に3つの架橋ルートが示されている。

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田中角栄

その政策のダイナミズムを静岡で見て知っていたのが、二階だった。

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