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山内昌之「将軍の世紀」 「みよさし」と王政復古の間(3)口向役人不正事件と天明京都大火

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週火曜日に配信します。

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 光格天皇が即位するまで、京都の朝廷は江戸の幕府に対してあれこれの希望を出すのを控え、あからさまに不平や愚痴を漏らすことはなかった。具体的な不満はよほどでなければ明言せず、何一つ希望の道筋を示すこともなかったのは品格というものである。プルタルコスの言葉を借りれば、「ランプの芯は切るが、油を注さない人たちに似ている」のではなかったろうか(『モラリア』9)。光格天皇は、九歳で傍系の閑院宮家から入っただけに、自らの地位を堅固な土台に造りかえる必要があった。同時に天皇らしい理念と抱負を語る人になっていく。その予兆は天明七年六月七日に始まる「御所千度参り」である。京都はじめ上方の庶民がピークでは一日七万人も御所の築地塀を回って歩いた事件だから只事ではない。

 彼らは天明大飢饉と米価高騰による生活不安の解消を願って、天皇を神仏のように崇め社会の安定を祈ったであろう。天皇は関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)に再三指示して、武家伝奏に京都所司代の戸田因幡守忠寛(ただとお)と窮民救済について折衝するように命じた。関白も所司代も前例のない天皇の動きに驚いたであろう。窮民対策は幕府政治の領域そのものであり、幕府の政治向きに天皇が干渉する行為に他ならないからだ(藤田覚『近世政治史と天皇』『幕末の天皇』)。折から天皇は六月二十日より病に陥った。右大臣・近衛経熙(このえつねひろ)は、この日京都の天気は「快晴・盛暑・炎熱」、二十二日も「暑気不滅」と日記に記録している(『経熙公記』、『光格天皇実録』第一巻)。天皇の心痛と暑気が「不予ニ亘ラセラル」という原因だったのだろう。こうなると幕府も放置できない。結局、幕府は千五百石の救い米を放出した。光格天皇は強烈な皇統意識をもっていたが、定信は朝廷に正面から幕権と幕威に挑戦するのを許すほどやわな老中ではなかった。

 朝廷にも幕府の介入を許す弱みがあった。安永二年(一七七三)から三年にかけて、朝廷の勘定方ともいうべき口向の諸役人の不正は大きな醜聞に広がった。これは口向役人不正事件あるいは「安永の御所騒動」と呼ばれる。朝廷の財政は、旗本から任命された禁裏付武家が統括し、その下に賄頭(幕府と朝廷から一名ずつ)や勘使という役人たちがいた。事件は、禁裏付や賄頭が必ずしも江戸で勘定や支配勘定といった金融財政のプロとは限らず、在地の事情にも疎いことから生じた。不正操作のカラクリは、「御取替金」という独特な禁裏財政の裏をかく形にあった。禁裏の支出増大による手許不如意を救うために幕府は無利子で貸付をした。これは取替金と呼ばれたが、享保改革で幕府の財政に多少の余裕ができると取替金は恒常的に認められ、所司代が老中に伺わずに支出できた禁裏対策や政治工作に使われる機動的な金となった。宝暦五年(一七五五)十一月に所司代・酒井讃岐守忠用(ただもち)は桃園天皇女御(一条富子)への二百両の取替金支出を関白・一条道香から相談されたが、その財源は京都代官・小堀数馬邦直の取り扱う貸付銀の利息・銀十貫目から「御取替あいととのへ候」ということになった(『廣橋兼胤公武御用日記』六、宝暦五年十一月四日条)。  

 このように、所司代が判断運用できる京都代官はじめ幕府の在京部局の貸付金の利息、二条城にあった除料から徴収された物成の溜金銀などが取替金の原資となる。これは江戸の勘定所の把握できない出納であり、不正の温床になる余地があった。取替金は禁裏や公家への財政援助も含まれていたために、しばしば各所から無心が寄せられた。これをよいことに、口向の諸役人は不正を働いたが、遣り口はさほど手の込んだものではない。禁裏付武家の目が届かない所で取替金の一部を着服するために「購入なき品」を帳面に記すか、偽の書面で「御払銀」の一部を「掠め取り」、「奥表への納入品」を安い品にするといった粗っぽく初歩的な手口であった。天皇や関白などに関わる公用支出を背任横領していた罪は重い。所司代や禁裏付を蔑ろにし、詳細は不明ながら、幕府に「不敬」な文言を連ねた書類も残したようだ。事件前から朝廷の冗費を問題視した江戸幕府の勘定所は、物品ごとの値段をあらかじめ定める「本途直段」(ほんとねだん)を厳しく行うように改められた。江戸からは勘定組頭が京都に赴き、賄頭・勘使ら四名の死罪、遠島五名をはじめ厳しい罰が下された(佐藤雄介『近世の朝廷財政と江戸幕府』)。この役人たちは、堂上公家でなく地下官人であったが、「年来公用の金を掠め、非道の財宝を以つて、朝夕奢侈」にふけっており、公家からも「言語道断の事」であり、恥ずべき歎くべきことだと批判された(高埜利彦『近世の朝廷と宗教』)。

 いずれにせよ、口向役人不正事件は後桃園天皇と将軍・家治の時に起きたが、その清算と朝幕関係の調整は、次代の光格天皇と家斉・定信の時代に継承された。そこで起きた一大事件が応仁の乱以来といわれる京都の大火による御所の焼亡であり、その復古的造営をめぐる朝幕対立である。天明八年(一七八八)に御所と二条城を含めて千四百二十四町に延焼した京都大火は、幕府の武威に関わる大事件であった。享保七年(一七二二)二月に禁裏御所方火消の譜代四藩(淀・膳所・郡山・亀山)は、洛中の火消も命じられ京都火消役が成立していた。四藩のうち藩主在国の二藩が当番を務め、時には高槻・篠山両藩も代行を命じられた。厄介なのは、大名の火消役といえども有事に御所や二条城に入れず、「腰札」を着けて鑓を門外に置くといった京都らしい制限を課せられることだ。天明の大火では天皇が動座した聖護院では、出動した郡山藩が禁裏付武家の指示を受ける事態も発生している。とはいえ、京都火消役は家臣団と領民が日頃から京都に目を向ける負担だけでも一入(ひとしお)であった。京都火消役四藩、代行二藩が最大動員すれば、騎馬百五十騎、惣人数三千五百名ほどが京都に集結するはずであり、天明大火の場合は京都からの注進がなくても大規模に出動したに違いない。二条城の類焼防止を優先しながら火が移っただけでなく、その後火が御所に向かったために、禁裏付武家や伏見奉行の他に亀山城主・松平紀伊守信道(通)も天皇に供奉した。信道は家臣団を二条城に残したまま、天皇とともに禁裏から下鴨神社ついで聖護院に移った(藤本仁文『将軍権力と近世国家』。大田南畝「天明八年戊申正月晦日京都大火諸書書付写」『一話一言』1、巻七)。

 信道は、大火後、幕府で奏者番を経て寺社奉行に上がる定信派のホープであり、京都火消役として単騎上洛、下馬札にて火事羽織を脱ぎ馬のまま馳入(はせい)るなど幕府の武威をかざしつつ参内した話は京でも話題になった(『文恭院殿御実紀』巻四)。一方、淀・膳所・郡山藩は紫宸殿・清涼殿などの消防に当たるが、まもなく聖護院の警備に移る。朝廷の信道評価は、ともに天皇に供奉した左中将・町尻量原(まちじりかずもと)の『天明炎上記』にもうかがわれる。

「つねに防火の命を蒙ふれる、みやこちかき国々のもののふの、よせのぼりけるがなかに、丹波国亀山のなにがしは、火ありときくからに、馬にむちうち時をうつさずまうのぼれば、やがてみゆきにまいりあひて、つはものをととのへ、御うしろに非常をまもり奉る」

 とにかく天皇が火を避けて動座しようにも、鳳輦(ほうれん)や羽車(はぐるま)といった輿をかつぐ駕輿丁(かよちょう)や人足が火事で来られずに不足したか、逐電したかのせいで中々出立できなかった。結局、まず鳳輿(腰輿)、鳳輦、羽車の順序で出御したらしい。前の宝永五年(一七〇八)火災の東山天皇の時は羽車の次に御輿だったのに、この「違例はいかがなものか」と左大史・壬生(小槻)敬義(みぶ・おつきたかよし)の『敬義宿禰記』は大火災の非常時でも先例にうるさい(『光格天皇実録』第一巻所収)。

 権大納言・柳原紀光(もとみつ)の日記によれば、御所・二条城・武家役宅などに加えて、焼亡町数は千四百二十四町、外二十四個所、町家焼亡数は三万六千七百九十七軒に上り、死者は千四百十六名、行方不明者は七千余人に達した。また柳原左小弁均光(なおみつ)は「今度の騒動火災は言語に尽しがたく、前代未聞のことなり」と嘆じて、薄暮の西に火を見ながら一首を詠った。「春の日のやけののはらの夕かすみ空もけぶりの色にこがれて」(『愚紳』天明八年二月一日、二日各条、『左小弁均光記』二月一日条、『光格天皇実録』第一巻所収)。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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