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小説「観月 KANGETSU」#66 麻生幾


第66話
被疑者死亡(3)

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※本連載は第66話です。最初から読む方はこちら。

 母が七海の体をぎゅっと抱き締めた。

「私はようけあるけど、七海はまだ小さかったけん、お父さんの思い出、少ねえんちゃね……」

 母が続けた。

「でもね、いつもいつも言うちきたとおりね、お父さんね、ずっとずっと、七海んことを見守っちくれちょんちゃ」

 母が優しい口調で言ってくれた。

「そうやなあ……」

 そう言った七海も、母の腰に手を回して力強く抱き締めた。

 七海がふと首を回すと、太陽が沈んで、夜の訪れを告げる幾つもの景色が浮かんでいた。

 七海は、生前の父がいつも使っていた言葉を口にした。

「すっかり青夕方(あおゆうがた)となったね」

別府中央署

 涼は捜査本部に集まった捜査員たちを何気なくぐるっと見渡した。

 多くの捜査員の顔が今までの緊張から解放されている──涼はそう感じた。
 
 もちろん笑みを浮かべている奴はいない。

 しかし明らかに安堵する雰囲気を涼は多くの捜査員の姿から感じ取った。
 
 と同時に、被疑者死亡によって捜査本部は解散──そんな言葉さえも脳裡に浮かんだ。

「まずは、鑑識課主任、死体検案につき報告を──」

 事件捜査を指揮する植野警部が雛壇から告げた。

 制服姿の鑑識主任が勢いよく立ち上がった。

「詳しゅうは明日の司法解剖を待たなければなりませんが、検案での検死官の見立てでは、肝臓動脈損傷によっての大量出血、それによる心不全が死因とされちょります。そして、そん刃物には、田辺智之の指紋のみが遺留しており、争った形跡もなかったことから、自殺の可能性が高いとの判断がなされました。尚、直腸温度の測定からして、発見さるる30分以内に田辺智之は自傷したと考えられるという結果も出ちょります」

「わかった。で、車の所有者は?」

 植野が訊いた。

「盗難車でありました。2日前、北九州市内の駐車場から盗まれています。尚、同駐車場には防犯カメラは設置されちょりません」

 鑑識課主任が淀みなく答えた。

「車内の遺留指紋は?」

 植野がさらに尋ねた。

「幾つかの種類を検出しまして、明日、所有者周辺の指紋と照合予定です」
 
 満足そうに頷いた植野は正木と涼の2人へ視線を送った。

「現場におった、正木主任と首藤刑事、きみたちん意見を聞きたい」

 正木が肘で涼の腹を突いた。

「お前が説明しろ」

 戸惑っている涼に正木が囁いた。

「何か意見はないのか?」

 植野が急かした。

「はい、自分が報告します」

 涼が直立不動となった。

 緊張気味の涼が頭を整理しながら口を開いた。

「田辺智之は腹部に刺さった刃物を両手で握っていましたが不審な点はありませんでいた。また、現場に臨場した時、周囲には不審人物はおらず、車内にも特異な状況はありませんでした」

「よし、ごくろう。では、明日一番で、田辺智之宅のガサ(家宅捜索)に入る。その担当も含め、明日の捜査事項については、これからデスク主任と協議して伝ゆるけん、それまで、各自は報告書をまとめてくれ。では一旦解散──」

 雛壇から植野警部をはじめ、署長や管理官が立ち上がってゆく光景を見つめる涼は、彼等にしてももはや、事件は一件落着した空気を漂わせている、と思った。

 盗難にあった駐車場付近の防犯カメラの映像を集める捜査があるのだろうと思っていたが、そこまではどうもやらないらしい。

 ということからしても、植野警部は“明日の捜査事項”という言葉を口にしたが、被疑者死亡で検察庁に送検するための残務整理くらいの指示しか与えないはずだ、と涼は思った。

 多くの捜査員たちも、窓の前に立って背を伸ばしながら欠伸をしたり、何人かで談笑しあったりしている。

 敢えて言えば、まったりとした空気が漂っている、そんな感じを涼は受け取った。

「そげなことや(そういうことだ)」

 正木は涼の肩を軽くポンポンと叩いて立ち上がった。

(続く)
★第67話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。

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