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小説「観月 KANGETSU」#32 麻生幾

第32話
熊坂洋平(5)

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※本連載は第32話です。最初から読む方はこちら。

 七海は、母の、“あん人”というその言葉が引っ掛かった。

 その言葉が、自分が知らない母と熊坂さんとの関係があることを想像させたからだ。

 でもそんなことはあり得ない、とすぐに頭の中から拭い去った。

 これまでの二人の姿からは、そんな関係があると感じたことは一度としてなかったからだ。

 ただ、熊坂さんに警察が関心を持っていることに、なぜそんなに興味があるのか、それを母に聞くことがなぜかできなかった。

「まあ、そげなこつより、お腹減っちょんのやろ? お支度するわ」

 母に笑顔が戻った。

「それで、警察では涼さんも一緒におったん?」

 冷蔵庫に首を突っ込みながら母が穏やかな口調で聞いた。

「う~ん、そうなんやけど……」

 七海は曖昧に言った。頭の中はさっきの記事のことで一杯だった。

「どうかしたん?」

 母が訊いてきた。

「いや、別に……」

 七海が口ごもった。

「なんか奥歯にモノが挟まったような感じやね」

「仕事んメールを急ぎ確認せな」

 七海はそう言って廊下へ足を向けた。

「ご飯、すぐできるちゃ」

 母が声をかけた。

「5分で戻ってくるけん」

 それだけ言って七海は2階の自分の部屋に戻った。

 パソコンを立ち上げた七海は、急いでグーグル検索で、さっきのニュースを探した。

 ウチの新聞は地元の県紙だが、全国紙のニュース欄に同じ内容の記事を見つけた。

〈10月5日午前5時45分頃、東京都大田区の多摩川河川敷で、胸から血を流した男性が倒れていると通行人が110番した。男性は病院に運ばれたが、その後、死亡が確認された。警察は殺人事件と断定し、池上署に捜査本部を設置し捜査を開始した。殺されたのは、現場近くに住む、無職、真田和彦さん(69)。現場は、通称、ガス橋という名称で知られる多摩川に架かった橋の下で――〉

 大きく息を吐き出した七海は椅子の背もたれに体を預けた。
――母が涙しちょったんは、こん記事のことやろうか……。

 真田和彦……。

 七海は記憶を辿った。

 しかし、母の知り合いでも、亡くなった父の知り合いでも、すぐに思いつく人物はいなかった。

 七海は、思い出すためのヒントとなる情報をさらに得ようとして、他のニュースサイトでも同じ記事を探った。

 でも、どの記事も内容はほとんど変わらなかった。

 ふと、七海はあることに気づいた。

 母と同じくらいの年齢であることだ。

――まさか、昔、付き合っていた男性? 

 だが、七海は力なく頭を振った。

 母は、ほとんどこの大分を出たことはない。旅行でも一度も出たことがないと言っているほどだ。

 溜息をついた七海はパソコンを閉じ、1階へ戻ろうとした。

 しかし、あることに気づいてバッグからスマートフォンを取り出した。

 涼から、きっと今日のことを謝るメールが入っているはずだ。

 そういう涼の細やかな優しさと、それに甘えてきた自分がいつもいて……だからこそ、2人はいつも新鮮で……。

 七海は、エッ? という小さな驚きの声をあげた。

 涼からのメールは入っていなかった。

 七海は、冷たい風が体をすり抜けてゆく気がした。

――こげなことは初めて……。

 こんなこととは、いつも涼の優しさに包まれていた自分の存在がどこにもいない、ということだ。

 思い出せば、あの時からおかしかった。

 涼は、警察署から別府駅まで車で送ってくれたが、その間、終始無言で、最後も、気をつけて、と短い言葉を笑顔もなく投げかけるだけだった。

 しかし七海は苦笑した。

 自分たちはもはや、好きな相手の一挙一動にドキドキするような乙女や若者じゃない――。

 それでもモヤモヤした気分が残っていた七海は、それを払しょくするように急いで階段を下って行った。

(続く) 
★第33話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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