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宮本顕治と不破哲三 筆坂秀世(元日本共産党政策委員長)

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一人は党の礎を築き、一人は理屈をこねた。/文・筆坂秀世(元日本共産党政策委員長)

不破哲三の自宅を何度も訪れた

御年92で今も党常任幹部会に名を連ねる不破哲三さんの自宅は、都心から車で高速を飛ばして約1時間、丹沢の山麓にあります。不破さんが最高指導者だった2000年前後、私は判断をあおぐために何度も訪れました。

相模湖ICから山道を上がったところに大きな敷地があり、入口を入るとすぐ左手に小さな一軒家が建っています。これはたしか自宅ではなく、コックさんや運転手が寝起きする場所でした。党本部の食堂部からコックが派遣されているのです。私も何度かごちそうになりましたが、一流ホテルに勤務していた人たちですから、おいしいものがいっぱい出てきます。あとで食堂部の人が「不破さんのところに人手が取られちゃって」とぼやくのを聞きました。

夫妻(夫人は2020年に死去)が暮らしていたのは2階建ての家でこれは「豪邸」というほどではありませんが、その奥にまた別棟がある。これは趣味の郷土人形のコレクションを納めるためのもの。こけしなどがズラーッとガラスケースに納まっている。海外のものもあって1000体は下らなかったでしょう。私も北京に同行した際、不破さんとは別行動で1人で万里の長城に行きお面を買ってプレゼントしましたが、果たして飾ってくれているかどうか、わかりません(笑)。

ここを訪れた時、不破さんは生涯、党の最高幹部でいるつもりなのだろうなと思いました。なぜならあの山奥では車の送迎がなければ、暮らしていくことはできないからです。不破さんは運転免許を持っていなかったはずです。

03年に衆議院議員を退き、06年には議長も退任しましたが、今も党の日常的な指導を行なう常任幹部会にとどまり続けています。党大会での中央委員選出の投票で不信任票が多くなっているのも当然です。私は晩節を汚したと思います。

2人のカリスマ

ソビエト連邦が崩壊し、かつて隆盛を誇ったイタリアやフランスの共産党も消滅したのに、なぜ日本共産党は今も存在しているのか。そんな声も聞きます。

現在、国会議員23人、都道府県会議員は140人、市区町村議会の議員は2435人を擁しています(22年3月時点)。最盛期の1999年時点で4400人にも上っていましたが、平成の大合併で自治体数が減り、地方議員数も減りました。それでも自民党、公明党に次ぐ、第三党の規模に踏みとどまっています。

いまも一定の支持を得ている理由を解明するには、戦後の2人の指導者、宮本顕治(1908~2007)と不破哲三(1930~)の実像を知らなければなりません。

私は高卒で旧三和銀行に入ってから、「資本主義から社会主義へ、社会発展の主役は君たちだ」という小冊子の惹句に魅せられて日本民主青年同盟に加入し、その後入党しました。選挙の時期になれば、大阪の梅田駅前で必死になってビラを配りました。議員秘書を経て95年に参院比例区で初当選以来、政策委員長、書記局長代行を務め、思いがけず私自身も幹部の1人になりました。

五十数年前、入党した頃の「党の顔」といえば、宮本顕治です。

宮本顕治

宮本顕治

宮本さんは戦時中に12年間も刑務所に入れられながら完全黙秘を貫いた人物です。なんせ党員というだけで特高警察に拷問され、殺されかねない治安維持法の下、スパイ査問事件によって逮捕されても完黙を貫いた。徳田球一とか袴田里見とか、戦後返り咲いた幹部たちもしゃべっちゃっているのに、宮本さんだけは12年間、ぶちこまれても非転向を貫き通した。これが宮本さんのカリスマ性を作り上げたと思います。

もう1人の党の顔は、不破哲三。69年の衆院選に東京6区から出馬して初当選、翌年、40歳で書記局長に抜擢された時は、「共産党のプリンス」と期待を集めました。82年に委員長、00年には宮本の後を継いで議長に就いています。

とにかく頭の回転が早く、国会で対峙した佐藤栄作首相をして、「自民党にもこんな若い力がほしい」と言わしめたほど。その見立てが正しかったかどうかはさておき、理論派のカリスマでした。

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不破哲三

党本部内で宮本さんが指導する時代に宮本さんの悪口を言う者は1人もいなかったし、不破さんの時代に不破さんの悪口を言う者も1人もいなかった。それだけ2人にはカリスマ性がありました。

後を継いだ志位和夫委員長には、気の毒ですがそのようなカリスマ性はありません。幹部の中にも陰では志位さんを軽んじ、悪口を言う人がいたのは事実です。昨年の総選挙後、田村智子参院議員がツイッターで野党共闘について反省コメントをツイートしたことが話題になりましたが、これは志位さんへの批判になりかねない内容で、宮本、不破時代ならあり得ないことでした(ツイートはその後、削除された)。

鰻を愛するインテリゲンチャ

私は03年に党職員へのセクハラ問題によって党の役職を罷免され、議員辞職させられ、その後、離党しました。40年近く共産党にいましたが、離党し、客観的に共産党を見てみるとおかしな体質や路線が見えてくる。なぜあんなに夢中になれたのかと不思議になります。今回は、私の宮本・不破体験をお話ししたいと思います。

私が宮本さんと間近で接したのは、1983年、比例代表が初めて導入される参院選に向け、代々木の党本部で開かれた候補者会議の席でした。宮本さんはその時すでに74歳でしたが、前年に党員数が過去最多の47万人を超え、その党の最高ポストである議長に就任したばかり。眼光は鋭かったですね。

不破委員長(当時)や上田耕一郎副委員長(同)を「不破君」「上田君」と“君づけ”で呼んでいました。“君づけ”は宮本さんだけでしたね。トップの宮本さんとそれ以下との間には歴然とした差があった。

候補者名簿では、宮本さんが不動のトップ。当時、国会議員秘書だった私は10番目ぐらい。秘書が名簿入りしているのもヘンですが、候補者の数に応じて政見放送の時間や新聞広告の枠の大きさが決まるから人数が必要だったのです。

候補者会議では、昼食に上等な鰻重が振る舞われました。宮本さんは美食家。特に鰻は大好物(笑)。党の会議ですから、代金は党が出していました。

宮本さんは労働者ではありません。インテリゲンチャです。妻で小説家の百合子さんは有名な建築家のお嬢さん。夫婦になってから、お金の苦労はなかったと思います。東京帝大在学中に書いた芥川龍之介論が雑誌『改造』の懸賞で当選を果たし、文芸評論家としてデビューします。次席があの小林秀雄でした。その後、非合法政党の共産党に入党します。戦前から党内でも大いに力を発揮したことは容易に推察されます。

占領期、再出発した日本共産党は組織も理論もよちよち歩き。徳田球一や野坂参三ら指導部がスターリンや毛沢東の言いなりに「五一年綱領」で謳ったのが、かの有名な「武装闘争方針」です。“黒歴史”を認めない現在の共産党はこれを「五一年文書」と呼んでいますが、姑息ですよ。実際、「中核自衛隊」「山村工作隊」などを組織した挙句、火炎瓶闘争を始めたことで国民の信頼を失い、党は分裂してしまいます。

49年の総選挙で35人が当選していたのに、武装闘争後の52年の総選挙ではゼロになった上に、破壊活動防止法(破防法)の制定を招いてしまったのです。

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卓球を楽しむ不破(右)と宮本(左)

理論と財政基盤を固める

書記長となった宮本さんは「61年綱領」をつくり、「議会で多数派を握って民主主義革命を起こす」という新しい方針を打ち出します。またソ連や中国の共産党の言いなりでは駄目だという反省から、大国の共産党の言いなりにならない自主独立路線を鮮明にしていきます。

ソ連の大国主義・覇権主義や毛沢東の文化大革命など、その害悪を見てきた党員にとって自主独立路線は大きな確信となり、宮本さんへの信頼は大いに高まりました。

それから30年後のソ連崩壊で綱領を改定することになりますが、日本共産党の基本はいまもこの宮本路線。理論的基盤の構築は、宮本さんの大きな功績のひとつだと思います。

この宮本理論の中に「革命の平和的移行を目指すが、敵の出方次第では非平和的になることも辞さない」とする有名な「敵の出方」論があります。これがいまだに共産党の「暴力革命」への警戒心につながっている。ただ、今となっては非現実的です。そもそも、そんな革命情勢が来るとは誰も思っていないでしょう。いまの共産党は65歳以上の党員が半分以上占めているんですよ。まして武器なんてどこにもない(笑)。

宮本さんのもうひとつの功績は、大衆的前衛党という党づくり。その中心は機関紙「赤旗」の拡大でした。これによって党の財政的な基盤が確立しました。党収入の8割以上が昔も今も「赤旗」(現在は「しんぶん赤旗」)の売上です。政党助成金をもらわずにやっていける日本の政党は、ほかにありません。

金銭面でソ連の支援を断ち切ることができたのは「赤旗」があったからこそ。ソ連崩壊後、イタリアやフランスの共産党のようにならなかった最大の理由です。彼らはソ連の資金援助がなければやっていけませんでした。

私が70年代から10年程やっていた議員秘書の仕事は、「新聞拡張員になったのか」と愚痴りたくなるほど拡大の発破をかけられ続け、そのプレッシャーは、衆院東京1区の候補者になっても変わりませんでした。レーニンは著書『なにをなすべきか』で、機関紙は煽動者であり、組織者だと説いたのですが、宮本さんはこの考え方を強力に実践しました。

赤旗は80年に公称355万部まで拡大し、党勢もピークを迎えます。その後、何十回も拡大運動が設定されますが、70年代の中頃に1度成功しただけで、その後の数十年間1度も目標が達成されたことはない。いまの時代、党員にとって新聞拡大は辛い仕事になっています。

宮本流マネジメント術

宮本さんの組織運営は、今でいうマイクロマネジメント。細部まで気を配り指示を出す。ソ連崩壊後の90年代初めの選挙の時は、「なかなか策士だな」と唸ったことがありました。候補者会議の席で「ソ連崩壊や共産主義について君たちは難しいことを言う必要はない。それは僕ら指導部が言う。代わりに『なぜ入党したのか』を話しなさい、それが人を感動させる」と言うのです。

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