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【追悼・半藤一利】「おい、二度とあんな時代に戻ることはないだろうな」 半藤さんの声が聞こえてくる|保阪正康

真贋を見抜く目を持ち、人情に溢れる——数々の名対談、名座談会を繰り広げてきた“相棒”の保阪正康さんが、半藤一利さんの実像に迫る。/文・保阪正康(昭和史研究家)

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▶︎半藤さんは、文藝春秋に入社して1年目の時に担当した坂口安吾から「実証的に歴史を見ることの大切さを教わった」と語っている
▶︎凄惨な戦争体験によって自身も心に空虚感を抱いていた半藤さんは、それをエネルギーに変え、怒りを持って昭和史を検証した
▶︎半藤さんは私たちに宿題を残した。私たちが知っているつもりの昭和の戦争にはまだ大きな謎がいくつも残されている

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保阪氏

「成績不良だが、大化けするかもしれない者」

半藤一利さんのことを思い出すと自然と涙顔になるのは、老いのせいばかりではない。事実をもって謙虚に歴史に向き合い、昭和史に新たな光を当てた業績への畏敬の念。混迷を深める日本社会の状況のなかで、貴重な指針を与えてくれる先達が旅立ってしまったという喪失感――あまりにも多くの思いが交錯してしまうからだ。

私は昭和史を主なフィールドとして取材執筆活動を続けてきたが、半藤さんはその分野における偉大な先駆者であった。

現在の日本には、事実を直視せず歴史を都合よく解釈したり、きわめて浅薄な見方で過去の失敗を正当化する言説が跋扈している。徹底したリアリズムの手法で昭和史を発掘し続けてきた半藤さんは、こうした風潮に大きな危惧を抱いていた。菅義偉政権の強権的な人事や、コロナ禍で政権に都合の悪い事実を「なかったこと」にしてしまう政府のあり方を見るにつけ、その危惧が現実化していることに戦慄せざるをえない。

今回は連載とは別に、半藤さんが日本の近現代史にどのように向き合ってきたのか、その姿勢と内実を再確認したい。また、下町育ちの飾らない人柄の魅力も含めて、私が知る半藤さんの実像を紹介しておきたい。

半藤さんは昭和28(1953)年、文藝春秋に入社した。東大在学中はボート部に熱中していたため、授業にはあまり出席しなかったという。成績は芳しくなかったが、就職試験では、新聞社と出版社は入社試験の成績が良ければ大学の成績は特に問わないところが多かった。たまたま文藝春秋の入社試験会場が東大だったため受験したところ、合格したという。

同期は本人含めて3人。当時の文藝春秋の採用基準は、成績優秀の者を1人、何でもそつなくこなす能力ある者を1人、そして「成績不良だが、大化けするかもしれない者」を1人、というものだったという。半藤さんは入社後、「僕は、どの口で採用されたんですか?」と当時の佐佐木茂索社長に依ねたそうである。すると、「決まってるだろう、君は3番目だよ」と言われたと笑っていた。そんなエピソードを晩年までよく笑い話として披露していた。

入社前に、無頼派で有名な作家の坂口安吾の原稿を取りに安吾の住む群馬県桐生市に赴いた。ところが、そのまま1週間ほど音信不通になり、母親が「うちの息子と連絡が取れない」と会社に電話をかけてくるなど、ちょっとした騒ぎになった。実はその間、安吾に付き合い、その人生論などを聞きながら、ずっと酒を飲んで原稿を待っていたのだという。いかにも安吾らしい話だが、半藤さんは「安吾さんから実証的に歴史を見ることの大切さを教えられた」と話していた。新入社員になる前に、貴重な話を聞いていたのだ。

また、戦時中に海軍を担当した新聞記者で、「大海軍記者」と呼ばれた伊藤正徳の担当にもなった。元軍人ら戦争体験者に取材を重ね、それが昭和史研究の道に入るきっかけの一つになったのだろう。

この取材を通じて、誰が事実を正確に語っているかを知ることになった。伊藤は「あの軍人はそんなことを知る立場にない。でたらめを言っている」などと、半藤さんの報告を聞きながら真贋を教えてくれた。証言の垂れ流しをするな、という教えを受けたと述懐していた。

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半藤氏

東京大空襲の体験が原点

若い頃の半藤さんの仕事で最も知られているのは、『日本のいちばん長い日』(昭和40年刊)である。昭和20年8月14日の御前会議で事実上の降伏が決まったが、戦争継続を目指す陸軍将校らによる翌日未明のクーデター未遂事件(八・一五事件)があった。本書はその過程を丹念に追い、「玉音放送」までを描いている。

当時、文藝春秋には社内に昭和史の勉強会があった。そこで昭和史を象徴するテーマとして、この一日を選んだという。戦争に直接関与した軍人や官僚がまだ存命中で、半藤さんは社内の有志らとともに戦時中の軍の指導者層や政治家たちから聴き取りを重ねた。アカデミズムが戦前・戦中の政策決定の検証にはまったく手をつけていない時であり、本書は画期的な作品だった。もっとも、社員の名前で出すわけにはいかないという事情から、評論家の大宅壮一の名前で出版された。

半藤さんが昭和史を生涯のテーマにしたことの根底には、やはり自身の戦争体験があったのだろう。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で被災したとき、半藤さんは14歳だった。逃げ遅れた人々が次々に焼死してゆくのを目の前で見た。炭化した遺体が折り重なる道を踏み分けて逃げまどい、隅田川に飛び込んで九死に一生を得た。

自身のその凄惨な体験談を、半藤さんはある時期まであまり他人には話さなかった。堰を切ったように話し出したのは、晩年のことだ。証言者が減り、また時代が戦争の悲惨さを忘れかけている中で、「自分が後世に伝えなければならない」との強い使命感をもったのだろう。それは覚悟といってもいい。

心の空虚感をエネルギーとして

悲惨な体験をくぐり抜けた戦争体験者たちは、心中に空虚感を抱えている人が多い。どんなに周囲に人がいて賑やかに暮らしているように見えても、心のどこかで空虚感と闘っている。数多の人々があっけなく死にゆく姿をあまりにも間近で見れば、誰もがそうなる。半藤さんの内にもそのような空虚感が存在するのを、私は感じ取っていた。

しかし半藤さんはその空虚感をエネルギーに変え、怒りをもって昭和史を検証したのだと私は考えている。カラッとした下町っ子で、怒りという感情をあまり見せることはなかったけれども、やはり心の奥底には、「なんでこんな無謀な戦争をやりやがったのか」という強烈な怒りがあったのではないか。そこに半藤さんの原点があったのだろう。

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