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担当マネジャーが語る「私が見た小林麻央の5000日」

 2017年6月22日、小林麻央さんが34歳の若さで亡くなった。2014年に乳がんを告知されてから、2年8カ月に及んだ闘病の末だった。自らの病状を詳細に綴った彼女のブログは、同じ病に苦しむ人たちへの優しさに満ち溢れ、多くの人々の共感を呼んだ。

 上智大学在学中に芸能界入りした彼女を、芸能事務所、セント・フォース取締役の菅大善氏は担当マネジャーとして14年間支え続けてきた。麻央さんが亡くなって4年。その菅氏が麻央さんとの日々を振り返った「文藝春秋」2017年8月号の記事を、命日に故人を偲び、特別に掲載する。(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)

◆ ◆ ◆

 6月22日の夜、事務所の社長から電話があり、「麻央ちゃんが亡くなった」と知らされました。その瞬間に、頭の中が真っ白になりました。訪れることがないと信じ祈っていた日々。5年後、10年後、いや20年後も元気でいてくれたら、と願っていました。亡くなったという実感が湧かず、涙も出てこなかったのですが、その日はまったく寝られませんでした。

 翌日、自宅に伺って久しぶりに彼女の顔を見たとたん、胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、涙が止まりませんでした。一緒に仕事をしてきた日々のことが、次から次へと思い出されてくるのです。

「お疲れさま」

 月並みですが、そう言葉をかけるのが精一杯でした。

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小林麻央さん (C)文藝春秋

 麻央――私は「麻央」と呼んでいましたので、普段どおりの言葉遣いにさせてください――。

 麻央から病気のことを知らされたのは、2016年1月のことでした。彼女自身ががんを告知されてから1年3カ月ほど経ったころです。私の誕生日は大晦日なのですが、彼女は毎年必ずメールやLINEなどでメッセージを送ってくれていました。ところが、2015年の誕生日は連絡がなかったのです。

 少し前に連絡したときに「ちょっと体調が悪いんです」と話していたし、11月に長男の勸玄(かんげん)くんの初お目見えなどがあって、忙しいんだろうなと特に気にすることもありませんでした。すると年が明けて数日経った頃、電話がかかってきました。

「ごめんなさい。体調が悪くてメッセージを送れませんでした」と第一声は謝罪の言葉でした。続けて「実は私、がんなんです」と。私は、衝撃のあまり「え……、どういうこと?」と言ったきり、言葉が続きませんでした。

 そんな重大な告白をしているのに麻央の声は普段通りに明るく「がんって知ってますか?」と、わざとおどけたりして。ショックを受けているであろう私への心遣いでした。

「実はちょっと前にがんになっていたんです。本当に言えなくてごめんなさい。すぐに治して、みなさんに『がんでした』と報告するつもりだったんです。でも長引いてしまって……。遅くなってしまいましたが、報告です。自分ががんになるなんて人生わからないですよね。でも、大丈夫です。治しますから」

 努めて明るく、話してくれました。今思えば、すでに深刻な病状だったはずです。麻央と仕事をするようになったのが2003年。当時は、まさかこんなことになろうとは、想像さえしていませんでした。

同期入社のような関係

 麻央は大学時代、かつて姉の麻耶が出演していた縁で明石家さんまさん司会の「恋のから騒ぎ」に出ていましたが、そもそも人前に出るのが得意ではないタイプでした。姉がTBSのアナウンサーなので、麻央も同じ道を目指しているのではないかと噂されたようですが、彼女自身は、「テレビ局のアナウンサーになろうとは思わなかった」と言っていました。のんびりした性格なので、目まぐるしい仕事は合わないと思っていたのかもしれません。

 ただ、「めざましテレビ」でお天気キャスターをしていた吉田恵に憧れていたそうです。吉田はうちの事務所に所属しているので、社長が麻央と引き合わせたんです。吉田から仕事について話を聞くうちに、この世界で仕事をしてみたいと考えるようになり、うちの事務所に入ることになりました。

 第一印象は、とにかく明るく、フワっとした感じ。キラキラと華があるのに、芸能界で活躍したいというガツガツしたところがまったくない。そこが魅力的な子でした。

 私が担当することになったのですが、実は私も他業種から転職したばかりのマネジャー1年生でした。年齢は私が3つ上。同世代だったせいか、友だちとは言いませんが、同期入社のような関係だったかもしれません。お互い手探り状態で芸能界に踏み出していったのです。

 初めての仕事は2003年10月から始まった「めざましどようび」のお天気キャスターでした。夏には地方局を回る全国キャラバンがあり、どこに行っても麻央は、すぐに地元の方と打ち解けていました。

 仕事を始めると人前に出ることにも積極的になりました。未来へ向かってとにかく目の前の仕事に真摯に取り組み、全く経験のないドラマやグラビア、様々な仕事に挑戦していきました。「その仕事は嫌です」ということは、まずありませんでした。

 最初から変わらなかったのは、周囲の方への気遣いです。ヘアメイクでもスタイリストでもマネジャーの私でも、みんなの誕生日を覚えていて、必ずお祝いをしてくれるのです。ケーキを買ってきたり、レストランを予約してちょっとしたパーティーを開いてくれたりと、人を喜ばせることが何より大好きでした。

 それで思い出すのは、あるバラエティ番組にゲスト出演したときのことです。年齢×1万円の予算でゲストが、「自分の人生を豊かで華やかにするための買い物をする」というコンセプトの番組でした。欲しかったものを買ってもいいし、好きなところに旅行に行ってもいい。

 すると麻央は、「いつもお世話になっている方たちに、打ち上げ花火を見せてあげたい」と言ったんです。いまでも花火の光景が脳裏に焼きついています。そうしたことを自然にできてしまうのが麻央でした。

一卵性姉妹と言われて

 麻央は姉の背中を見て育ってきたので、頼りにして何でも相談していました。“一卵性姉妹”と言われましたが、本当に仲がいいんです。麻央はのんびりと穏やかで、麻耶は明るくよく話す。対照的ですけれど、それがまた良かったんでしょうね。二人は同じ高校に通っていたのですが、麻耶を見てきた先生に麻央は暗いねと言われたらしく、「私は決して暗くないのに、お姉ちゃんがほんとに明るいから」って笑っていたのを思い出します。

 二人は実家暮しだったので、私が麻央を迎えに行くとき、麻耶も一緒に車に乗せて、職場の近くまで送ることもよくありました。すると二人はずっと車の中でしゃべり続けている。ほとんどは、麻耶の方が「麻央ちゃん、麻央ちゃん」って話しかける一方でしたが。

 麻耶がまだTBSにいるとき、雑誌の企画で篠山紀信さんに姉妹のツーショットを撮影してもらったことがあります。撮影が終わった後も二人並んだまま麻耶がずっと麻央に話しかけるので、なかなか解散にならず、さすがに麻央が「お姉ちゃん、みんなもう困っているから」と止めていました(笑)。

 一度だけ麻耶に怒られたことがあるとも言っていました。番組の打ち上げでお酒を飲んで、帰りが少し遅くなったことがあったそうです。「ただいま~」とご機嫌で帰ったら、「心配してたんだから!」とすごい怒られたそうです。

「めざましどようび」のお天気キャスターを務めていた2006年、麻央さんに大きな転機が訪れる。日本テレビが新たに立ち上げる夜のニュース番組「NEWS ZERO」のキャスターへのオファーだった。

 最初は彼女も相当悩んでいました。52年も続いたニュース番組「きょうの出来事」の後継番組として「NEWS ZERO」が企画されたわけで、その重圧もあったと思います。

「24歳でまだまだ世間を知らない自分が、本当にキャスターというポジションを務められるのだろうか」という不安もあったでしょう。

 それを乗り越えることができたのは、番組のスタッフとの話し合いでした。スタッフの方々が麻央に、番組が考えていること、求めていることを丁寧に説明してくれました。

「『ZERO』では、いじめの被害者や難病で苦しんでいる人など、弱い立場に置かれている人々にスポットライトを当てたい。そして若い世代にこそ見て欲しい番組だから、ぜひ24歳の小林さんに引き受けてもらいたい」

 麻央はこの言葉に心が動かされたそうです。「24歳の自分だからこそできる挑戦をしてみようと思います」と、決意を話してくれました。

 番組当初から麻央は、スタジオで座ってニュースを読むだけの存在にはならないと決めていました。「外に出て行って当事者たちの声を聞きたい」と希望していたのです。

 最も印象に残っているのは、2007年に起きた新潟県中越沖地震の際の取材です。麻央は新潟県小千谷(おぢや)市出身で、震災の被害を受けた地域は彼女の故郷でした。

 被災地を訪れた麻央は、言葉にならないほどショックを受けていました。それでもキャスターとして、現場の悲惨な状況を視聴者に伝えなければいけないと思い直し、ただ伝えるだけでなく、どうすれば復興につながるのかを考えてレポートするように心がけていました。

 もう一つ記憶に残っているのは、カンボジア取材です。病気を患っているけれど、お金がなくて病院に行けない少女を取材しました。取材が終わってからも頭から少女のことが離れなかったそうです。少ししてから「あの子を助けたい」と言って、自ら動いてその少女を助ける活動をしていました。

 ときには取材中、言葉に詰まり涙を流すこともありました。本来、キャスターであれば、相手の言葉を引き出すのが仕事です。しかし、麻央は相手に自然と寄り添い、一緒に悲しみ、一緒に笑おうとしていました。それが彼女の優しさであり人間味なんだなと今でも思いますし、そんな彼女だからこそ、どこに行っても愛されたのだと思います。

 麻央が亡くなったあと、「ZERO」でのVTRを中心に追悼番組を作ってくれました。他の部署に異動したスタッフたちも集まって、麻央の思い出話に花が咲きました。スタッフの誰かが「小林さんは、自分で違うと思ったネタは絶対にやらなかったよね」と言っていました。確かに彼女は意志が強いところがあり、番組を引き受けた当初の決意を忘れなかった。一度決めたことはブレずにやり抜く。そんな彼女の芯の強さを思い出しました。

 麻央が亡くなったことが発表された6月23日、「ZERO」の共演者、嵐の櫻井翔さんは会見で、「家族を失ったような気持ちでいっぱいです」と言って涙を流してくれました。あの番組を作った仲間たちは、麻央にも「家族」のような存在だったのだろうと改めて思います。

「海老蔵さんを好きになった」

 キャスターとしてキャリアを重ねていた2010年、麻央さんは歌舞伎役者の市川海老蔵との婚約を発表。人気絶頂のキャスターと若手歌舞伎役者の婚約は世間の話題を独占した。ツーショットでの会見で、麻央さんは「イメージと違って(海老蔵さんは)さわやかな方だと思いました。『来世も再来世も一緒にいたい』と言われたとき、とてもうれしかったです」と笑顔で答えている。

 二人がお付き合いを始める少し前だったと思います。「海老蔵さんを好きになったんです」と突然切り出されて、私は「エッ!」と声を上げて驚きました。

 出会いは2008年12月、「ZERO」での海老蔵さんへのインタビューでした。終始和やかに進み、収録は無事に終わりました。しばらくして麻央から「お正月の海老蔵さんの舞台に誘われたので行っていいですか? 母と一緒に行くので」と聞かれました。

 それから徐々に親しくなり、海老蔵さんの熱い思いに心が動かされていったようです。二人が付き合うようになってからは、トントン拍子に話がすすんで、半年ほどで婚約することになりました。

 海老蔵さんは過去に浮名を流されていましたし、立場上心配になって麻央に気持ちを確認したこともあります。でも、彼女が海老蔵さんを信じる姿勢は変わらなかった。麻央は仕事にもまっすぐだけど、恋にもまっすぐな女性でした。

 梨園の世界に入ることは、普通に結婚するのとは違った大変さがあります。キャスターの仕事を続けながら、彼女はお茶を習いに行き、着付けの教室に通い、海老蔵さんを支えるために一生懸命でした。料理教室にも通い始めました。何もないゼロのところから、ごく短い期間で、吸収していく姿を驚きながら見ていました。

 キャスターの仕事に未練がなかったとは思いません。しかし、麻央はきっぱりと仕事を辞めて夫を支えると決めていました。私たちも当代きっての歌舞伎役者の妻になる麻央を気持ちよく見送ることにしました。将来、余裕ができてきたら、また一緒に仕事をしようということで、事務所に籍は置いたままでした。

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2010年1月、婚約発表の記者会見をする市川海老蔵さんと小林麻央さん (C)共同通信社

 結婚式の日取りをめぐって、少し困ったことがありました。麻央の結婚式の2日後に私の結婚式が控えていたのです。もちろん私の日取りがだいぶ前に決まっていたのですが、二人の式はスケジュール上、どうしても動かせません。おかげで自分の式の準備どころではなくなってしまったのですが、今となってはいい思い出です。

 実は、私の妻は麻央のメイク担当だったのです。麻央は私たちの交際を理解して協力してくれました。仕事の後に私たちのデートの約束があれば、「この仕事は絶対遅くならないようにしよう」と、いつも以上に頑張ってくれました。普段は仕事が終わってから、ゆっくりと片付けをして帰るタイプなのに、そういう日は荷物をサッと片付けてくれました。

 私たちの結婚式にも、挨拶回りなどで忙しい中、時間を作って駆けつけてくれました。

「おととい堀越麻央(注・海老蔵の本名は「堀越寶世(たかとし)」)になりました。小林麻央としていられたのは、菅さんと一緒にやってきたおかげです」

 と彼女がスピーチをしてくれたことは、一生の宝物です。

 結婚式の4カ月後、2010年11月、海老蔵は、西麻布の飲食店で暴行され左頬を陥没骨折するなど大怪我を負った。その際に、報道陣の前で騒動を謝罪する麻央さんの姿はいまも多くの人々の印象に残っている。2011年には長女の麗禾(れいか)ちゃんが、2013年には長男の勸玄くんが誕生し、幸せな報告が続いた。

 先日の会見で、海老蔵さんは「僕を変えてくれた奥さんでした」とおっしゃっていましたが、麻央は最初の決心どおり、海老蔵さんをしっかりと支え続けることができたのだと安心しました。

 結婚当初、実を言うと歌舞伎の世界で麻央がきちんとやっていけるのかと心配したこともありました。たくさんのご贔屓筋がいらっしゃいますから、顔と名前もきちんと覚えないといけません。のんびりとした性格の彼女に凜としたイメージの歌舞伎役者の奥様が務まるのかと。

 でも、その心配は杞憂に終わりました。海老蔵さんの舞台に招待してもらったことがありますが、出入り口で挨拶をしている姿はどう見ても立派な「成田屋の若奥様」になっていたのです。たまに会うときは、いつもののんびり屋さんの麻央に戻っているのですが……。

 麗禾ちゃんが生まれた後に、お祝いに出かけると、今度はすっかり母親の顔になっていました。私に「子供は作ったほうがいいですよ」と嬉しそうに話してくれました。

「検診に行ってくださいね」

 2016年6月、海老蔵が会見を開き麻央さんが乳がんであり、かなり深刻な病状であることを公表した。麻央さんは「家族と一緒に生きるために、これからも治療に励んでいきます」とコメントを発表した。

「自分のがんを治してから、世間のみなさんに報告したい。そして、今度は私がこの病気のことを世の中に伝える役割を果たしたい」

 それが彼女の願いでした。

 昨年の9月に麻央はブログ「KOKORO.」を始めました。その少し前に、「始めていいですか?」と連絡がきました。少しでも治療や心を安定させることに役立つのであれば、そして何より、自分と同じ苦しみを味わっている人を励ましたいという彼女の想いが痛いほど分かりましたので、「ぜひやったほうがいい」と伝えました。

 闘病中も連絡を取っていましたが、海老蔵さんをはじめ、ご家族が看病をしているわけですから、私ができるのは、見守ることだけでした。「移動のとき、車を出すよ」と言っても、麻央は気を遣って「ありがとうございます」と答えるだけ。こちらが心配しているはずなのに、いつの間にか「菅さんも検診に行ってくださいね」「奥さんにも検診のこと伝えてくださいね」と、こちらを心配してくれるのです。

 入退院を繰り返していた麻央さん。今年の春に病状が悪化し、家族と一緒に過ごすため、5月29日からは自宅療養中だった。それから1カ月足らずの6月22日、34年の生涯を閉じた。

 今年の2月だったと思いますが、麻央が新居に引っ越したので「落ちついたら遊びに来てください」と誘われていたんです。だから、こんな急激に病状が悪化するとは思いもしませんでした。私は覚悟ができているようで、まったくできていませんでした。

 棺の中の麻央と一対一で対面したとき、彼女が「ZERO」のキャスターをしていた頃、私に語ってくれた言葉を思い出しました。

「タレントとマネジャーさんって表裏一体だと思うんです。私はテレビに出る人だけど、裏で支えてくれる人がいないと成り立たない。だから、私と菅さんは表裏一体。私は菅さんで、菅さんは私」

 麻央は病気で辛い状態だったのに、同じ病で苦しむ人を励まし続けました。どんな状況でも前を向き続けた彼女を見て、私が弱音を吐くわけにはいきません。また今度会えたとき、「立派なマネジャーになりましたね」と言われるよう、私も精一杯に前を向いて生きていこうと思います。またいつか笑顔で会えればなと思います。その時までさようなら。

(「文藝春秋」2017年8月号)

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