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『移動祝祭日』ヘミングウェイ(後編)|福田和也「最強の教養書10」#4

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、数々の名作を残したアーネスト・ヘミングウェイが晩年に書いた、この一冊。(後編)

★前編を読む

 一九二一年十二月、当時二十二歳のヘミングウェイは、カナダの『トロント・スター・ウィークリー』の特派員として、新妻ハドリーとともにパリに向かった。

 イリノイ州のオークパークに育ち、地元のハイスクールを卒業してすぐに彼はキャンザス・シティで見習いの記者になった。この年の四月、アメリカは第一次世界大戦に参戦した。アメリカが建国以来はじめてヨーロッパの戦争に参加した、つまりアメリカが世界情勢の主役として躍り出た瞬間だった。この事はヘミングウェイの文学と密接な関係を持っている。

 一九一八年春、世界大戦が終盤にさしかかった頃、ヘミングウェイはアメリカ赤十字の救急車要員に登録し、イタリア戦線に配置された。まだ十九歳だった。北イタリアのフォルサッタの戦線で迫撃砲の破片を浴びて負傷し、この療養中の看護婦との恋愛が後に『武器よさらば』に結晶する。

 療養後、一旦帰国したヘミングウェイは職と妻を得て、パリにやってきた。十分とはいえないジャーナリストとしての修業、世界史的な出来事に参加したいという客気からの戦場への冒険行と苦い経験。その上に自分の文学的なキャリアを打ち立てようとしたのだ。

 当時のパリは、アメリカ人の都だった。

 第一次世界大戦後のインフレにあえぐヨーロッパ諸国通貨に対するアメリカ・ドルの優位は圧倒的だった。

 禁酒法の縛りなどもあって息苦しい故国を抜け出したアメリカの文学者たちはドル高の恩恵を受け、パリで思い思いに楽しい生活を送っていた。

 パリ英語文壇の主ともいうべきガートルード・スタイン、早熟の天才スコット・フィッツジェラルドとその妻ゼルダ、ヘミングウェイが生涯師と仰いだエズラ・パウンド……。

 当時のパリは、世界文学史の中で数え上げることができる、杜甫や李白の長安、ダンテ、カヴァルカンティのフィレンツェ、シェイクスピア、マーロウのロンドンといった、多数の才能が袖を擦り合わせて過ごす実り多い坩堝のような時代の一つだった。少なくともアメリカ文学にとって、もっとも幸福な時間であった。

 そのパリでの生活と人々を、ヘミングウェイが回想しつつ執筆したのが、『移動祝祭日』である。

 パリにおいてヘミングウェイは貧しいながらも充実した生活を送っていた。

 ワインとフランスパンを買って、日がな一日セーヌ河畔で一冊の本を読み、釣り人たちを眺めて過ごす。それはこのうえなくシンプルで手ごたえのある時間である。

 しかしながらこの充実感は、いとも容易く手に入るようでいて、実はとても貴重なものなのだ。

 この作品を書き始める三年前の一九五四年、ヘミングウェイはノーベル文学賞を受賞した。作家としての栄達を極めたのだ。

 普通に考えれば、富も名声も手に入れた作家がある種のなつかしさと感傷をもって、貧しかった若き日の修業時代を回顧した作品ととらえられるだろう。

 しかし、私はそうとは思わない。

 この作品は単なる感傷的な回想録ではない。

 確かにヘミングウェイは富も名声も手に入れていた。けれど、その生活はけして幸福なものではなかった。

 作家としてのヘミングウェイは第二次世界大戦後、長いスランプに入り、ほとんど光明を見いだせなかった。『老人と海』の成功は久々の栄光だったが、それによって世界で一番の有名作家に対する関心はいよいよ高まり、ハバナ近郊の自宅には愛読者ばかりでなく、物見高い観光客までが押し寄せ、何か面白い作家の逸話を発信しようとするジャーナリストたちに常につけ狙われていた。

 殺到する取材や講演、原稿依頼の対応に家族は疲弊していた。ヘミングウェイ自身の執筆はうまくいかず、作家として力量が低下し、詩想が枯渇しているにもかかわらず、高まるばかりの名声は重い負担となった。

 アフリカのサファリ旅行からの帰途、飛行機事故で負った重傷によって内蔵をひどく損なったうえに、視力、聴覚に障害が残った。障害とストレスからヘミングウェイは強度の鬱病となり、それは作家の精神を破綻の一歩手前まで追い詰め、そのため激しい飲酒を重ねるようになった。

 四度目の結婚相手となったマリーとの関係も、ヴェネツィアでの十八歳の少女との恋愛事件などで波乱ぶくみであり、三男グレゴリーとの関係は劣悪なものとなっていた。

『移動祝祭日』は、この暗澹とした境涯から、かつての単純な生活を呼び起こし、取り戻すために書かれた、ヘミングウェイにとっての復活の祈りのような書だったのではないだろうか。

〈仕事がうまくいったことを意識しながら、長い階段をおりて行くのは、すばらしい気持だった。私は、何かをやりおえた、と思うまで仕事をつづけるのが常だった。そして、次にどういうことが起るかわかったとき、いつも仕事を止めるのだった。そういうふうにして、その翌日に仕事をどうつづけるかに確信がもてたのだ。けれど、時には、新しいストーリーを始めようとしているけれど、うまくそれを進めることができぬことがあり、そういうときには暖炉前に坐り、小さなオレンジの皮をしぼって、焔の先にたらし、それが青い光をパチパチ立てるのを見つめているのだった。また、立ち上がって、外のパリの屋根を見渡し、こう思うのだった。〉

〈――「くよくよするな。お前は前にもいつもちゃんと書けているんだから、今も書けるだろう。しなくちゃならないことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ」。そこで、けっきょく、私は一つの本当の文章を書き、そして、そこから先に進んでいくのだった。〉 (「ミス・スタインの教示」)

「しなくちゃならぬことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ。(All you have to do is to write one true sentence. Write the truest sentence that you know.)」という言葉は非常に強い意味を持っている。

 恐らく『移動祝祭日』を書いたときのヘミングウェイにとっては、「本当の文章」の味わいは、遠くなっていたのだろう。晩年の彼にとって「本当の文章」は、虹の脚のように、遠く、遥かで、手に届かないものになっていた。だからこそ彼は、『移動祝祭日』を書かなければならなかったのだ。

『移動祝祭日』の中には、当時パリに住んでいた文学者たちが数多く登場する。

 その中でヘミングウェイが文学の師と仰ぎ親密につき合っていたのは、ガートルード・スタインとエズラ・パウンドの二人であった。

 スタインはフラーリュス街二十七番地のアトリエ風のアパートに住んでいた。絵の目利きでもあった彼女の部屋には、ピカソ、ブラック、セザンヌ、マチスの絵がこともなげに掛けられていた。

 ヘミングウェイは妻のハドリーとともに、よくそのアパートに招かれ、料理や酒をふるまわれた。スタインはヘミングウェイに前衛的な文章の作法を教えつつ、パリでの生活における様々な指南をした。

〈「あなた方は、服を買うか、絵を買うか、のどちらかですよ」と彼女は言った。

「そのくらい単純なことです。あまり金持でない人は、だれだって両方をすることはむりです。自分の服なんかに気をとられず、モードなんかにも一向とんちゃくしないようになさい。そして着心地のよい、長つづきのする服をお買いなさい。そうすれば、服を買うお金を、絵を買う方へ回せますよ」〉(同前)

 些細なようで、重要なことだ。当時においてもパリはモードの中心だった。街には流行の服に身を包んだ洒落ものたちが闊歩していたことだろう。そうした誘惑に負けることなく、服など買わずに、その金を絵に回せというのだ。

 ただここでスタインが諫めているのはヘミングウェイではなく、妻のハドリーだった。とかく女性は服を買いたがる。しかも女性の服は高い。だから、できるだけ服を買わないようにしなさいと諭したのである。

 こうした細かい忠告をヘミングウェイは忠実に守った。スタインを尊敬していたからだ。しかし、彼女をよく知るにつれ、彼女を幸せにしておくためには、彼女が毎日書いているものが出版され、世の中に認められることが必要なのだということに気づく。

 スタインは世に認められることを求めながら自分の原稿を書き直したり、分かりやすくしたりする手間を嫌がった。そこでヘミングウェイが彼女の原稿の校正刷りを読むなどして手伝った。その助力がいかに得難いものであるかをスタインは理解していなかった。

 次第にヘミングウェイの心はスタインから離れていき、何か決定的なことがあったわけではないが、二人の間柄はおしまいになった。

〈最後に、皆は、いや皆が皆でないかもしれぬが、堅苦しくてまっ正直な態度を止めるため、再び友だちづきあいをした。私もそうした。でも、本当のところ、私は心の中も頭の中でも、二度と友だちづきあいすることはできなかった。頭の中でもはや友だちになれぬときは、最悪の事態である。しかし、実際はもっと複雑なものだった。〉 (「全く奇妙な結末」)

 一方、エズラ・パウンドに対しては生涯を通して、尊敬と好意を失わなかった。

〈エズラは私よりも、人びとに対して親切でクリスチャン的な態度をとった。彼自身の書くものは、的を射たときは完全無欠であったが、彼は自分のまちがいに対しても非常に誠実であって、自分のあやまりをとてもいとおしんだ。そして、かれは人に対しても非常に親切なので、私はいつも彼のことを聖人みたいな人だと考えていた。彼はまた、怒りっぽかったが、たぶん、多くの聖人たちもそうだったろう。〉
(「エズラ・パウンドとそのベル・エスプリ」)

 限りなく気高い精神をもったエズラ・パウンドは、ヘミングウェイに閲読を頼まれた原稿から、すべての形容詞、接続詞を削って返した。この経験がヘミングウェイの、シンプルで切れのいい文体を生む契機となった。

 ヘミングウェイはエズラにボクシングを教えた。そして、彼が始めた「ベル・エスプリ(親切)」という活動に参画した。その活動の一つは、生活のためにロンドンの銀行で働かなければならず、思うように詩作の時間をとれないT・Sエリオットが銀行から脱出できるよう、皆の収入の一部を寄附する、というものだった。結局貴族の夫人がエリオットの後援者となり、ベル・エスプリによる支援は必要なくなった。

 第二次世界大戦後、エズラ・パウンドは大戦中にイタリアに渡り、ムッソリーニ政権を支持するラジオ放送に従事した廉で戦犯として起訴され、精神異常犯罪者病院に監禁された。一九五六年、ヘミングウェイは、パウンドの窮状を救うため、ノーベル賞の賞金の一部をさき、千ドルの小切手を彼に送った。

 激しい反ユダヤ主義によって親ファシスト活動を行ったエズラに対し尊敬と好意を持ち続けることができたのは、自身の文体を確立させてくれた恩義もあっただろうが、エズラが一貫してヘミングウェイを評価し、好意を持ち続けたことが大きかったに違いない。

 スタインは、ヘミングウェイが『日はまた昇る』で世に認められ、新進作家としてもてはやされるようになると、公然とヘミングウェイを批判するようになった。

 ウディ・アレン監督の映画『ミッドナイト・イン・パリ』は、作家志望の現代アメリカ人、ギル・ペンダーがパリを訪れ、真夜中に一九二〇年代のパリへタイムスリップするというストーリーだ。

 ギルは自分が愛してやまないヘミングウェイやフィッツジェラルドと会って感動し、スタインに自分の小説を評してもらい、興奮する。

 この映画を見て私が疑問に思ったのは、エズラ・パウンドが出てこないということだった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、スタインとそろっていて、エズラがいないのはどう考えても不自然である。

 思うに、ユダヤ系移民の血を引くウディ・アレンは故意に、激しい反ユダヤ主義者のエズラを自分の作品からはずしたのではないだろうか。

 ヘミングウェイは、『移動祝祭日』を書き出してから二年たった一九五九年、フィデル・カストロに主導されたキューバ革命に際会し、二十年近く生活したハバナ近郊のフィンカ・ヒビアを離れ、アメリカ本土に戻ることを余儀なくされた。

 翌六〇年には、鬱病が極限まで悪化し、東部の病院に偽名で入院して電気ショックを用いた強烈な治療を受けるが病状は好転しなかった。

 翌年、ケネディ大統領の就任式に招待されるも、病気を理由に辞退、四月には自殺を試みたが夫人に発見されて未遂に終わった。その後また精神病院で電気ショックの治療を受けるが、七月二日、散弾銃の銃口を口に銜え、引き金を引いた。

 結末が自殺に終わった以上、晩年のヘミングウェイの足掻きは、敗北に終わったと考えるべきなのだろうか――。

 作家自身の意識に誠実に対面したならば、そう考えざるをえないだろう。ヘミングウェイが、その宿命と懸命に闘ったと評価するならば、つまりはその苦闘が正真正銘の真剣勝負であったと考えるならば、勝敗について斟酌してはならない。その点を揺るがせにすることは、懸命に闘った者に対する最大の侮辱にほかならないからだ。

 ヘミングウェイは負けたのだ。

 けれどだからと言って、彼の戦いが無意味であったわけでも、無様であったわけでもない。

『移動祝祭日』は勝ち目を見出すことのできない、必敗の戦いにおける、まことにスマートで鋭利な一撃であった。

 かつての、単純で充実した日々を思い返しながら、ヘミングウェイは、現代生活の厄介さ、複雑さに何とか耐えようとした、耐えることを教えようとした。

 今となっては、何よりも、この索漠さに対する、闘争心こそがもっとも敬意に値するものに思われる。

(完)

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