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小説「観月 KANGETSU」#68 麻生幾

第68話
被疑者死亡(5)

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※本連載は第68話です。最初から読む方はこちら。

 しばらくの沈黙後、

「やっぱし、私を襲おうとしたんも、熊坂さんの奥さんを殺したんも、階段から突き落としたんも、そして……私を連れ去ろうとしたもんも、ぜんぶ、ぜんぶ、あん人がやったん?」

 と七海は口にした。

「詳しゅうはこれからだけんど、ほぼ間違いない……」

 七海の大きな溜息が聞こえた。

「もう安心したらいいっちゃ」

 涼が言い切った。

「じゃあ、正木ちゅう刑事さんは、もう私を疑っちょらんのね?」

「疑うちょん? まさか、最初からそりゃねえちゃ」

 涼が慌てた風に言った。

「まっ、そりゃいいわ。ところで──」

 七海の声のトーンが変わった。

「田辺さんにご家族は?」

 七海が訊いた。

「そげなこたあ七海が気にするようなことじゃ──」

「いいけん教えち」

 七海が強引に促した。

「……東京に母親が1人……」

「あん人もお母さんと2人暮らしで……」

 七海が声を落とした。

「お前、そいつに殺されかけたんだぞ」

 田辺が叱るように言った。

「でも、お母さんはお気の毒に……」

 七海の沈んだ言葉に、涼はさらに言おうとしたが口を噤んだ。

 その代わりに口にしたのは、

「七海、終わったちゃ」

 という優しいフレーズだった。

「本当に?」

 七海が応えたのはその言葉だった。

「本当も何も、犯人は死んだんや」

「……」

「オレがこん目で確かめた──」

 涼が語気強く言った。

「母も安心するわ。一番、心配しちょったけん」

「そっか……あのぉ……心配していたのは──」

「わかっちょんよ。ありがとう、涼──」

 穏やかな声が涼の耳に響いた。

「すべては元のとおりだ」

 涼が明るい声で言った。

「そうね」

 オレたちも元の通りに──その言葉を涼はさすがに飲み込んだ。

「3日もしたら、仕事も落ち着くやろうけん、飲みに行こ!」

 涼が言った。

「ウン。連絡して」

 満面の笑みをしている七海の顔を涼は想像してみた。

「あらっ、急に空が暗くなっちきた……」

 七海が続けた。

「きっとすごい雨が降るちゃ。お母さん、しょわねえ(大丈夫)かな……」

 七海が不安そうに言った。

「お母さん、外に?」

「そう、観月祭の準備で──」

 七海がそう答えた時、涼の頭に大粒の雨が降りかかった。

「こりゃすげえわ。お母さん、迎えにゆけちゃ」

 涼が言った。

「そうするわ」

「じゃ、七海、後でメールするちゃ」

 涼はそう言っただけで慌てて通路の中に戻った。

 バスに揺られながら萩原の表情は嶮しいままだった。

 隣席から砂川が2度ほど声をかけたが、萩原は、雨が激しく打ち付ける窓を向いたまま振り返ることはなかった。

 いや、口を開かないのは昨日の夜からだ、と砂川は思い出した。

 別府駅南口にあるアーケード商店街、その脇道にあった大衆居酒屋に入った時より今まで、萩原とはほとんど会話らしい会話をした記憶が砂川にはなかった。

 大分空港の車寄せの指定場所に停まったバスから降り立った萩原は、新聞を頭に載せて土砂降りとなった雨の中をロビーまで突っ走った。

 空港ビルの中に入った萩原は、ハンカチで濡れたスーツを忙しく拭った。

(続く)
★第69話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。

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