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電話が電信をリープフロッグする/野口悠紀雄

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※本連載は第34回です。最初から読む方はこちら。

 これまでは、国を単位として、リープフロッグ現象を見てきました。

 同じようなことが、企業について見られることもあります。新しく登場した企業が、それまで経済活動を支配していた企業をリープフロッグしていくという現象です。

 その典型的な例が、電気通信について見られます。

◆ウエスタンユニオン社が全米一の巨大企業となる

 電信は、19世紀初めに発展した電気通信技術です。 1837年に、アメリカ人のサミュエル・モールスが電信機を発明し、電信の利用が始まりました。

 その後、電信サービスは商業化されました。アメリカでは複数の電信会社が設立されましたが、それらが合併して、1851年にウエスタンユニオン社が設立されました。

 同社は、「1日以内に全米のどこにでもメッセージを送る」を宣伝文句として、事業を拡大していきました。

 ところで、初期の電信は、1本の線で1通信しかできないものだったので、通信量を増やすためには電信線を増設する必要がありました。

 この頃のニューヨーク市の風景画を見ると、電信線が無数に張り巡らされていて、空が見えないほどです。

 この状態を解決するために登場したのが、多重通信技術です。これは、1本の電信線を2倍、4倍に利用するものです。

 この技術は、電信の効率を劇的に上昇させました(実は、後で述べる電話も、多重通信の研究のなかから偶然生まれたものなのです)。

 このように技術面で大きな進歩があったため、電信線の増設による事業拡大が行われました。

 電信の用途は広がり、経済活動に欠かせない道具になりました。そして、ウエスタンユニオン社は、事業規模で全米第1の大企業となったのです。

◆電信が経済活動で不可欠の手段となる

 ウエスタンユニオン社は、1861年に、大陸横断電信線を敷設しました。

 なお、ウエスタンユニオン社が初めての大陸横断電信線を敷設した2日後に、ポニー・エクスプレスが廃止されました。これは、馬車による大陸横断の郵便速達サービスです。アメリカの西部開拓時代に大活躍したサービスが、引退していったのです。時代の移り変わりを象徴する出来事でした。

 電信事業はさらに発展し、海底ケ-ブルで大陸間を結ぼうとする事業が始まりました。

 1866年には、大西洋横断の電信ケーブルが開通しました。

 やがて、南極以外の全大陸が電信ケーブルで繋がることとなりました。人類の歴史上で初めて、地球全体をカバーする高速通信網が誕生したのです。人類は、電信線で繋がれている限り、世界のどこにでも、瞬時に情報を送れるようになりました。これは誠に画期的な出来事です。

 電報の用途は、株式相場の速報や新聞の外電などにも広がり、経済活動に欠かせない道具になりました。南北戦争でも重要な役割を果たしました。

 ところで、シャーロック・ホームズの物語は、1870年代から1910年代までのものです。これは、電報の黄金期とほぼ一致しています。

 このため、シャーロック・ホームズは、電報を頻繁に利用しています。ワトスンによれば、「電報が使える場合、彼は絶対に手紙を書かなかった」そうです(『悪魔の足』)。

『緋色の研究』では、アメリカ、クリーブランド市の警察署長宛に電報を打つ場面があります。この頃すでに、海底ケーブルによってアメリカへの電報が可能になっていたのです。

◆電話はビジネスには使えない

 こうした状況のなかで、1876年に、アレグザンダー・グラハム・ベルが電話を発明しました。

 1876年にフィラデルフィアで行なわれた建国100年祭で、ベルの電話セットが展示されました。

 当初の電話は双方向通信を行なうには技術的に難点があったので、ベルの公開実験では一方向送信を行ないました。

 1881年のパリ国際電気博覧会でもっとも人気を集めたのは、電話によるコンサートの中継放送でした(この放送は、なんとステレオで行われたのです)。

 当初は交換機がなく、専用線を使うので、特定の人としか通話できませんでした。

 最初の実験的な電話交換機は1877年に作られました。そして、さまざまな相手と通話できるようになりました。しかし、当時の電話は性能が悪く、雑音が激しくて、よく聞き取れませんでした。「訓練し、単語を繰り返せば、何とか伝わるだろう」と言われたくらいです。また、通信記録も残らないため、ビジネスには適していないとみなされていました。

 ベルの公開実験でも、人々は傍を通りすぎるだけで、実際に試聴した人は10人程度しかいなかったと言われます。

 こうした事情もあり、電話の特許を取得した翌年の1877年に、グラハム・ベルと共同出資者は、ウエスタンユニオン社に電話特許を売却しようとしたのです。

◆ビジネス史上最も愚かな決定

 ところが、ウエスタンユニオン社の社長のウィリアム・オートンは、この申し出を拒絶しました。

 彼は、「電話はおもちゃでしかない」と考えていたからです。

 ウエスタンユニオンの社内のメモには、つぎのように書かれていたそうです。「電話というものは、あまりに欠点が多すぎて、通信の手段としては、真剣な検討に値しない。この装置は、われわれにとって本質的に無価値である」

 また1880年に同社の会合で配布された資料には、つぎのようにあったそうです。

「ベルによれば、この装置は訓練されたオペレーターの助けなしに大衆が使えるものだという。電信のエンジニアであれば誰でも、こんなことは不可能だと分かるだろう。ベルの装置では、音声のみを通信に用いる。しかし、音声では確実には伝わらない。常識のある人なら、情報をこのような通信手段で送ろうとはしないだろう」

 こうした考えは、ウエスタンユニオン社の偏見とはいえません。当時の一般的な考えでした。実際、当時の『ボストン・ポスト』紙には、つぎのような論評が掲載されました。

「知識を十分持っている人なら、声を電線で伝えることなど不可能であると知っている。仮にそれができたとしても、実用的な価値はないだろう」

 ただし、後になって考えて見れば、オートンが電話の可能性を見抜けなかったことは事実です。

 オートンは、電気通信の将来が電信の進化であることに疑いを持ちませんでした。ビジネス用通信の可能性は、多重電信機の発展にこそあると考えていたのです。

 そして、電話が持つ巨大な潜在力を評価できませんでした。つまり、「将来の電気通信の主役は電信でなく電話になる」ことを見抜けなかったのです。

 オートンの決定は、「ビジネス史上でもっとも愚かな決定」と言われ、経営学の教科書でしばしば言及されます。

◆ベル電話会社を設立

 ウエスタンユニオン社に拒絶されたベルたちは、1877年に「ベル電話会社」を設立しました。しかし、会社設立後のひと月で売れた電話は、わずか6セットでしかありませんでした。

 この当時のウエスタンユニオン社は全米の電信を一手に握る巨人であり、ベル社は設立されたばかりで将来どうなるか分からない零細企業でした。ウエスタンユニオンに挑戦しようとするベル電話会社は、まさに、「牛車に向かう蟷螂の斧」でしかなかったのです。

 当時の電話では、同一回線で50人まで聞くことはできましたが、それ以上は聞けませんでした。

 1887年にハンガリーの科学者ティヴァダル・プシュカーシュが新しい交換システム発明し、50万人までが同時に聞けるようになりました。

 ただ、それによって何を行なったかといえば、双方通話ではなく、電話放送です。

 1890年代のヨーロッパの大都市には、電話放送局が設立され、毎日放送するようになりました。これらは、「テレフォン・ニュースペーパー」と呼ばれました。放送範囲は1都市に限定されており、ヘッドフォンをつけて聞くのです。劇場やコンサートの中継、教会のミサ、ニュースなどが提供されました。

 しかし、その後、電話を使った双方通話は急速に広まり、電話ビジネスは目覚ましく発展しました。

 ウエスタンユニオン社は、自ら電話事業に乗り出し、特許権を巡ってベルと争いを始めました。これは、「ダウド裁判」と呼ばれるものです。

 しかし、結局のところ、ベル社が電信事業に参入しないという条件の下で、ウエスタンユニオンは、電話事業には進出しないとする決断を下し、1879年にベルと和解したのです。

 最初にベルの提案を拒否した過ちを挽回するチャンスがあったにもかかわらず、それを取り逃がしたわけです。これも愚かな決定だったと言われます。

 ベル社は発展を続け、1885年に AT&T となり、その後1世紀にわたって電話産業のみならず、アメリカ経済に君臨しました。第二次世界大戦後、 AT&T は、従業員数が100万人を超える、歴史上最大の企業となりました。

◆かつて全米一の企業が、いまは送金会社

 いまウエスタンユニオンは、送金会社です。

 2006年1月に、150年以上の歴史を持つ電報サービスを終了したのですが、19世紀末から20世紀前半にかけて全米第1の会社だった同社の名前はあまりに由緒あるものなので、捨てられなかったのです。

「ウエスタンユニオン」という名は、日本ではそれほど知られていませんが、アメリカ人なら誰でも知っている名前なのです。

 ただ、マネーの世界では、電子マネー、仮想通貨、リブラ、中央銀行デジタル通貨など、新しい強力な手段がつぎつぎに現れています。こうした中で、ウエスタンユニオンは、すっかり影を潜めています。

 ベルが電話特許権を売りにきた段階でビジネスモデルの選択を誤らなかったなら、ウエスタンユニオン社は、その後も全米第1の企業として、アメリカ経済に君臨し続けただろうと言われます。

 そして、「アメリカ人は毎月、AT&Tに対してではなく、ウエスタンユニオン社に電話料金を払っていただろう」というのです。

(連載第34回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。


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