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中曽根康弘の遺言「歴史認識、憲法改正……言い残しておきたいこと」【特別公開】

 11月29日朝、中曽根康弘元首相が亡くなりました。101歳でした。中曽根氏は1918年、群馬県生まれ。東大卒業後、旧内務省に入り、海軍主計少佐を経て、1947年に衆院に初当選。防衛大臣、通産大臣、自民党幹事長を歴任後、1982年に第71代内閣総理大臣に就任しました。中曽根政権は、戦後5番目に長い政権です。ロナルド・レーガン米大統領とは「ロン・ヤス」と呼び合う関係で、日米関係の良好化に貢献したことで知られています。
 そんな中曽根氏が、『文藝春秋』(2015年9月号)で「大勲位の遺言」と題する文章を発表し、若者たちへのメッセージを残していました。今回、その全文を特別公開いたします。
 中曽根氏のご冥福をお祈りいたします。

日本人としての誇りや責任をどう考えるか

 まもなく70年目の終戦の日を迎える。70年前の8月15日、私は海軍主計大尉として香川県高松で玉音放送を聞いた。電波の状況が悪く、雑音も多い中でラジオから聞こえてくる陛下の御声から、戦争が終わったことは分かった。張りつめた感情の糸が切れたように悲痛とも安堵とも分からぬ感情が込み上げてきて滂沱の涙があふれ、ジリジリと焼けつく校庭で激しく鳴いている蝉の声だけが耳に迫っていたのを今でも鮮明に記憶している。

 昭和20年の秋に復員して内務省に復職し、廃墟の東京で茫然と立ち尽くし、この国を立て直していけるのだろうか、国民生活は本当に回復できるのだろうか、と思ったあの日からすれば、誠に隔世の感がある。それから70年、一面の焼け野原だった東京の町は、高層ビルで埋め尽くされ、夜になると、澄んだ夜空に一面の街灯りが広がっている。光で埋め尽くされた東京の夜景は、敗戦、復興を経て、今日の発展を成し遂げた日本の、この70年の何よりの証でもある。

 思えば、戦後日本の復興を遂行してきたのは、戦前・戦中に戦場や内地で青春を過ごした私と同世代の人々であり、日本の文化や伝統を尊重しつつ自由民主の国民的共同体のもとに新しい日本を建設しようと熱情を持って敢然と立ち上がり、国の行く末を懸命に議論しては実行していった人々である。かつて私が従事した帝国海軍は解体されて無くなってしまったが、海軍の「短現」(短期現役主計科士官=戦時における士官の不足を補うため、旧制大学出身者等を海軍が2年間に限って採用した士官制度)出身者の多くも戦後各界のリーダーとなって、我が国の発展を支えた。私が首相時代に大胆な行財政改革を成し得たのも、戦火に散っていった仲間や犠牲となった同胞への鎮魂の思いを胸にこの国の発展の礎にならんとした海軍時代の仲間達が各省庁や経済界の幹部として支えてくれたからであった。

 戦争を経験した世代の多くは鬼籍の人となり、今や戦争を知らない戦後生まれの世代が各界のリーダーとなっている。終戦直後の食うや食わずの生活からすれば、この70年で日本人は欧米先進国と同じような生活水準を享受できるようになった。自由や民主といった概念、平和主義も国民に受け入れられ、確実に日本社会に定着した。この戦後70年の日本の歩みを歴史的にどう評価すべきなのか。確かに世界に冠たる豊かさを享受するまでに国は発展したが、はたしてその果実ともいうべき国民の心の豊かさを表す精神文化はどうか、国際社会に生きる日本人としての誇りや責任はどうなのか。この節目の機会に改めて考えてみる必要はあるだろう。

 また、この70年を歴史の通過点と考えれば、我々は過去―現在―未来という歴史の連続性において日本の将来をどう捉え、国民、国家の在り方と世界との関係をどう考えるべきなのか、その進むべき進路とともに日本の姿を思い描いてゆかなければならない。過去をどう考えるかによって、導き出される今も未来も自ずと違ったものとなり得るし、当然、我々世代の解釈や認識の違いによっては国際社会の中で摩擦を生むこともある。戦後、国際社会の一員として平和と協調の道を歩み発展してきた日本のこれからの在り方が問われよう。

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あの戦争を振り返る

 戦後70年となる本年(編集部注:2015年)、政権を巻き込んでの歴史認識問題が囂(かまびす)しいが、そうした問題も踏まえ、先の戦争をどう捉えるべきなのか。

 先の世紀を歴史的に振り返れば、20世紀は「戦争と平和」、「不況と安定」の狭間に揺れ動く中で、「非戦」と「自由貿易」の潮流に向って世界が大きく動きつつあった時代と言えよう。国際法的にも20世紀には戦争の非合法化が進み、実態面でも過去の世紀に比べて暴力に訴える争いが確実に減少しているという。

 20世紀の初頭には、世界に胎動しつつあった脱植民地化の潮流と相俟って国際連盟という各国の利害を調整、解決しようという国際機関が発足する。こうした中で、日本も一旦は国際連盟の常任理事国となるが、満州国の建国を境に孤立化し、追い込まれる形で国際連盟を脱退、世界の民主主義への正統的潮流に反するような形で、無謀な戦争へと突入してしまうのである。

 第2次世界大戦というものを考えれば、それは帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦いであり、欧米諸国との間の戦争もそのような性格を持ったものであったといえる。後発国だった日本が、欧米を追い、遅れまいとして、帝国主義的対立の延長線上で起きた戦争であった。それはまた、民主主義を巡る価値的相異から起きた戦争でもあった。

まぎれもない侵略行為だった

 歴史の反省・教訓として現在まで議論が続く大きな問題としての東京裁判をどう考えるべきなのだろうか。私自身は「東京裁判史観」というものに与するものではないが、第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは複合的で、対米英、対中国、対アジアそれぞれに違った複雑な要素をもち、決して一面的な解釈で理解できるものではない。

 ただ、無謀な戦争に突入することで、300万人以上の国民が犠牲を強いられたという事実を拭い去ることはできない。昭和15年に時局が厳しさを増す中、企画院を中心に各省庁・陸海軍・民間の若手エリートが集められ、総力戦研究所が設置された。その昭和16年の総力戦の机上演習(シミュレーション)では、長期戦に日本の国力が耐えられず、敗北は避けられないという結論が出されている。にもかかわらず、そのような客観的な研究・分析を無視する形で開戦へと突入し、敗戦という無残な結果となってしまった。国民に対する責任を考えれば、当時の指導者の戦争責任を他者による東京裁判という形ではなく、日本人自らが裁き、自らの責任において決着をつけるべきものであったと思う。

 他方、アジア諸国の国民に対しては、その戦争はある面、侵略戦争でもあった。特に中国に対しては、1915年の「対華21カ条の要求」以降は、侵略的要素が非常に強くなったといえる。日本の中央政府の不拡大方針に反して現地の軍が武力行使を拡大し、張作霖爆殺事件、柳条湖事件などを引き起こした。これらの事件とその後の中国国内への事変の拡大は、中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない。また、資源獲得のための東南アジア諸国への進出も、当時、西欧諸国による植民地支配に苦しんでいたとはいえ、現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だったと言わざるを得ない。

 やはり、多くの犠牲者を出した先の戦争は、やるべからざる戦争であり、誤った戦争であったといえる。アジアの国々に対しては、侵略戦争だったと言われても仕方がないものがあったといえる。

 歴史の解釈、歴史の流れというものは、一つにはやはり国際的に通用する判断で考えなければならないし、歴史の流れ全般を考えながら大局的に判定すべきものであろう。

 20世紀の歴史の流れを大きく考えるならば、やはり、戦後日本の起点はポツダム宣言受諾に始まると考えるのが国際的通念であり、歴史とともにあの戦争と敗戦から学ぶべき教訓を我々日本人は胸に深く刻む必要がある。歴史を正視し得ない民族は、他の民族からの信頼も尊敬も得ることはできない。点検と反省により、自己の歴史の否定的な部分から目をそらすことなく、これらを直視する勇気と謙虚さを持つべきであるし、そこから汲み取るべき教訓を心に刻み、国民、国家を正しい方向に導くことこそが現代政治家の大きな責務だと考える。

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靖国問題とアジア諸国との関係

 一方、アジアとの関わりで今後も避けて通れないのが、靖国問題をはじめとした歴史問題であろう。

 首相在任中、終戦から40年目にあたる1985年8月15日、私は内閣総理大臣として初めて公式に靖国神社を参拝した。今でこそ靖国参拝は中国や韓国との関係における歴史問題として認識されているが、靖国問題はそれまでは主に政教分離原則に反するか否かという憲法問題であり、国内問題であった。そのため、公式参拝にあたっては、諮問機関(「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」)の検討のもとに「宗教色を薄めた参拝形式をとることで公式参拝は可能」との結論を得て、従来の政府見解を変更する形で公式参拝を断行した。

 たしかに、当時既にA級戦犯が合祀されており、戦争を経験し戦場で多くの肉親や部下を亡くしている国民感情からすれば一面、納得できない点もあった。そうした中で、敢えて公式参拝にこだわったのは、国を守るために亡くなった人々に1度は総理大臣が崇敬の念を表する必要がある、国を代表して英霊に感謝の誠を捧げ、平和国家建設を誓うべきとの強い思いがあった。歴代の首相は参拝の際、マスコミや世論を考えて総理大臣の公式参拝であるかどうかを曖昧にしたまま参拝を続けてきたし、そのためにも、総理大臣が国を代表して公式参拝を断行することが必要と考えていた。当時は政教分離という国内政治上の問題が最大の議論であったが、亡くなった霊を慰める行為自体は日本の文化としてごく自然な気持ちの発露であり、私個人にしても戦場に散った多くの戦友や部下、そして弟が靖国神社に祀られている。戦争を体験した者として英霊への鎮魂の思いは深く、1度は公式に参拝することを政治家となってからずっと考えていた。

 その公式参拝の後、俄に「A級戦犯合祀」の批判が中国で沸き起こった。当時、親日的であった中国の胡耀邦総書記が、私の参拝で苦境に立たされているという話とともに、訪中した新日鉄の稲山嘉寛氏を通じても、参拝を歓迎せぬ中国側の意向が伝わってきた。そうした状況の中で、1度は公式参拝断行を考えてきたわけで、これが済めば、その後の靖国参拝については、私的参拝は継続し得ても公式参拝についてはこれを取り止めることを判断した。

 やはり、日本はアジア諸国の一員であり、アジアとの友好協力関係なくしては存立し得ない。また、こうした国々との平和回復に際しても、過去についての反省と教訓を謳っている。一国の主権、内政不干渉という厳然と守らなければならない点が確かにあるが、アジア周辺国との信頼関係構築こそ最優先すべき国益と考えてのことであった。

 たしかに、歴史への反省と民族の誇りをどう両立させるかというのは難しい問題であろう。大東亜戦争に関しては、戦後の日本人の意識にまとわりついて離れぬ霧のようなものがあるように思える。本来であれば、あの戦争の指導者に対しては日本人自らがきちんと決着をつけるべきであった。しかし、東西の冷戦が始まったことで、日本社会としての戦争の総括が中途半端に終わってしまった。そのことが、あの戦争をめぐる日本人の意識の曇天につながっているように思える。

 GHQは終戦後、戦前の日本復活を禁ずべく財閥や旧内務省を解体し、日本を2度と戦争のできぬ農業国家にしようとした。東京裁判をやり公職追放を行うことで社会の中核を担っていた人材20万人近くが追放され、代わりに左派勢力が伸張した。ところが、ソ連の社会主義が勢いを増し、アジアへの共産化が眼前に広がり始めると、GHQはその政策を大転換して日本を経済復興させ、西側陣営に組み込もうとしたのである。1949年には中華人民共和国が成立し、翌年には朝鮮戦争が始まることで大きな政策転換が行われることとなる。その過程で、GHQは、今度は逆に共産主義シンパ1万人をレッドパージで追放し、さらに、日本の復興には力量のある政治家や人材が必要ということで、1度追放した人々の政財界復帰を許すこととした。

 追放解除で、能力、経験ともに優秀な人材が政治の表舞台に復帰することによって政治は安定し、55年体制という形でその後の自民党の長期政権へと繋がる原動力となった。そして、それは長期の経済発展を可能とすることにもなる。他方、左派勢力には米国に裏切られたという感情的しこりが長年にわたって残ることとなった。

 そうした一連の流れは日本社会に一種の「ねじれ」構造を生んだと言えよう。占領政策とその政策転換の引き金となる冷戦構造は日本自らの戦争責任の総括を曖昧にするとともに、その一方で、西側の一員として、世界の正統的潮流の中で今日に至る日本の戦後70年の歩みを可能にしてきたといえる。これがなければ、自由民主主義の普遍的な価値観の中で自由貿易に立脚する今の日本の姿はなかったと言えよう。

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戦後70年の評価と日本の課題

 この70年の日本の来し方を考えると、今日の繁栄は敗戦をも克服する国民一丸となった国家再建の強い意志と勤労努力の賜物であり、我々日本人はこの70年の歩みを誇りとすべきであろう。敗戦のどん底から立ち上がり、民主主義を定着させ、自由主義経済の下で国を発展させてきた。世界に窓を開き、積極的に世界の国々と協調する国際主義を貫いてきた。そのような日本の戦後70年の歩みは、世界の歴史の正統的潮流に沿ってきたものである。

 戦前の日本は資源と市場を外に求め、それゆえに大陸に手を出し南方に進出して欧米と衝突した。それに対して戦後の日本は、自由貿易に立脚した通商国家として、科学技術を発展させ、工業製品の一層の改良に努め、日々の創意工夫と研鑽そして勤労によって国を存立させてきたのである。国富を築くとともに国民生活は向上していった。戦後廃墟の中からスタートした日本は、自らの努力で戦前をも完全に凌駕するまでになったのである。

 経済は世界第3位であり、日本の文化国家としての世界での評価も高い。例えば、ノーベル賞の受賞者数を見ても、日本は世界で第8位、自然科学系だけを見れば第5位である。今世紀の自然科学系の受賞者数に限れば、英国を抜き世界第2位となる。「政治権力は文化に奉仕する」とは私の持論だが、戦後日本は政治経済の隆盛によってその花を咲かせ、世界に誇りうる文化国家としての道程を着実に歩んできたと言えよう。

 また、アジアの国々に対しては、1950年代からの政府開発援助(ODA)を通じてその経済的発展を支援してきた。こうした援助は、物理的なものに偏ることなく、積極的な留学生の受け入れや技術者の派遣などの人的援助とともに、途上国の自助努力を後押しし、持続的な経済発展を促すもので、日本企業によるアジア諸国への資本と技術の移転と相俟って、今のアジアの経済の興隆に多大な貢献をしてきた。

 このような数字と実績を見れば、この70年の歩みに日本人はもっと自信と誇りを持つべきであろう。

 だが、そうした一方で、東西冷戦終結以降、グローバリズムの影響とともに、従来の来し方に安穏とはしていられない状況が日本を席巻している。“失われた20年”と呼ばれて久しいが、政治は55年体制の崩壊の後、不安定な国政運営に終始し、経済も押寄せるグローバル化の波に混迷しながら長らく低迷からの脱却に苦しんだ。特に我が国の政治における停滞は短命に終わる政権運営によって国家の重要問題が先送りされるなど、迫りくる国内の少子高齢化や台頭する中国やアジア諸国の存在、相対的に低下する米国のプレゼンスといった現実問題に即座に対応できぬままに来てしまった。かつて、私が指摘してきた課題、財政再建や行政改革、集団的自衛権と安全保障問題、そして教育改革といった問題も根本的に手つかずのままか、あるいは改革そのものが不十分なままに今日まで推移してきた状態にある。長い混迷の末に、ようやく政治が安定を取り戻しつつある今、こうした課題に政治は果断に取り組む必要があり、それを期待して止まない。

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集団的自衛権はどうあるべきか

 そうした中で、集団的自衛権の問題は、現在の安倍内閣で大きな展開を見せつつある。昨年の7月、安倍内閣は「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備」を決定した。これによって、「国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限度の自衛」という限定的範囲における集団的自衛権の行使が可能となる道筋が開けてきた。

 国家の存立の上で、自衛権というものを考えれば、個別的自衛権と集団的自衛権は本来、同根一体のものとしてあるのであって、これを分けて考えることはできない。むしろ、個別的自衛を完全ならしめるためにも不可分一体としての集団的自衛権はある。同盟を結ぶ国に協力し、それをもって日本の防衛のためにも働いてもらうという集団的自衛権は当然認められるべきものであり、国際的通念でもある。自衛は正当防衛であるからには自国を守るための最小のものでなければならないし、限定的行使とすべきである。ただ、その限定性の範囲と内容は、時の国際情勢や地域事情の変化に伴う状況判断によるものであり、内政を含めた外交、防衛一体となった政策判断による。当然、専守防衛との整合性も求められる。

 私の従来からの主張は安全保障基本法に集約した形で集団的自衛権の限定的行使を可能とする考えであるが、今国会で切れ目のない安全保障体制を目指して「平和安全法制整備法」、「国際平和支援法」として11法案の審議が行われている。新法や多岐に渡る法律の改正もあって、議論を分かりにくくしていることは否めないため、政府としては特に「限定的」における丁寧な説明と行使範囲の内容を明確なものにする必要がある。こうした政府の対応が世論調査にも反映されるわけで、国民が抱く不安や疑念を払拭するよう国民意識や世論の動向にも細心の注意を払いながら事を進めるべきである。状況が切迫せぬ限り現状維持に留まるのは人の心理であり、政府与党はこうした意識の壁の前に緊張感をもって国会での論戦に臨む必要がある。と同時に、停滞している現状を打破する何らかの手立ても必要となる。

 戦後の日本は幸いなことに、冷戦構造の下で西側陣営に所属し、アメリカとの安全保障によって軽武装と一国平和主義に徹し、自国の安全を担保することができた。しかし、自国の防衛や世界共通の安全保障、国際貢献を他国に任せて、単なる経済面の協力だけでは今や通用しなくなってきている。各国のリーダーも自国の軍隊を海外に派兵することには非常に消極的になってきている。日本の国際的地位に相応しい貢献なくして、他国も日本を守ってくれるはずはないし国際的にも孤立してしまうであろう。日本が現在の国際秩序の下、自由で安定した政治経済システムの中で生きていくためにも、民主主義、法の支配、自由、人権、紛争の平和的解決といった現在の国際ルールを維持するためのコストを負担していく覚悟が必要となる。安全保障に片務的なものがあってはならないし、相応の責任と役割が求められている。

 他方、防衛分野における安全保障施策は安全保障全体から見れば一部の構成要件でしかない。政府は外交や官民あげての経済協力など多様な政策、施策のもとに安全保障の全体像を示しながらその意義を訴え、世論の理解を図るべきであろう。単に法制度の技術上の論議に終始してはならない。

 確かに、国連中心主義という考え方はあるが、現行で国連はその機能を十分に果たし得ていない。NATOなどとは違いアジアにおける安全保障は個々の国が米国とそれぞれ単独に条約を結ぶことで成り立っている。それはアジアという地域に国際法の網を被せたような包括的で有機的な連携システムとはなっていない。最近の中国の台頭と相対的な米国の力の減衰はこの地域に海洋問題を中心にした不安を呼び起こしている。こうした現状の中で、日本の果たすべき役割とは米国と連携しながら、いかにアジアの安全保障を有機的に結びつけ、中国をも巻き込んだより効果的な安全保障構造に結びつけるかということであり、多くの国が日本にその役割を期待している。そのためにも、中断している日中韓首脳協議の再開に向けての政治的努力を怠ってはならない。日中韓の北東アジア3国の協調関係によって初めてASEAN10カ国に米豪そしてニュージーランドも加えた16カ国の間での新たな経済機構の可能性も生まれてくる。ASEAN諸国も日中韓の融和のもとにそうした機構の創設を望んでいる。それはまた、包括的な安全保障の基礎となり、各国の利益に繋がることでもある。難航するTPPの交渉もそうした構想への布石と考えるべきだろう。現政権の勇断を評価する一方で、そうした枠組み、構想に日本自らが積極的に取り組むことで、その政治的可能性を追求するリーダシップを期待するものである。

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アベノミクスと財政健全化

 現下、アベノミクスの経済政策によって輸出産業を中心に俄かに景気回復の兆しが見え始めている。安易に財政出動ができぬ今、異例の金融緩和による株価の下支えによって市場と景気を牽引しようとしている。この状況に政府は見通しを楽観視することなく、規制改革や構造改革などの次の一手を間断なく打ち続け、新しい市場の創出とともに、この景気回復の流れを確かなものにしなければならない。特に、日本社会は人口増から人口減へと構造変化の直中(ただなか)にあり、経済の持続的発展を確実にするためにも平行して少子化対策への果敢な取組みを必要とする。

 現在まさに、政府は景気と財政再建両睨みでの財政運営を強いられている。財政におけるGDP比200%超、1000兆円を超える公債残高は国際比較においても異常である。憲法改正によって財政健全化と財政再建を位置付ける考えもあるが、実現と時間を考えればそれを待ってはいられない。今後、「社会保障と税の一体改革」のもとに社会福祉関係費用の圧縮という課題も迫っており、そこには当然、消費税10%への改正も含め、税の直間比率見直しの作業も出てこよう。政府は実質成長率2%を前提にプライマリーバランスの均衡を図ろうとしているが、景気の動向も含め不確定な要素が多い。政策選択における「成長重視」と「財政再建」の確執は、経済の行方が大きく作用するだけに一概にその善し悪しを判断できるものではない。しかしながら、国は経済の好調に決して気を緩めることなく、先々の景気動向を睨みながら財政健全化の道筋をはっきりと示しておくべき必要がある。悪化した財政状況を放置できないのは戦後日本の混乱を経験した者であれば理解できようし、現在のユーロ圏に起こりつつある混乱を見れば一目瞭然であろう。

 かつて、中曽根内閣において一律5パーセントの歳出カットを5年間行ったが、今の財政状況は更に悪化しており、それでは追い付かない可能性がある。いざとなった時、政策実施上の桎梏とならぬよう財政運営の自由度を上げておくことが必要である。財政は所得分配や資源再配分などの機能を有すが、それ故、利害配分の構造から免れ得ない。こうした利害や既得権が予算の硬直化に繋がるわけで、各省庁の予算の無駄を省き、より効率的で効果的な予算執行を図る上でも第三者機関による複数年にまたがる監視体制を法制度的に位置付け、その中で具体的な目標を定めながら歳出の合理化に努めるべきである。そこには当然のことながら継続的な行政に対する改革も必要となる。行財政改革は一内閣で事が成就できるものではない。時代状況や時代目標を踏まえながら、幾世代の内閣にもまたがり、継続的に進められるべきものである。中曽根内閣においては第2次臨時行政調査会のもとに国鉄民営化をはじめとする3公社の民営化を断行し、橋本内閣では中央1府22省庁を1府12省庁に再編する一方で内閣の機能強化を図った。経済財政諮問会議を設置し、総合調整を内閣官房に集中したが、逆に現業省庁の人材が取られ内閣官房の部局の数だけが増えて整理の必要性に迫られている。行財政改革は一体のものであり、行政組織に対する見直しを決して怠ってはならない。官僚組織における縄張り意識や既得権は必然のものであって、それをどうコントロールするかということが政治の要諦でもある。柔軟な人材登用によって省庁の縦割りの壁を打ち破り、時の政権の睨みを利かせるべく内閣人事局が発足したが、どこまで有効に活用されるかは未知数である。単なる猟官運動やポストのたらい回しであってはならない。法律制度とそれを運用する組織、そして政策の裏付けとなる予算、これらを時代の状況に合わせながら変革し、しかも行財政合理化の実をいかにあげるかということであり、そのための継続的で一体となった改革でなければならない。時代の果たすべき役割と責任を互いが共有し、いかなる政権下においても歳出の無駄を排除し、より効果的で効率的な予算の編成と執行を可能とする、政府はそのための明確な目標と工程表、そして方策を具体化しなければならない。

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若い頃の中曽根氏 ©文藝春秋

教育改革について

 様々な分野が少子高齢化とグローバリズムの潮流に飲み込まれる中、政治も経済も正にその対応に追われ続けている。安倍内閣が進める女性や若者、高齢者の活用、労働法制の見直しも少子高齢化による労働人口の減少がそれらの政策を後押ししている。また、国際化を見据えて語学やコミュニケーション能力の強化、海外からの集客などの様々な施策が打ち出されている。

 この大きな2つの流れを捉えて教育を考えれば我々は100年の大計をもって、その改革にあたるべきであり、教育は「人を育てる」という意味において、国家が長期的視点をもって取り組むべき大事業である。

 教育は憲法とならんで国家の基本を成すものだ。現憲法の影響のもとに、戦後教育も自由や民主、平等といった考え方が色濃く反映されてきた。確かに、戦後教育にはこうした文言が並ぶ一方で、それらの概念の抽象性ゆえに、どこか無色透明、無機的で、人間の軸となる基本を教えることに欠けていた。歴史や伝統、文化、家庭や家族、道徳心や公共の精神といった生きる上での基本的価値や健全なる主観を教え養うことで、それが自由、平等、民主といった考えを学ぶ上でも大事な要素となることを教育は蔑ろにしてきた。その結果、家庭や社会に様々な歪みを生み出す現実に我々は直面することになっている。

 今後、一層のグローバル化の進展によって内外の人の出入りや交流が活発化する。そうなれば尚更のこと国家としての日本のアイデンティティーは重要なものとなろう。歴史や伝統、文化そして家族といった日本人共通の価値があって初めて他民族や他文化の違いとともにその理解と尊重が可能となる。そうしたことの大事さを謳い、平成18年に改正された教育基本法は決して内向的なものでも保守的反動でもない。国際社会にあって、自らの基軸となるべき視点がなければ他者や況(ま)してや他国を理解し受け入れる力を身につけることはできない。それは主観と客観のバランスを涵養し如何に身に付けるかということでもある。人間の持つ価値観は家庭が基軸であり、その上に学校や地域、そして社会が折り重なって育まれ、日本の歴史や伝統、文化へと繋がってゆく。今後、改正した教育基本法の精神に添って、各教育分野を点検しながら1つ1つの教育施策の改革を着実に進めていかなければならない。

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孫子の世代のために

 一方、戦後の高等教育の在り方も時代の変遷の中で変化してきた。戦後復興期には技術者を中心としての量的ニーズがあり、それが1960年頃を境に質的要求に変わり、80年代以降、国際化の流れを受けて個性や創造性を重視する方向に変わってきている。グローバル化の潮流はこの傾向を一層強いものにしている。ただ、実態的には少子化を受けて学生確保のための学部学科の一部改組に終始しているケースも多々見受けられる。また、情報技術社会の進展で、容易に情報にアクセスできる利便性から、主体的に考え、課題を追求する人間力の劣化も問題とされている。

 こうしたグローバル化と情報化の中で求められるものとは広義の教養とともに自発的に考え、コミュニケーションの力によって人々と力を合わせて問題解決にあたる真の能力を備えた人材である。そのためにも自らの考え方を発信できる識見とそのための語学力、技術力そして知識が必要であり、何よりも社会的責任と使命感を備えた人間性そのものが問われる。近年、国際化の中で、求められる人材も従来の均質で一定の能力を備えた人材から、多様で複雑化する国際社会において競争に勝ち抜く柔軟な発想と対応力を持つ人材へと変わってきている。こうした意味でも単なる学歴偏重とは異なる全人的、教養主義的人材の育成が求められている。

 確かに近年「ゆとり」教育の反省から徐々に競争を促す方向に変わりつつあるが、敢えて個人の差違を明らかにし、それを独自性や独創性、良い意味での個性として伸ばす必要がある。そうした幼少教育からの連続性も含め、高等教育も再考の段階にある。優秀な人材の海外流出を食い止め、独創性と個性を持った人材を育成する上でも、単なる予算上の表面的措置に終わることなく、大学組織、企業動態、世界戦略が有機的に連携しながら、渾然一体となった更なる改革を図る必要がある。

 50年後、100年後の日本と世界を担う孫子の世代を育てる責任は我々世代が負う。それは未来の在り様に対する我々自身の責任でもある。如何なる教育を以って、その持てる能力と才を存分に発揮せしめ得るか、如何にして夢に向かって果敢に挑戦しうる希望溢れる社会を実現するか。我々世代に課された大きな責務でもある。

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「海洋型国家」の宿命

 この70年を振り返り我々の未来を展望する上でも、国はその将来に向けての国家像と明確な目標を内外に発信する必要がある。特に外交においてはアジアの一員として地域の安定とともに、その発展と繁栄に尽くす姿勢を伝えてゆかねばならない。

 日本は資源に乏しく、貿易で生きてゆかねばならず、そのためには通商、情報、金融の自由とその確保は不可欠といえる。日本はその地政学的条件からアメリカやイギリスと同じ「海洋型国家」であり、それゆえに交易の自由、海洋の自由を価値の中心に据えてきた。また、そのような日本の宿命を考えれば、同じ価値観や条件を持つアメリカとの提携は必然である。

 こうした米国との関係の一方で、日本はアジアの一員としてアジアを背景に発言し、アジア地域の安定と繁栄に貢献してゆく立場にある。日本は明治維新によってその難を逃れはしたが、アジアの多くは植民地支配に喘ぎ独立に多くの犠牲を払ってきた。そうした民族と国の歴史を考えるとき、我々は、シルクロードによって伝承された多くの文化や文物が多くの類似性をもって我々日本の文化にも息づいていることに改めて思いを致さねばならないだろう。我々はやはり源流を同じくする同胞であり、この多様性に富むアジア民族として互いに助け合いながら未来を切り拓いていく運命を共有する。これはアジアの多くの国が日本に期待することでもある。過去の戦争の失敗に対する深い思慮をもって自由民主主義国家として平和を希求し、相互の利益を尊重しながら協力し合うことでアジアの平和安定と繁栄に貢献することこそ日本の歩むべき道である。

 今でこそサミットはG7からG8・G20の主要国首脳会議へと変わり、中国、インド、インドネシア、韓国、オーストラリアなどが参加するようになったが、日本は戦後長らくアジアの代弁者としての役割を担ってきた。私が首相であった時も、サミット出席の際には、事前にアジア各国の指導者の意見を聞いて、アジアの代表としてサミットに臨んだ。国際社会においては、日本が依って立つべき土台はアジアであり、アジアの一員であることを決して忘れてはならないことの自覚と実践でもある。

 確かに、「大陸型国家」である中国は自由や民主主義といった同じ価値を必ずしも共有しておらず、その急激な台頭は、日本を含むアジアの周辺国にとっては大きな不安材料ではある。しかし、その一方で経済も含めた可能性に対する期待が大きいこともまた事実であろう。その中国にどのように臨むかは、このアジアの現状をどう考え、如何なる未来像をもってこの地域の調和と発展を図るかという政治的理念に他ならないし、大きな政治的構想力を必要とする。アジア諸国が日本に期待するのもまさにそうした大局的な将来を見据えた対話と調整であろう。

 そのような状況の中で、大戦を2度経験した西欧諸国は自ずとその行動が抑制的で自重的なものとなるが、そうしたものとは異なり、アジアでは依然として国際政治の中における力と利益と民族的面子・プライドの要素は強い。そのためアジアでは依然、そうした要素とともに国家間の力関係が交差し、歴史の葛藤とともに国益の主張が声高に叫ばれる。それ故、今後とも国民の間にナショナリズムの高揚と相俟って争いが起こることが強く懸念される。

 特に、中韓両国との間に起こる歴史問題の軋轢には慎重な態度で臨むべきであり、過去に対する率直な反省とともに言動は厳に慎むべき必要がある。民族が負った傷は3世代100年は消えぬものと考えなければならない。そうした軋みの反動で不用意な発言をして国家間の関係悪化となったことも多々ある。私自身は徳富蘇峰や松村謙三、高碕達之助等の先達から中国や近隣国との付き合いの重要性を学んだ。そうした過程で、中国や韓国の要人とも交流を深め、胸襟を開いて本音で話合いができるように心掛け、努力もしてきた。官僚外交とは違い政治における外交とは相手の面子を立てることにある。中長期にわたる近隣国との安定した関係を構築する上でも弛まぬ対話を続けることで、より深い相互理解の道を歩むべきである。近年、互いの国の世代の代替わりで、人間関係が希薄になりつつあることを憂慮する。世代を越えた多層的で多面的、多重的な交流を旨として未来を見据えた関係の構築を目指さねばならない。

 政治家として日本を長く見ている立場から、日本人の国民性、特に時流に対する熱狂の一方で、こと冷めやすいという曖昧模糊とした特性には危惧と一抹の不安を感じる。近年、中国や韓国が日本に対して歴史的反省を強制するかのような言動の繰り返しに対する反作用として、わが国でヘイトスピーチなどの過度のナショナリズムが起きつつあることには懸念を抱かざるを得ない。反省はあの戦争を実行・体験した世代が自省として行うものであって、強制であってはならないと考えているが、愛国心もまた中庸で健全であるべきで、偏狭なナショナリズムに陥ってはならない。その点に関して、政治は国益を長期的な観点から見据え、短期的に起こりうる過度のナショナリズムに対して、身をもって防波堤としてこれを抑える必要がある。

 私自らの経験に照らして、次に掲げる外交の4原則はこの国の外交において肝要なものと考える。

 ① 国力以上の対外活動をしてはならない
 ② 外交はギャンブルであってはならない
 ③ 内政と外交を混交してはならない
 ④ 世界史の正統的潮流を外れてはならない

 というものであるが、やはり歴史上からの教訓をいかに学ぶかということに尽きよう。あの大東亜戦争を経験した私の長い政治家としての人生を振り返ることで、そこから培われた教訓を申し述べておきたい。

我々の手による堂々たる憲法を

 昨年、憲法改正の手続きを定めた改正国民投票法が与野党8党の合意で成立した。現在、国会では衆参両院の憲法審査会が随時開かれているが、各党は試案を出し合いながら議論を深め、改正に向けて更に論議を前進させるべきと考える。新聞社や民間の改正試案も出されており活発な議論を期待するものだ。

 私が政治家として生涯の目標としてきた憲法改正も、長い年月と時代の変遷の中で紆余曲折を経てきた。思えば、28歳の初当選時から一貫して憲法改正を主張し訴えてきたわけで、「憲法改正の歌」を作り、「首相公選論」を唱え、懸命に国民世論の喚起を図ってきたが、池田内閣の所得倍増と高度経済成長の前にこうした運動や掛け声はかき消されていった。やはり、あの戦争による国民の厭戦感と生活向上への強い欲求があって、この意識の壁を破ることは容易なことではなかったと思う。その間に、現憲法も国民の間に受け入れられ、自由や民主主義そして平等という考えも定着し、今日の日本の繁栄を支える大きな基礎になったことは否定できない。

 ただ、その過程の中で見失ったことも多い。先にも述べたが、やはり歴史や伝統、文化といった日本固有の価値を謳わぬことは、その国の憲法にとって大きな欠落と言うべきであろう。我々は何をもって自らのアイデンティティーとするかといえば、民族国家としての悠久からの歩みであり、そこから積み重なりながら生まれた万古不易の民族的価値こそ我々の核となるべきものなのである。我々はこうした民族独自の共通価値と自由、民主、平等、平和といった普遍的価値を軸に、国内外の情勢や動向を見廻しながら新しい時代を切り拓く我々の手による堂々たる憲法を作らねばならない。それは民主主義国家としてのこの70年の日本の平和の歩みを国是として刻み、これからの礎としながら、新しい時代をどう考え、国運を如何に拓くかという我々の課題でもある。

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97歳(当時)の私から若い世代へ

 未来が歴史から学び得た反省とそれによる進歩にあるとすれば、我々は2度と繰り返してはならぬ過ちに対する自省と共に新しい時代を拓くべく理想をもって前進して行かねばならない。この70年という節目はそうしたスタンド・ポイントでもある。深い歴史観によって来るべき時代を展望し、その目標に向かって果敢に挑戦する姿こそ政治に課せられた役割でもある。97歳となった私にとって、自らの人生の来し方とともにこの70年を思えば、はるけくも来つるものかなの感慨は深い。年齢の重なりとともに心が濾過されるようで、世の中の流れが聞こえてくるようになってきた。アジアや世界で起こりうる出来事もまた一面、歴史の必然に思える。経験によって培われた歴史観がそうさせるのかもしれない。我々民族の未来を想えば営々として続く生活と文化がそこにあり、悠久の歴史を未来に向けて刻んでゆく。私自身はこの国の未来に対し楽観的ではある。しかしながら、近年、政治、経済、学究の世界がどこか現状に満足しているように見えて、時代を凌駕する新たな考え、思想と共に、体制を革新、刷新するという声や主張が聞こえて来ないのは誠に寂しい限りと言わざるを得ない。戦後の国の進路をめぐっては国論を二分する形で論戦に明け暮れ、自由世界にその身を置いて後も、常に国の在り方や行く末を案じながら激しく議論が戦わされてきた。そうした幾世代の重なりの中で、政治はその役割を果たさんと必死で革新を訴え、論陣を張ってきたのである。現状に安住することでは進歩は生まれ得ない。

 我々は科学技術文明によって未来を拓く一方で、より高い精神文明の在り方を目指しながら、求める理想郷に一歩でも近づかんと懸命に努力を重ね、歴史の次なる高みへとその歩みを進めてゆかねばならない。そうした我々民族の営々とした歩みこそがこの国の軌跡となって未来へと繋がって行く。現状に甘んずることなく、自らの可能性を追い求め、目標とする理想へと前進する若い世代の一層の奮起を期待して止まない。


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