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消えるバッセン カルロス矢吹(ライター)

文・カルロス矢吹(ライター)

今年の2月に『日本バッティングセンター考』という本を上梓した。バッティングセンター(以下、「バッセン」と略す)は、日本では極めて一般的な施設だ。米国など、野球が盛んな国にもあることはあるのだが、あくまで練習施設として建てられている。日本の様に大衆向けの娯楽施設ではない。

なのに、メディアに取り上げられる時は「ホームランを打つおじいちゃん」など、お客さんしか取り上げられない。それなら、なぜバッセンは建てられ、そしてなぜ日本に定着したのか? その経緯を自分がオーナー達に取材して調べてみよう。そう思い、取材を進めることにした。おかげでバッセンの謎、歴史はある程度紐解けたつもりだ。

日本にバッセンが生まれたのは1965年12月28日のこと。東京都墨田区の下町、錦糸町にある商業施設、楽天地ビルの屋上にオープンした「楽天地バッティングセンター」が日本のバッセン第一号である。このビルは当時から、映画館や温浴施設を兼ね備えた複合型娯楽施設として東京では有名だった。すぐにテレビに取り上げられお客さんが詰め掛け、それを見て全国にバッセンが出来始めた。

この時もそれなりに流行ったのだが、バッセンが完全に日本に定着したのは73年以降のこと。当時は空前のボウリングブーム、全国にボウリング場は3500軒あったというが、同年起こったオイルショックに伴う不況により、ボウリング場の経営者達は施設の維持に苦心した。そこでボウリング場よりは経営コストのかからないバッセンに目をつけ、空きスペースにバッセンが建てられていったのだ。

その結果、76年にバッセンは全国に1500軒前後まで増えていたとされている。この時期には地方でも年商1億円稼ぐ店もあったそうだ。その後もバッセンは庶民の娯楽として親しまれたが、94年にイチローの登場で転機を迎える。彼がメディアに取り上げられるたび「バッセンに父と通った」というエピソードが紹介され、バッセンも本気で通っていればその道はプロ野球、果てはメジャーまで通じていることを証明してくれた。

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