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上皇后美智子さまとの50年 末盛千枝子

「自分は皆さんにゆるされてここまで来た」――時々そう言われることに驚かされる。/文・末盛千枝子(編集者)

末盛千枝子

末森さん

「皇后さまのプレゼンス」

眞子さまのことがあったからなのだろうか、この頃、しきりに、上皇さまご夫妻がご結婚なさった時のことを思う。あの若さで、自分にとっては、絶対に公務が一番なのだけれど、それでも結婚してほしいとおっしゃる上皇さまの純粋で強い御意志。そして、結局はそのお心の定まりように心を打たれた上皇后さま。実はあのご婚約の時のテレビでの記者会見で美智子さまの「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げていかれる方」という言葉をなんだかとても紋切り型だと思ってしまった記憶が私にはある。もちろん緊張しておられたのだとは思うけれど、どうしてもう少し柔らかいお言葉が出ないのだろうかと思ったのだ。

ニュースで見ていた私は、まだ本当に若かったし、全くわかっていなかったのだと今になって心から申し訳なく思う。どれほどの困難が行く手に待ち受けているか、想像はなさっただろうけれど、最初からお付きとして周りにおられる方たちは皆さん元華族や、旧宮家に連なる方たちだっただろうと思うと身のすくむ思いがする。どんなに大変でいらしたことだろうか。

それでも、何を指してそう言われるのかはわからないのだけれど、「自分は皆さんにゆるされてここまで来たのだから」ということを今も時々言われる。それは、あのご婚約の時と少しも変わらない。確か、どこか外国を訪問された時に、現地の新聞が、皇后さまのプレゼンス(存在感)そのものに心打たれるものがあると書いていたように思うが、許されながら生きるというどこか控えた姿勢は、もしかしたら御成婚以前、クラス全員の投票で過半数を得て学生代表に選出されながらも、不安と努力の中で、クラスの多くの人の協力に助けられ、役目を果たされたという過去のご経験とも無関係ではないようにも思う。

実はこの夏に私が以前に書いた『「私」を受け容れて生きる』という本が文庫になり、迷ったけれど「私たちの幸せ――皇后美智子様のこと」という章があるので、新しく書いてくださった山根基世さんの解説だけでもお読みいただければ、とメモを付けてそれをお送りした。早速に、山根さんの解説を読まれたこと、「永いこと末盛さんについてぼんやりと感じていたこと」が本当によく言語化されていて、改めて「ああ、そういうことだったのだ」と深く共感したことを伝えてくださった。そして、いつものように、息子たちがどうしているか、タケちゃんは元気ね、と障害をもつ長男のことを聞いてくださった。そして、ちょうど連絡があったばかりだったので、美智子さまのことだけを書いた『根っこと翼』も文庫にしたいと出版社から言ってきていますとお伝えした。

今は高輪の仮御所にお住まいの上皇さまご夫妻は、近く赤坂御所にお戻りになるのだと思う。赤坂御所は両陛下がご結婚から一年ほど後にお移りになり、即位されてからも数年住まわれていた。お子様方は、皆様この赤坂で成長され、溢れるほどの思い出のあるお住まいだと思う。1993年に皇居に移居された時には、

三十余年さんじふよねん 君と過ごししこの御所に 夕焼の空見ゆる窓あり

と赤坂御所への思いを御歌として詠まれた。今は改修工事中のようだけれど、10月初めにその頃を知らない今の上皇職職員に、当時のお部屋割りなどをご説明になるため、上皇さまとお揃いでお出ましになり、その時、本当に久々にご様子を拝見することができた。

何時だったか、もう高輪に移られた後だったと思うが、無事に上皇さまを赤坂にお連れしなければ、それが私の一番の務めだから、というような事をおっしゃったのが胸にのこった。全ては陛下のために、というお気持ちはずっと変わらない。それはご婚約の時から変わらないのだと思った。ご自分の人生を本当に使命として生きておられるのだと改めて思った。

それはちょうどシスターたちが自分の一生を祈りと労働に捧げて生きるのと同じように思える。やはり、聖心女子大で身につけられたことだろうか。上に立つ者の人生とはそういうものなのだと思う。つまり人々のために、苦しみ、悲しみ、そして共に喜ぶということなのだろう。美智子さまは庶民のご出身ではあったけれど、まさにそれを生きてこられたのだと思う。私たちにはわからないような困難が今もおありだろうと思う。ご自分が信じ、尊敬する方を支えることが、自分に求められる立場だと思っておられるのだろう。そのために捨てたものについては語られず、新しい立場を引き受けることこそがご自分の人生だと思っておられるのだろう。

先日、戦後すぐの1947年に私の父・舟越保武が作った大理石の婦人像がパリでオークションに出たという事を申し上げた。私がまだ6歳ぐらいの頃、父が大理石の粉で真っ白になって彫り上げた作品で、当時のフランス大使が気に入って買われたと聞いていた。長い間、あの彫刻はどうしたのだろうか、フランス大使館の倉庫にでも眠っているのだろうかと思ったりしていたのだけれど、思わぬところで見つかった。ちょうどそんな時にお話しする機会があったので、そのことを申し上げると、写真が見られるだろうかと言われたので、手元にあるプリントアウトした写真を早速お送りした。

実はずいぶん前に、何かご心配事でもおありだったのだろうか、渡邉允侍従長から電話で、どこかで父の作品をまとまって見られるところはないか、と聞かれたときに、とっさには思いつかず、岩手県立美術館ぐらいしか思いつきませんが、と間の抜けたご返事をしてしまったことがあった。父の作品はデッサンを含めて気にかけていただいていた。幸い、そのパリで見つかった作品は日本にやってくるようなので、見ていただけたらと夢のように思う。

50年前、大磯で

私が初めて美智子さまにお目にかかったのは、まだ皇太子妃でいらした1960年代の終わり頃で、大磯にお住まいだった画家の堀文子さんのお宅だった。絵本出版社の至光社の新入社員だった私は、堀さんのお宅にお手伝いに伺った。『星の王子さま』の翻訳者として有名な内藤濯さんを囲んだ小さな読書会があって、そこに美智子さまも時々参加しておられたのだった。そのうちの何人かが堀さんのお宅にいらっしゃるということになり、しかも妃殿下もいらっしゃるということで、手伝いに駆り出されたのだった。

そして、その頃、至光社で出していた『ひろば』という大人向けの雑誌の表紙が父のデッサンだったので、多分、ご挨拶した時に、その娘として紹介されたのだと思う。きっと美智子さまはその表紙がお好きで、私のこともその関係で覚えていてくださったのだと思う。何しろそれから20年以上も経って、まど・みちおさんの『THE ANIMALS・どうぶつたち』という本を日米共同で出版しないかという話が、ちょうど自分の出版社「すえもりブックス」を立ち上げた私に降って湧いた。それは島多代さんからだった。島さんは、聖心女子大で美智子さまの下級生で、しかも、あの小泉信三さんは大叔父に当たるのだった。

彼女は、ご主人の転勤でアメリカから帰ってきた時に、私も働いていた絵本の至光社に手伝いに来ていて、とても気が合っていた。その後、またアメリカに転勤で行かれ、今度はワシントンD.C.で、児童書の人脈を一段と広げられた。しかも、そのワシントン在住の時に後に侍従長になられる渡邉さんご一家と親しかった。

美智子さまの翻訳によるまどさんの本の出版となれば、これは大変なことだと、たじろぐような思いはあったけれど、出版の仕事をしようとしている時に、これはやはり、自分に与えられた務めとして受けようと決心した。安野光雅さんのデザインされた洒落た切り絵の表紙の見本を持って、島さんと赤坂御所に伺った時、美智子さまは、その昔大磯の堀さんのお宅でご挨拶した時のことを覚えていてくださって、「あの時お会いしましたね」と言ってくださった。本当に驚き、嬉しかった。美智子さまの驚くほどの記憶力に接した最初の経験だったと思う。それからいくつもの本をご一緒することになるその始まりだった。つまり、最初に大磯でお会いしてから今に至るまで、ほぼ50年になる。

この50年の間には、本当にいろいろなことがあった。あの沖縄での火炎瓶事件の時、ああ、この方はこのようなことをご一緒に受け止める覚悟でご結婚なさったのだと思ったのが忘れられない。美智子さまは皇后さまになられ、本当に美しく、どんなに大変でも陛下を支えてこられた。あのお声を失われた時にも、すぐそのあとに、お声が出ないまま、陛下とご一緒に地方への公務にお出かけになられた。はっきりおっしゃることはないけれど、ご自分の理想として、目立たなくても、ご自分のプレゼンスがいい形で、人々の幸せに役立つことができればと思っておられるのではないだろうか。私の友人が、ある時、「美智子さまが皇后さまでいらしてくださって、私たちは本当に幸せよね」と言った。突然のことに、ちょっと驚いたが、嬉しい思いが溢れるようだった。このことはご本人にお話ししたのだっただろうか。恐らくまだしていない。

美智子さまが子供時代の読書の思い出を語った講演「橋をかける」は、最初からまるで、ミッション・インポッシブルと思わせるようなスリルに満ちたものだった。まず、まど・みちおさんが美智子さまの訳された詩集『どうぶつたち』(1992年刊)に助けられて、1994年にスペインのセビリアで開かれたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会で国際アンデルセン賞を受けられた。そこに至るまでは、島多代さんや猪熊葉子さんが、詩を訳すのは詩人にしかできないからといって、その頃まだ全詩集のようなものがなかったまどさんの作品を何冊か美智子さまにお届けし、お願いしたのだった。しかも、最初のお願いの時から、IBBYは貧乏だから原稿料は無しでと申し上げたらしく、このことは後にスイス・バーゼルでのIBBY五十周年記念大会のオープニングスピーチで美智子さまが楽しそうに振り返ってお話しになり、会場は笑いに包まれた。ともかく、それまでに、まどさんの詩が外国に紹介されたことは一度も無かった。そもそも、島さんが美智子さまにお願いしたのは、国際文化会館の図書室で見かけたJapan P.E.N. Clubの冊子に美智子さまの英訳された永瀬清子さんの「あけがたにくる人よ」という詩を見つけたからだった。島さんは「これだっ!」と思ったにちがいない。

美智子さまは、それまでも英詩の朗読会で度々日本の詩人の詩を英訳して読んでおられていた。それでも、この時の「お願い」は余りに責任が重いと思われたのだろう。「他の方にもお願いしてね」と言って心配しておられた。しばらくして、まどさんの詩の中から、まず二十篇の動物に関する詩だけを集めて訳されたものを右ページに英語、左ページに日本語という形でまとめた冊子を作ってくださった。それは、わら半紙にタイプで打たれた素朴な作りだったが、見事な構成で、これが日米共同出版で出された『どうぶつたち』のもとになった。私はその本の日本側の出版社として、そのセビリア大会の参加国、40カ国くらいだっただろうか、各国に1冊ずつわたるように会場に持参した。責任があるような気がしたのだった。

少し話をはしょってしまったが、この訳が出来てから受賞まで4年以上の歳月が流れたが、この間にまどさんが戦争中に北原白秋の勧めで書いた一、二篇の詩について指摘する声があり、候補を辞退した経緯がある。

まどさんはご高齢のため、セビリアの授賞式には行かれなかったけれど、ビデオで、素敵な受賞者挨拶をされた。インドの代表たちは、4年後の1998年9月のIBBY世界大会がニューデリーで開かれることが決まったので、それならば是非、まどさんの詩をこんなに美しく訳した皇后美智子さまに基調講演をお願いしたいから助けてほしいと言い出した。あの時のインドの代表者ジャファ夫人の興奮した様子は忘れられない。そんなこと、突然言われても、とあっけに取られるようだった。

それから4年間、彼女たちは、IBBYを交えて宮内庁と粘り強く交渉を繰り返し、「子供の本を通しての平和」というテーマで行われるIBBYニューデリー大会への美智子さまの御出席を願い続けたのだった。そのうち、大変良い会のようなので、ぜひお出かけくださいという政府のお墨付きも出て、だんだんそれが実現しそうになってきた。美智子さまもこの時は島さんや他の方にも相談されながら、オープニングでの基調講演の原稿を書いておられた。まず日本語で書かれ、そのあとで、御用掛だったアイリーン・加藤さんの助言も得つつ英訳されたのではないだろうか。

ところがその頃になって、インドが核実験をするということが起こった。ある朝、新聞の一面に「インド核実験」という大きな文字を見た時のショックは忘れがたい。ああ、これで美智子さまのインド行きは無くなったとその瞬間思った。1998年5月のことだった。ところが、美智子さまは時間を見つけては淡々と9月の大会に向けて原稿に手を入れておられて、揺らぐことがなかった。慌てることもなく、「子供の本を通しての平和」というテーマで開催される大会に相応しい言葉はどんなことだろうと考え続けていらしたように思う。

橋をかける

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