観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#11 麻生幾

第11話
塩屋の坂 (6)

★前回の話はこちら
※本連載は第11話です。最初から読む方はこちら。

 父が病気で亡くなったことを聞かされた時のことだ。

 悲しみに体と心が押し潰されそうになった七海は、父にもう一度、会いたくなって、泣きながら、1人、「塩屋の坂」の石畳の上にやって来た。

 父が生きている頃、よくここに連れて来てくれて、この「塩屋の坂」の石畳の最上段に座っていろんな話をした。父とのそんな思い出に無性に浸りたかったからだ。

 しかし、観光客が多くて石畳に座れなかった。でも七海はどうしても、そこへ座って、向こう側の「酢屋の坂」の石畳を見通したかった。

 そうすることで、今も、父が私の横にいてくれる、そんな気がしたからだ。

 そして、石畳の回りを必死に探し回った挙げ句、その“隠れ草むら”をついに見つけることになったのだ。

 今、この時間、観光客だけでなく、住民の姿も辺りにはほとんどなかった。

 七海は、目尻を指先で拭った。

 30年も経っても尚、つまりいい歳をして、父を懐かしく思って心を乱されるなんて、母も含めて誰にも言えなかった。

 涼にだけはいつか言おうと思っている。だが、それは結婚を決めた時だと思っていた。

 父は、あの時、私の小さな肩を抱いて、この同じ「塩屋の坂」の石畳の最上段に座って優しく語りかけた。

 その時の言葉は今でも鮮明に覚えている。

「七海ちゃん、これから大変なことがあったら、この言葉を忘れないで。“いつもお父さんが七海ちゃんと一緒におる。やけん元気になるる”」

 4歳なら普通は覚えているものじゃない。しかし、それを聞かされたのは、母から、父の死を伝えられた、その直前のことで、父を激しく想う心が、父の言葉を追い求め、その言葉を深く刻ませたのだ。

 父はずっと病に冒され、その日が近いことを覚悟していたのだろう。だから、そんな言葉を七海に託したのだ。

 それ以来、小学生から高校生に至るまで、学校でイジメにあった時や、大学を出て小学校の教員となってからパワハラにあった時など、大きな悩みに身を裂かれるような思いになった時、七海はいつもここにやってきて、父のその言葉を思い出してきた。

 そして、その父の言葉をずっと心の支えとしていたのだ。

 いや、もっと強い気持ちだった、と七海は思い直した。

 父のその言葉があったからこそ、生きてこられた、との悲愴な思いさえずっとあった。

 今回もそうだ、と七海はずっと忘れていたことを思い出した。

 殺人事件のことばかりに気を取られ、昨夜のこと、そしてここ数週間、誰かに追われ、監視されているような感覚に陥ったことを忘れていたことに七海は気がついたのだった。

 そのことこそ、七海は父に相談したかった。

 七海は、いつものように、心の声で父に語りかけた。

〈お父さん、いつも私と一緒におるんなら答えち。私に危険なことが待っちょんの?〉

 脳裡に、ふとその言葉が浮かんだ。

〈タクシーに乗れば……〉

 そう、駅からは、当分、タクシーに乗ろう。そうすれば、家のすぐ前まで連れて行ってくれる──。

 七海は、思いついたその言葉は、父からの答えだと、真剣にそう思った。
その時、ふとある映像が脳裡に蘇った。

 昨日の夜、変な男に襲われた時のことだ。考えてみれば、助けてくれた熊坂さんは、なぜあんな時刻に、ウチの近くにいたんだろう……。

 しかも、自分に声をかけてくれたっていいものを、なぜ急にいなくなったのか……。

 そして、なぜ、そこにいなかった、と警察に嘘をついているのか……。

 七海の脳裡に、ある妄想が浮かび上がった。

 昨日、誰かに襲われ、それで熊坂さんが助けてくれたことと、そのことと、今日の殺人事件とがもし繋がっているとすれば……。

 メールの着信を告げるバイブレーションに、七海は飛び上がらんばかりに驚いた。

 ディスプレイには、涼の名前があった。

「夕方は、変なこと言っちゃってごめん。それだけ言いたくて。おやすみ」

 七海は“隠れ草むら”の中で、1人、ニヤついた。

 メールでは気取って標準語になる、そんな涼のナイーブさを七海は嫌いではなかった。

 いつまでも心に生きる父の愛、そして、今は、涼の愛も感じる。

 もちろん、母の愛も間違いなく──。

 今の気持ちの余韻を楽しみながら、七海は、草むらから外へ出た。

 石畳をしばらく歩いた、その直後だった。

 七海の表情が一変した。

 意を決して、背後を振り返った。

 暗すぎてよく見えないが、明らかに人の気配がした。

 呼吸も止めた七海は、辺りの音に耳をそばだてた。

 足音は聞こえなかった。

 暗闇が辺りを包んでいるが、月明かりがぼんやりと舗道を照らしている。 

 七海の視界の中には、誰の存在も入らなかった。

 だが、感覚だけはあった。

 ──誰かがこっちを見ている……。

 ここから全速力で駆け出せば、自宅に辿り着くまで3分──七海はそう見積もった。

 いや、男の足なら、突然、次の角から飛び出せば容易に追いつく……。

 しかし、ここにいればもっと危険だ、と七海は思った。

(続く)
★第12話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。 
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