保阪正康「日本の地下水脈」|国家主義者たちの群像
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保阪正康「日本の地下水脈」|国家主義者たちの群像

北一輝や大川周明らの思想に感電した青年将校は「昭和維新」に突き進むが……。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成・栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

老壮会以降の右派

明治維新から50年余が過ぎた大正中期、日本社会は曲がり角に直面していた。

第1次世界大戦で日本は戦勝国となり、国際連盟の常任理事国として列強の一角に加わった。だが、国内では富国強兵政策の矛盾が露呈していた。工業化が急速に進む一方、公害などの都市問題が顕著になった。都市と農村の経済格差も深刻化した。大戦末期の大正7(1918)年7月には近代日本最大の民衆蜂起、米騒動が起きたのは前回見た通りだ。さらに国民の権利拡大を希求する声が高まり、絶対君主制である天皇制との緊張関係が高まった。

一方、天皇を頂点とする国家体制を信奉する者たちや農本主義者らも、内外の諸問題に危機感を抱いていた。目指す国家体制は異なるとはいえ、現状の改革を目指す動きが活発化し始めた。

こうした中、思想家たちが主義主張を超えて集ったのが、前回ふれた「老壮会」である。思想家・社会運動家の満川亀太郎が大正7年に設立した同会は、思想の交差点ともいうべき結社であった。大正11年まで44回もの勉強会を開き、社会主義者から国家主義者まで様々な言論人が意見を交換し、刺激し合った。前回は、老壮会の活動やそこに集った多士済々の顔ぶれを振り返った。

老壮会は4年余りで自然解散してしまう。だが、老壮会という思想の合流点を経て、日本における思想の水脈は大きく変わった。老壮会以後、いわゆる左翼、右翼の流れがはっきりとしてきたのである。

また、老壮会から分岐した国家主義者たちは、軍部の一部に大きな影響を与えることとなった。その後の昭和の戦争に至るプロセスでも、この点を抜きにしては語れない。今回は、老壮会以降の右派の流れを見てみたい。

老壮会から猶存社へ

老壮会が発足した頃、ロシアでは革命勢力が政権を握った。史上初の社会主義国家の成立は、日本の政治家や軍人、思想家たちに大きな衝撃を与えた。本国内でも労働争議や農村の小作争議が広まった。言論界ではそれまでのユートピア的な社会主義理論の段階から、実現可能な体制としての社会主義という認識が広がった。そこで、現状に対して具体的にどのようなアプローチをするのか、それぞれの勢力が試されることになったのである。

老壮会では諸派諸思想の者たちが議論を重ねた。すると、それぞれの立場や考え方の違いがむしろ鮮明になり、若手の思想家たちによる結びつきが加速化した。そのなかで大正8(1919)年に誕生したのが、「猶存社」である。満川の回顧録『三国干渉以後』には、猶存社設立の経緯と名前の由来について、こう記されている。

「老壮会の国家主義者中、一途に国内改造を目指せる人々は、最早毎週第一回位の集会討究に満足出来なくなった。出来るならば夜を日に継いで終始集まってきて、イザ大事勃発の時機には即刻間に合わせるだけの準備を整えて置かねばならないと思った。(中略)

今や天下非常の時、何時までも文筆を弄しているべき秋(とき)ではない。我らは兜に薫香をたきこめた古名将の如き覚悟を以て日本改造の巷に立たねばならぬ。慷慨の志猶存す(後略)」

戦国時代の武将が出陣する際、討ち死にして敵に首を取られた時のことを想定し、あらかじめ香をたき、兜に薫りをつける。社会の非に憤る我々が結社するに当たっては、かように死を覚悟して国家改造を目指す、という決意の表れであった。

北一輝と大川周明

猶存社の中心メンバーとなったのは、北一輝である。

北は明治16(1883)年、新潟県佐渡島に生まれた。本名は輝次郎。早稲田大学の聴講生として学びつつ、ほぼ独学で独自の革命理論を形成していった。満川とも親交があった北は、上海に渡って中国の辛亥革命に関与し、中国風の「北一輝」の名を名乗るようになった。

そんな北を訪ねて上海までやってきたのは、老壮会に所属していた大川周明であった。

大川は明治19年、山形県酒田市に生まれた。東京帝国大学哲学科卒業後、インドの独立運動を支援するなど、アジアの連携を目指す「アジア主義」の論客であった。大川は南満洲鉄道株式会社(満鉄)嘱託などを経て、老壮会に参加する。その後、昭和6(1931)年の三月事件、十月事件、翌昭和7年の血盟団事件、五・一五事件などのクーデター未遂や政治テロのいずれの事件にも関与した。また、満州事変の首謀者らに影響を与え、戦後の東京裁判ではA級戦犯として起訴された。一方で、晩年にはコーラン全文を翻訳するなど、イスラム教、イスラム文化にも造詣が深かった。

大川の説得に応じた北は「国家改造案原理大綱」を携えて帰国し、大川とともに猶存社に参加した。大綱は後に「日本改造法案大綱」となる。

北が36歳のときに書き上げた大綱には、「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並到ラントスル未曽有ノ国難ニ臨メリ」という時代認識のもと、「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」とある。さらに枢密院や貴族院、華族制の廃止、天皇財産の国有化、私有財産・私有地の制限などを提言している。25歳以上の男性に選挙権を認めるなど、急進的な内容であった。

大綱は政府により発禁処分となったが、のちに伏せ字だらけの形で発刊された。天皇を頂点として、明治維新以来の階級秩序や、資本主義の浸透による貧富の格差を覆す北の思想は、北の側近で陸軍士官学校の学生であった西田税(みつぎ)を通じて陸軍の青年将校らの間に広まった。これがのちに二・二六事件につながったと指摘されている。

猶存社のスローガンは「日本帝国の改造とアジア民族の解放」で、綱領は以下の通りである。

一、革命日本の建設
二、日本国民の思想的充実
三、日本国家の合理的組織
四、民族解放運動
五、道義的対外政策の遂行
六、改造運動の連絡
七、戦闘的同志の精神的鍛錬

他の主なメンバーには、西田税や陽明学者の安岡正篤らがいた。機関誌『雄叫』を刊行し、右派の思想的拠点として活動を始めた。

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北一輝

高畠素之の国家社会主義

老壮会には、社会主義運動の旗手であった高畠素之も参加していた。後にマルクス『資本論』の翻訳をする高畠は、大川とは別のかたちで国家改造を目指すようになる。満川の回顧録には、こう書かれている。

「当時日本には未だコムミニストなる者はいなかった。『主義者』と呼びなされた社会主義者が最左翼を承ってはいたが、資本論の邦訳すらが許されていなかったほどであるから、もとより果敢なる実践に移ることなど思いも寄らず、わずかに売文社の楼上に籠城して、雑誌『新社会』誌上、局限されたる筆に鬱憤の小出しをしていた位であった。だが高畠一派は社会情勢漸く我に佳なるを認識し、何時までも売文社の山上に日和見していることがもどかしくなったらしい。殊に老壮会に接触してからは一段とその自信を強めたのであろう。同人に対してしきりに山を下るべきことを説いたが、堺(利彦)、山川(均)両氏は尚早の故を以て承知しなかった」

売文社は、新聞や雑誌の原稿執筆や翻訳などを手がけた結社だ。大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、社会主義が長く「冬の時代」に入ってからも、社会主義の灯を守った独自の思想団体である。高畠は堺、山川とともに同社で言論による社会主義推進を目指していた。

だが、高畠は次第にそれでは飽き足らなくなり、より急進的な活動を模索するうちに国家社会主義を提唱するようになる。老壮会での刺激が高畠に影響を与えたのであろうか。

高畠は堺らと袂を分かち、大正12(1923)年に経綸学盟を結成、国家社会主義者の育成に当たった。天皇主権説論者で、天皇機関説の美濃部達吉と激しい論争を繰り広げた上杉慎吉(東京帝大教授)とも連携した。老壮会が終焉した後から昭和に入っていくまでの数年間は、右翼側である国家主義運動、民族主義側の陣営にとっての一つの胎動期ともいえる。

「思想」を求めた青年将校

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