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小説「観月 KANGETSU」#56 麻生幾

第56話
納戸(3)

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 それも、ダイヤルは普通ならば、3桁か4桁のものがほとんどであるのに、これは6桁もある。

 さらに目を近づけると、同じタイプの鍵は2個も設置されてあることがわかった。

 もうひとつ気づいたことがあった。

 このカバンは長い間、2つ折りにされて狭いところに押し込まれていたはずだ、ということだ。

 カバンの真ん中が深く窪み左右に伸びているからである。

 さらにカバンに近づいた七海は何の躊躇もなくカバンを手に取った。

 ずっしりとした重さがあった。

 本革造りである臭いがした。

 とすれば相当、高価なものである。

 しかも20年か、それ以上前のものとすれば、当時としてはかなり値段が張るものだったのだろう。

 その時、七海の脳裡に浮かんだのは、これを手にして歩く父の姿だった。

 母がこんな無骨な物を持つはずもない。

 10年以上も前に他界した、2人の祖父の遺品とも思えない。

  なぜなら、父がとても几帳面だった記憶が残っている七海にとって、今、手にしている物はそんなイメージと余りにも一致するからだ。

 裏表を返してじっと観察した七海はこのカバンが非常に気になって仕方がなかった。

 松葉杖にしてもそうだが、父の遺品が余りも少ないことも七海の興味を沸き立たせた。

 七海はカバンをそっと自分の頬にあてた。

 父の温もりを感じるような気がした。

 父が吸っていたハイライトの香りがする──そんな思いに浸った。

 そんな父への郷愁とともに、もう1つ、七海が興味をそそられたのは、これだけの鍵をかけているその意味だ。

 中身はよっぽど大事なモノが入っている──そう考ゆるんが自然やわ。

 七海の頭は好奇心で一杯となった。

 しかしその一方で、開けてはならない、という声が頭の中で聞こえた……。

 自分が知ってはならないものがここにある──そんな思いもまた心をざわつかせた。

 さらに、この鍵と、父の仕事との間に大きなギャップが脳裡でせめぎ合った。

 母は、いつものように昨日も、父の生前の仕事について私にこう説明した。

──県庁は県庁でも、関連の組織や。

 その言葉からは、これだけ厳重に鍵をかけるような“組織”をどうしてもイメージできないのだ。

 階下で物音がした。

 真っ先に七海が気づいたのは玄関が急いで開かれる音だった。

 母が戻って来たのだろう。

 忘れ物にでも気がついたのかしら……。

 しかし、観月祭の前の準備の最中、母が自宅に一時的にも戻って来たことなどこれまでに一度も──。

 七海は、自分はここにいてはいけないのだ、となぜかそう思った。

 顔を歪めながら松葉杖を使って何とか納戸を出た七海は急いで廊下を進んで自室に向かった。

 部屋のドアを閉めた直後、階段を駆け上る音が聞こえた。

 七海はドアに耳をあてた。

 その足音は忙しないものだった。

 しかも階段を駆け上げる、というそれだった。

 七海は耳をそばだてた。

 ドタバタという音の後で、何かが開く音が聞こえた。

──さっきん納戸やわ……。

 七海はそう確信した。 

 すぐに今度は何かが閉まる音がしたと思った直後、階段を駆け下りる音の次に、玄関方向へ走る足音を七海はっきりと耳にした。

 玄関のドアが閉まる音がしても、七海はしばらく辺りの音を聞き入った。

 突然、机の上に置いていた携帯電話が振動した。

 今、それに対応する気にはなれなかったが、迷った末、とりあえず、スエットズボンのポケットに放り込んだ。

 静寂が完全に戻ったことを確かめた七海はもう一度、松葉杖を手にして廊下へと出てみた。

 向かったのはもちろん納戸だった。

 納戸はきちっと閉められていた。

 ギィーという注油が行き届いていない蝶番の音とともに七海はそっと納戸の扉を開けた。

(続く)
★第57話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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