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漫画家の母を見つめて 山崎デルス

文・山崎デルス  (フリーランスカメラマン)

リスボンで暮らし始めて4年目、母の描いた漫画『テルマエ・ロマエ』がとある漫画雑誌に掲載された。作品を見せられた時はその素っ頓狂な内容に驚いて、頭の正常な人間の発想ではないな、というのが素直な感想だった。だからまさかヒットするなどとは想像もしていなかった。

程なくして、母の夫で私の義理の父であるベッピは研究の拠点をシカゴ大学へと移し、母と当時14歳だった私は中学卒業までポルトガルに残ることになった。母が忙しくなったのも、その頃からである。『テルマエ・ロマエ』は1巻が発売されるやいなや重版がかかり、わずか数ヶ月後には「マンガ大賞2010」と「第14回手塚治虫文化賞」を同時に受賞した。私も母も、日本で何が起きているのかさっぱり把握できなかった。

リスボンの中学校を卒業後、母とシカゴへ引っ越した。6年間も過ごし、やっと現地の言葉や文化が身についたポルトガルを離れるのは心苦しかったが、そもそも私にとって国々を跨ぐ引っ越しは当たり前のことだったので、自分の意思通りにならない人生の展開について深く考えない癖がついていた。

シカゴの高校では3ヶ国語が話せるからという理由で、IBプログラムという進学コースに入ることになった。アメリカの教育水準はリスボンの教育レベルとは比較にならなかった。私は毎晩、山のような課題とテスト勉強に時間を費やし、睡眠時間は毎日3時間足らず。一方、シカゴ大学で研究を進めていたベッピも、授業の準備と論文執筆に明け暮れ、日に日にストレスを溜めていくようになった。

『テルマエ・ロマエ』の実写映画化が決まったのは、そんな慌しさの最中だった。母の忙しさはピークに達し、彼女に構ってもらえなくなったベッピは漫画を恨むようになり、毎日何らかの小言を母や私にぶつけてくるようになった。本人がいる前で母と日本語で喋っただけで「自分にわからない言葉で喋るな」と怒ることもあった。イタリア人であるベッピは家族至上主義者であり、親や祖父母から甘やかされて育ったこともあって、私から見ても幼いと感じられる言動が多かった。そのために情動に身を委ねている彼を、手のかかる弟のような存在だと内心で思うようになっていった。21歳という年齢で母のような強烈な女性を妻にしようと思ったのも、きっと若さゆえの先を読まない衝動だったのだろう。だから私は、彼からどれだけ悪態をつかれようとも気にはならなかったし、夫婦間での喧嘩が頻発しても平穏を保つようにしていた。

そんな私でも、1度だけ堪忍袋の緒が切れたことがあった。大量の連載漫画を抱えて必死になっている母に対し、ベッピが「君はワーカホリックだ!」と怒りを噴出させたことがあった。漫画と家族とどっちが大事なんだ、と母に迫り「家族は大事でも漫画はやめられない」と答えた母に激怒したのである。漫画家という職業がどれだけ過酷かということを、リスボン時代に目の当たりにした私と違い、父は漫画の世界の厳しさを全く理解していなかった。

母は何も気にしていないような素振りを見せたが、心の底から落ち込んでいるのは一目瞭然だった。母の収入のおかげで、経済的な負担を抱えずに家族3人で生活できていることを踏まえると、どうしても腑に落ちなかった。若い頃から散々苦労し、やっと絵で生活できるようになった母のことを思うと、無性に腹が立って、気がついたときには彼の部屋に飛び込んで「漫画を舐めるな」と声を上げていた。自分でもそんなふうに反発できることが意外だったが、動揺したベッピはその日以降、漫画に対して逆上することは無くなった。

私達はどちらかと言うと、それぞれの年齢が14歳違いということも含め、家族というよりは個々が集まった生活共同体である。家族とはこうあるべき、という理想や思い入れがないから「こんなはずじゃなかった」という落胆は経験したことがない。どんな思いがけない顛末も許容範囲内。誰かに頼らずともひとりで旅をしたり、生きていける気楽さも、こうした経緯がもたらしてくれたものだ。

現在はコロナ禍となり、以前のように写真を撮りに旅に出かけることはできなくなった。しかし日本に止まることもまた、日本国籍である自分のアイデンティティを見直す、良い機会だと捉えている。

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