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小説「観月 KANGETSU」#47 麻生幾

第47話
合同捜査(7)

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※本連載は第47話です。最初から読む方はこちら。

 虚を突かれた涼は、それでも何とかすぐに気分を立て直した。

「それは、熊坂洋平の経歴に、しんけん(非常に)不審な点があるからです」

 涼が言った。

「経歴?」

 ペンを片手に身構える砂川が真剣な眼差しを向けた。

「結論から言えば──」

 身を乗り出した正木が続けた。

「今、ここん(こちらの)調べ室で、熊坂洋平と名乗りよん男は、こん世には存在せん──」

 目を見開いた萩原は頷いただけでその先を促した。

「公的に、自らを証明できる資料も登録もないんです」

 正木が説明した。

「戸籍や住民票は?」

 聞いたのは砂川だった。

「ありません」

 正木が平然とした表情で応えた。

「では、妻の久美も何も?」

 砂川が続けた。

「久美についちはすべてきちんとあります」

 正木が言った。

「ではそこに熊坂洋平のことがあるはずでは?」

 砂川が拘った。

「熊坂洋平の住所は東京にありました。しかし虚偽んもんでした」

 正木が躊躇わずに言った。

「そうなると、資料が偽造されたと?」

 萩原が割って入った。

「わかりません。当時の関係者を探るんあ物理的に困難ですし、資料も保存期間をとっくに過ぎちょん」

「しかし、店を経営していたとなると、そんな状態ならば、役所が黙ってないでしょう?」

 砂川は納得できない風のままだった。

「あらゆるものが妻名義で、妻がすべて対応してきました」

 砂川が何かを言おうとしたのに正木が先んじて言った。

「”自称”、熊坂洋平にも、妻が亡くなったら、店はやっちゆけんごつなるんやねえんかと、もちろん聞きました。しかし、黙秘です。というか、雑談には少しだけ応じるだけで、すべて完全黙秘です」

 そう言ってから正木は、涼に頷いた。

 涼は横に積み上げていた資料群の中から一枚の紙を萩原の前に滑らせた。

「これまで、熊坂洋平が、我々との雑談に応じた言葉のすべてです」

 萩原は軽く頷いてから紙を手に取った

 その横から砂川が覗く格好となった

〈私は妻の死に関する責任がある

犯人は彼女(島津七海)の近くにいる。だから私が守ってやらないと

(私を)早く帰してくれ。そうでないと彼女(島津七海)の生命が危ない!

(私は島津七海の)父親なんてとんでもない

 私は自分の妻を守れなかった〉

「この意味をどこまで読解を?」

 萩原から紙を手渡された砂川が訊いた。

「残念ながら皆目──」

 正木が力なく首を左右に振った。

 しばらくの沈黙後、正木が口を開いた。

「なんかなし、こちらん事件は、田辺智之ちゅうことになろうかと思いますが、それでもしっくりいかんことが多すぎる。例えば、島津七海に対する自分の行動がいっぺん、邪魔されとうくらいで殺人を犯すもんか。また、熊坂洋平じゃねえで、なしそん妻である久美ぅ殺したんか。まだ、状況証拠さえもねえ――」

「それらを解決するには、熊坂洋平の正体を突き止めること、それにかかっている、そう思ってらっしゃるんですね?」

 萩原が訊いた。

「特別捜査本部ではごく少数意見やけど──」

 正木と萩原は苦笑し合った。

「私の方でも、アリバイが証明された熊坂洋平が本犯でないにしろ、今のお話を聞いていると、正木警部補の見立て通り、これらのことはすべて“深い根っこ”で繋がっていると確信しました。熊坂洋平の身元追及は極めて重要なことです」

 萩原がそう言って目を輝かしてさらに続けた。

「さっき、偽の住民票が東京となっていた、とありましたね。こっちでも動いてみます。何か関連するものがでてくるかもしれません」

(続く)
★第48話を読む。


■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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