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小説「観月 KANGETSU」#19 麻生幾

第19話 

 ガス橋殺人事件 (3)

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警視庁 池上(いけがみ)警察署

「まず、鑑取(かんどり)捜査第1班、本部専従班、萩原警部補。池上署刑事課、砂川(すながわ)巡査部長――」

 捜査第1課長である水島警視正の言葉で立ち上がった萩原と砂川は互いに向かい合い、機敏な動作で深々と頭を下げた。

 椅子に戻った萩原は、壁を覆い尽くす模造紙に書き込まれた事件概要を見つめながら、鑑取捜査1班長として、被害者の鑑(かん)、つまり人間関係の捜査を開始する時にいつも感じる思いを抱かざるを得なかった。

――これから、マルガイのどんな人生を知ることになるのだろうか。

 殺人犯捜査とは、マルガイにしても、その人生のすべてを洗い出すからだ。69歳という年齢からして、幾つもの喜び、悲しみが積み重なっていることは想像に難くない。

 そして、なぜ殺されなければならなかったのか、その理由こそ重大である。タタキの可能性が低いことから、被害者と鑑があるかもしれない、つまり人生のあるシーンと絡んでいるのか、それとも通り魔的な犯行なのか……。

 萩原は、ついさっき、霊安室で向き合ったマルガイの姿を脳裡に蘇らせた。

 遺体に見慣れているはずの萩原にとっても、その有様に、「惨い!」のひと言が思わず口に出た。

 常に冷静な筆頭警部補である梶原(かじわら)にしても、「ふざけやがって!」という言葉が迸(ほとばし)った。

 井村庶務担当管理官が表現していたように、凶器の刃物ようの物がまさしく被害者の全身を襲っていた。しかも、その凶刃は、両方の頬を深く剔(えぐ)ってもいたのだ。

 立ち会った検死官の見立てでは、それら全身の傷にはいずれも生活反応が残っているとした。つまり、犯人は、生きたままの被害者を、徹底的に苦しめるかのように残虐に切り裂いたのだ。

 強い殺意を感じる、と言い方でさえ、犯人の残忍性は表現できないと萩原は強く思った。

 初動と初期捜査では頭を使ってはいけないという教えを思い出しながらも、萩原は思わざるを得なかった。

――少なくとも通り魔とはどうしても思えない。

 被害者の生活、もしくは人生そのものがここまでの凶行をさせたという気がしてならなかった。もしそうであるのなら、鑑取捜査1班長である自分の責任において被害者の人生のすべてを知らなければならない、と萩原は自分に言い聞かせた。

 初動での第1回目の捜査会議を終えた萩原は、捜査本部のデスク主任となった筆頭警部補の梶原の元へ、砂川を連れて駆け寄った。

「会議では、私が聴取したマルガイの妻、恭子(きょうこ)は、襲われた理由について心当たりはない、という供述をしている旨、報告しましたが、どうも、妙なんです」

 萩原はずっと頭に引っ掛かっていた疑問を口にした。

 捜査会議で、根拠もないこんなことを口にしてみようものなら、水島課長から廊下へ出されることは今更言うまでもない。しかし、デスク主任を前にしてのみ、こんな雑談は許されているのだ。

「言ってみろ」

 梶原は、付き合ってやるぞ、という表情で萩原を見つめた。

「ありがとうございます。で、そのことなんですが、恭子が、何かを隠しているような気がしてならないんです」

「様子がおかしいと言いたいんだろ? しかし、夫の死を前にして、それも殺された、という衝撃の前では――」

「精神が混乱している、そのことは分かります」

 梶原の言葉を遮った萩原はさらに続けた。

「実際、彼女の泣き腫らした目は虚ろで、視線さえ定まっていませんでした。ですが、夫の仕事についての話題に入った途端、彼女の雰囲気は一変したんです」

 萩原は数時間前の、自宅の居間で恭子と相対した時の様子を脳裡に蘇らせた。

「ご主人は、昔はどこにお務めされていたんですか?」

 萩原が訊いた。

「公務員でした」

 それまでか細い力ない口調で話していたのが、突然、顔を上げて語気強い言葉となった。

(続く)
★第20話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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