見出し画像

「歴史警察」を乗り越えて、〈マクロな知〉の再評価が必要だ|辻田真佐憲

★前回の記事はこちら。
※本連載は第20回です。最初から読む方はこちら。

                  * 

 今月、歴史学者の前川一郎・呉座勇一、社会学者の倉橋耕平との共著で『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)を上梓した。オンラインではすでに販売されており、店頭でもこれから並びはじめるはずだ。

 本書は、立命館大学で昨年9月に行われたシンポジウム「なぜ『歴史』はねらわれるのか?」がもとになっている。猖獗をきわめる歴史修正主義について、たんに分析・批判して終わりではなく、「結局、どうすればいいのか?」というより実践的な問題にまで踏み込んだ意欲的な試みだったが、そのスリリングな議論はそのまま紙面にも生かされている。

 筆者は、個別の論考と座談会で、〈マクロな知〉の重要性を指摘した。いうまでもなくそれは、本連載でたびたび指摘してきたことと同様である。

 人間は、限られた時間や能力のなかで社会生活を送る。そのため、専門的に詳しくなる分野もあれば、そうでない分野もある。たとえば、プログラマーはプログラミング言語には詳しいが、漢文には詳しくないかもしれない。花屋は植物には詳しいが、恐竜には詳しくないかもしれない。

 あらゆることについて、厳密かつ精緻な知識を提供できる賢者などどこにもいない。われわれは、専門分野については確かなことがいえるけれども、それ以外については、大雑把で曖昧な発言に終始せざるをえない。

 では、詳しいこと以外沈黙しなければならないかといえば、けっしてそうではない。社会生活を営むうえで、世界や社会の全体について考え、語らなければならない場面がかならずやってくるからだ。

 選挙を考えてみればわかりやすい。経済対策で減税を主張するいっぽう、人種差別を煽っている候補がいたとしよう。経済の専門家は、減税の是非だけを語り、専門外の人種差別についてスルーするべきだろうか。あるいは投票行動においても、専門分野のみを判断基準にするべきだろうか。

 もちろん、そうではない。たとえ、厳密で精緻な理由づけができなくとも、人種差別を煽るような候補は除外しなければならない。そういう良識を養うものこそ、〈マクロな知〉というものである。これは〈評論家の知〉や〈全体的な知〉と言い換えてもよい。

 だれもが〈ミクロな知〉に閉じこもり、〈マクロな知〉を蔑ろにすれば、今日のような民主主義社会はたちまち崩壊してしまう。〈ミクロな知〉とともに〈マクロな知〉も大切にしなければならないゆえんもここにこそある。

 同じことは、歴史についても当てはまる。専門家でもマニアでもない多くのひとびとは、歴史についても〈マクロな知〉を求めている。「これ一冊でわかる」「〜全史」といったたぐいの本は、そのような需要を満たすものであり、一律に排除すべきものではない。

 にもかかわらず、今日、遺憾ながら「自粛警察」ならぬ「歴史警察」が跋扈している。かれらは、日々SNSで特定のワードで検索をかけるなどして、相手を晒し上げ、細かい間違いをあげつらい、「不勉強だ、これも読め、あれも読め」と迫る。なるほど、間違いを訂正するのはけっこうだが、そこでは〈マクロな知〉はほとんど敬意も払われず、もっぱら〈ミクロな知〉のみが称揚される。

 とはいえ、〈マクロな知〉にたいする需要は絶対になくならない。そのなかで「歴史警察」が攻撃の手を止めなければ、そのあとにやってくるのは、間違い探しなどまったく意にも介さない、「歴史修正主義で何が悪い」と開き直る、完全にデタラメな論者の台頭だろう。いや、すでにそうなっているのではないか。重要なのは、本連載でもさんざん指摘してきたように、〈マクロな知〉の排除ではなく、その水準向上なのである。もちろん、そこには〈ミクロな知〉との協働も欠かせない。

 歴史への取り組みには、アカデミズムのそれとともに、ジャーナリズムのそれがあるといわれる。雑誌などで、昭和史研究者やノンフィクション作家らによって展開されてきたものがそれだ。この「ジャーナリズムとしての歴史」には、一般向けにまっとうな物語をわかりやすく提供することで、デタラメな物語の拡散を食い止める機能があったのではないか。

 そここそまさに「歴史警察」の狩場にもなっているわけだが、筆者はその復興こそ主張したい。つまり、歴史における〈マクロな知〉の再評価である。

 こういうセンシティブな問題について、アテンション集めや憂さ晴らしの場になっているネット空間では、なかなか生産的な議論ができない。今回、活字で再論できたことはありがたかった。

 もとより、以上は筆者個人の考えにすぎない。共著者各位がこの問題にどのように応えているかは、ぜひ本書を手にとって確認してもらえればと思う。

(連載第20回)
★第21回を読む。

■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください